第270話 引っ越し前夜(2)
気を取り直して、夜が訪れる前に出来ることを分担して全て終わらせたふたりはさっと晩ごはんを取り、交代でさくっとシャワーを済ませた。
以前のクリスマス・イヴ——お泊まりで碧のシャツを借りたとき——の教訓を生かし、あれから寝巻きとして丈の長いネグリジェをこっそり私物箱に潜ませていたため、それに着替える。
明日が引っ越しの本番。
そのために目覚ましのアラームは六時半に掛けていて、廊下へ出ながらスマホを見れば今は二十二時。
深夜までいちゃいちゃしない——というかする時間も余裕もないことは分かっているんだけど、一緒に寝ることそのものは、やはり緊張をもたらしてきて。
湯上がりのせいだけじゃない火照りを頬に昇らせたくるみが、段ボールだらけで半分しか開けない扉を控えめに押した。
ひょこっと様子をうかがうと、荷造りの箱の山にかこまれたベッドに、碧はころんと寝そべっていた。
ライトは光量が絞られ、碧のまわりはぼんやりと明るい。引っ越しの片づけのために丸一日働いて、重たいものも運んで、さすがにくたびれたのだろう。枕に頬をつけてスマホを弄りながらすでにうとうとしたみたいだが、くるみがそばに近寄る気配で、うたた寝を中断してぱちりと目を開いた。
黒曜石の瞳の真ん中には、しゃちこばったくるみが映っている。
どきっとしながら小さく尋ねた。
「その……お隣、失礼します」
「うん」
彼の提案なのだから返事は決まってるようなものだが、心構えとしての許可をひとつ。
あまりベッドを揺らさないように、おそるおそる体をすべりこませると、碧は後ろにずれて、くるみのための空間を解放してくれる。
シーツには、温もりが残っていた。
それに普段碧が寝ているところだからか、とてもいい匂いがする。晴れた日の、優しいお日様のような清潔な香りのおくに、男の人の匂い。
——こうしてると……抱き締められているみたいで、なんだか……
どっどっと高鳴り続ける心拍は、落ち着くそぶりを見せない。
むしろ、どんどんと脈打つ感覚をはっきりさせていく。
——今からこんな調子だと、いつ眠れるかわかんない……
どぎまぎしている様子を見てか、碧がブランケットを引っぱり上げて、くるみの肩まで掛けてくれた。
「寒くない? 大丈夫?」
「あ。ありがとう。だいじょば……ぶ」
「……寒くて舌縺れた?」
くるみはさっと頬を赤く染めた。
「大丈夫! このネグリジェ、結構あたたかいから平気。……うん、平気なの」
自らに言い聞かせるように言いのけたくるみは、ブランケットのしたで、もぞりと身を捩らせる。
「碧くんはお疲れでしょう。明日も早いしさきに寝ていいんだからね」
「んーん。くるみが寝るまではおきてることにする」
「え? なんで?」
「何でって、くるみのことずっと見ていたいから」
この大人しい青年のいったい何処から出てきたんだというような台詞をさらりと言うと、碧は枕に片肘で頬杖をついて、宣言どおりにこちらを見つめてきた。
——いちいちドキドキさせてくるこの人……!
きゅんきゅんと余計に高鳴る鼓動を持て余しながら、もうなにか言い返す余裕もないくるみは、ブランケットを、波打つ口許が隠れるところまでぐいーっと引っぱる。
そしてそんな仕草のあいだも、碧は事前に告知したとおり、一瞬だって目を逸らすことはない。
見詰めるまなざしは、ただひたすらに優しいもの。穏やかな熱を帯びたまろやかな目許で、ほどけた甘い笑みで——くるみが愛おしくてたまらないといった柔い表情で、こちらをじっと見守っている。
いつだったか、昔は彼を〈読めないひと〉と評していたが、今は違う。
表情だけでこんなにも、わかりやすい。
碧はいつだって言葉を尽くして、尋常じゃないくらい大きな愛情を、躊躇いもなく伝えてくれる。くるみの想像する最大限をいともたやすく凌駕する。
けれど何よりもこの目が〈好き〉と、言葉よりも雄弁に語っていた。どこまでも広くて大きくて……まるで果てのない夜空のように、くるみの全てを包みこんでしまうような不思議なおおらかさがある。
女子校育ちのくるみは殿方というものをあまり知らないし、縁談を是とする母親ともそういう話はしなかった。
けれど代わりに家政婦の上枝は、交際相手を間違えないための“最低限の物差し”というものを、いくらか教えてくれた。将来のくるみが困らないために。
だからこれだけはわかる。好きをこれほどまで真摯に一途に伝えてくれる人はすごく珍しくて、都会で四つ葉どころか五つ葉のクローバーを探すくらいには見つけ出すのが困難ということに。
今の碧はその凄まじさを自覚していないだろうけれど、それでいい。
他の誰にも知られたくないから、くるみが知っていればそれでいい。
——愛されているんだな……
大きな愛情をたっぷりと享受し、いつしかくるみの頬にもじんわりと熱が宿ってきた。
そろそろあっぷあっぷに溺れそうだったので、心の息継ぎのために碧のほどよくたくましい肩をぺちぺち叩いてストップさせると、彼が気持ちを代弁する。
