第272話 隠し事はほどほどに
・このエピソードは高校二年の初めくらいのお話です。
「何を隠してるの?」
学校帰りに、駅地下に寄って買い物をした碧が家に帰れば、くるみが訝るような視線を注いできた。
くるみの家族が仕事の都合で自宅にいない日というのが往々にしてあり、そういうときはうちで一緒に晩ごはんをするのが日常だ。合鍵も渡してある。だからこうして当たり前のように碧のマンションにいることはなんの問題もない。
学校の生徒に目撃されないためという暗黙の了解で帰りは別々。くるみは授業が終わってまっすぐここに来たようなので、碧を出迎えるかたちになったのだろう。
問題があるとすれば、なるべく見られないようにと、視線を免れるかのごとく後ろ手に持っている紙袋で。
——うん、どう考えても怪しいよなこれは。
「別に何も隠してない……よ?」
碧が苦しまぎれながらにそういえば、いつもはおっとりしている垂れ目が、ますますじいっと細まる。
「……?」
「……」
沈黙の往来。
さすがに深掘りもやむなしか、と身構えていると。
「そう。まあいいわ。ほらコート脱いでらっしゃい」
結局のところは、深追いせずに関心を片づけてくれたらしい。
くるみが柔和に相好を崩したので、碧はほっと一息吐く。
こういうことに関しては引き際の判断が早い少女だ。知られたくないことならわざわざ知ろうとしない、と決めてくれたのだろう。
言われたとおりコートを玄関にかけてからダイニングに赴けば、野菜とクリームを煮こんだまろやかな匂いが広がっていた。
今夜はシチューのようだ。厚手のホーローの鍋がキッチンに鎮座している。
碧は思った。
——なら、今日買ってきたものはぴったりだな。
——朝ごはんあたりに残ったシチューと一緒に……うん。おおいにあり。明日が待ち遠しいなあ。
実のところ碧には近頃、あまり他言したくない日課がある。
帰り道、駅地下のベーカリーに寄ることだ。
それならなんのやましさもないのではないか、ということ勿れ。このベーカリーは夕方の十七時半というやや早めの時間に、半額のシールを貼り始める。碧が買ってきたのはまさしく、そのシールが貼られた可哀想なパンだった。
帰りがけの時間にお値打ちになる、と分かってからはよく寄り道するおかげで、貰ったポイントカードはそこそこ貯まってきている。今日は家に忘れてしまったからスタンプを押してもらえなかったけど、来月あたりには全て埋まる予定だ。
だけどそれだけならことさら恥ずべきことでもないし、くるみも「お財布に優しくていいことだわ」と納得をするだろう。相当な名門一家の娘である彼女でも、こういうところでは案外に節約を好む現実主義なのだ。
では碧はいったい何を嫌がっているかというと——
「そういえば碧くん」
ふいに、くるみがぱすぱすとスリッパを鳴らし近寄ると、何かを差し出してきた。
「これリビングに落ちていたんだけれど……忘れ物?」
ただの親切心からくるみが手渡してきたそれはまさに、家においてきたはずのポイントカードだった。
「あっ!」
と、おかげでぎこちない驚きをしてしまう。
くるみは碧のリアクションに不思議そうにしながらぱちくり瞬きした。
「そんなにびっくりしなくても。これどこのポイントカード? ずいぶんスタンプ貯まってるみたいだけど」
「それは……ひよこパンの……」
「ひよこパン?」
「……」
さすがにもう隠し事にできないところまで来てしまったので、碧は買ってきたものを机に並べて、事情を明るみにすることにした。
碧が近頃よく持ち帰りしていたのは、駅地下の看板商品であるひよこパン。
ふっくら優しいレモンイエローの丸いパンに、とうもろこしの粒と黒胡麻でひよこを表現しているパンだ。
初めは出来心だった。気まぐれで寄ったところ半額のシールが貼られているこれと目があって、そのまま見捨てることができずに買ってみれば、味のほうもなかなかに美味しいではないか。
気づけば学校終わりにはこれを買って帰るのが日課となっていた。あとちょっとでスタンプが全て埋まり切るくらいに。ひよこを助けるという大義名分も手伝っていた。
つまるところ碧は、こんな如何にも女子受けしそうな可愛いものを好んで買い続けた男なんて、くるみに思われたくなかったのだ。
「別に思わないけど?」
だというのに、くるみはあっさりと、実に淡白にそう言ってのけた。
「むしろてっきりベッドのしたに隠すものを買ってきたのかと」
「なわけっ!!」
かと思えばとんでもないことを言い出す。
げふんと咳払いをして平静を取り戻してから、続きを言う。
「あのね。今時そんなべたなところに隠すわけないでしょ」
……スマホのなかには、ないとは言わないけど。
くるみは、手で口許を抑えてくすっと笑ってから首をゆるりと振る。
「碧くんだってお年頃の男の子ですもの。なにも後ろめたいことがないなんて考えないわ。でもこんなに可愛いひよこちゃんをひとりで秘密にしてたのは、ちょっとずるいなぁって思うかも」
「……怒ってる?」
「私もそのひよこちゃんの味が気になるから、明日一緒に買いに行ってくれたら怒りません」
「だけどもし……」
学校の誰かに見られたら、と言いかけて、やっぱり止めた。
代わりにぽふっとくるみの髪に手をおきながら、頷く。
「いいよ。土曜だし。もしクラスの誰かに会ったら何て言うかだけ考えないとな」
「この人とは一緒に明日の朝ごはんを買いに来ただけですーって言えばいいでしょ?」
「事実だけどあらぬ爆弾がありそうな……まあいいか」
それだと一緒に寝泊まりした結果のごはんに聞こえなくもないが、くるみはきょとんとするばかりで、あまり純真なのも困りものだなと碧は眉を下げて笑った。
いつかその言い訳が、本当になる日が来るといいなと、思いながら。