「ん? ……あんまり見られると、恥ずかしくて寝れない? じゃあこうしよっか」
今度は、赤ちゃんをあやすように背中をぽんぽんとさすってくる。
「ちっ違うの。寝かしつけられたいわけじゃなく。……小さい子扱いには抗議します」
「そうだねくるみは大人だもんねー。まだ眠くない?」
こくり、とくるみは頷いた。
「寝られそうになるまで甘えておく?」
こちらが気遣ってるかもしれない、ということへの、気遣いだろう。
「じゃあ……お言葉に甘えて、く……くっついちゃうからね」
上擦らせながら、しどろもどろに宣言をしたくるみ。
心構えをし直してから「えいっ」と一気に距離を詰めた。
吐息が絡まるくらいまで近づいて、そのまま額をぽてりと彼の懐に預ければ、腕がくるみの体にするりと回された。
静寂に、衣擦れだけが耳をくすぐる。
思うままにぎゅってしていいのに、それくらいで壊れるほどやわじゃないのに。碧は慎重に慎重を重ねて、そおっと抱き寄せてくる。
くるみの体格が華奢だからと手ごころを加えているのはわかる。
だけど彼我にある隙間ですら、くるみはやっぱりもどかしい。今より近くなりたくて、ぺたぺたと掌でふれておねだりをした。
「……もっと」
「ん。これくらい?」
「もーっとぎゅーってして?」
「はいはい」
互いの密着が深まるに伴い、さきほどは時折ふれるだけだった足も絡みあう。
どちらからともなく、くるぶしに尋ねるようにちょんと突いたり、親指で甲をなぞったりしたりして戯れあう。
つまさきで伝えるいたいけな愛情表現を順番にしあって遊び、くるみがくすぐったさでふるりと震えた頃に、碧が小さく笑った。
「今日のくるみはわがままだね」
「碧くんが甘えていいって言ったんだもん」
「文句じゃなくてね。ただくるみのわがままが嬉しかっただけだよ」
「……なら、好きなだけ言ってくれて構わないけど」
目を閉ざして碧のシャツに埋まる。
ふれあったところは火傷しそうなほどなのに、火照りすぎて、どっちの体温なのかも分からない。
「もしかしてくるみはこういうこと、もっといっぱいしたかった?」
「そ、それを言わせようとするのは反則だと思います……」
「望んでた?」
首肯するのも恥ずかしい問いだが、嘘でぼかすつもりはもとよりない。
くるみはむにむにと口を波打たせながら、なんとか返答を捻り出す。
「うぅ……はい」
「なかなか出来なかったもんな。まあこれからは毎日出来るわけだけど」
「毎日」
思わず復唱してしまうと、碧が悪戯っぽく笑う。
「あれ? 僕が週に一度で十分な男だと思ってた?」
「ちが……わたしもこうしてくっつけるのは、嬉しいなって、それが毎日ならもっと嬉しいって思っただけで」
——あれ?
言葉に出して、はたと気づく。
——碧くんと? こういうこと? 毎日……?
これまで考える余裕はなかったけれど、言われてみれば実像がくっきりと浮かび上がる。
ふたりで一緒に暮らすってことは、暮らしに責任を伴う事の引き替えに、好きなことを好きなだけ出来ちゃうわけで。言葉にしづらいような夜も、いつか訪れるわけで。
——それを、碧くんも望んでくれてるの?
ぼーっと逆上せながら、いつかの彼の言葉を記憶から呼びおこす。
〈その代わりに卒業して大学に行ったらその時は……〉
一生忘れられない聖夜に交わしてくれた、ひとつの約束。
それは、碧がくるみを想う愛情のひとつの証明。
〈その時は……僕のものになってくれると嬉しい〉
つき合い始めてから一年以上。お互い初めてだらけで手探りしながらでも、ゆっくりと時間をかけて、順調に日々をはぐくんでこれたと思う。
九月六日に切ったスタートラインは、もう見えない。
そこから始まった長い長い坂道を碧とくるみは今、手をつないで歩いている。
見渡せば近くには、どんどん関係を深めていく同年代のカップルはたくさんいたはず。くるみ達のような速度制限は掛けずに追いこして、時には羨ましく映るほどあっという間にさきに行ってしまって。
けれど、世論とか常識、ましてや誰かの見解なんて関係ない。
くるみ達は焦がれることはあっても焦ることなく、互いを尊重してここまで来た。
相手への純度の高い愛と尊重と思いやりだけで、二人の時間を降り積もらせてこれた。その積み重ねがあるから……〈これまで〉と〈これから〉に挟まれた、この覚束なく曖昧な時間がこんなにも愛おしい。
——引っ越したらどんな暮らしが待っているのかな?
——毎朝目が覚めたとき、どんなふうに挨拶をするのかな?
今はただ、明日が嬉しくて待ち遠しくて。
でもやっぱり……
「碧くん」
ささやくように名前を呼ぶ。
けれど届かないのかいっこうに返事はない。
焦れったくなって、見上げて、ぎょっとした。なんとも器用なことに、頬杖の格好のまま碧はまたうつらうつらしていたのだ。
——本当にどんな時でもどんな格好でも寝れちゃうのねこの人……。
呆れてしまうも、なだらかな頬に落ちる睫毛の影につい目を奪われる。
このまま寝かせてあげたい気持ちもあったけれど、くるみは引っ越しまえの最後の夜に、どうしても言いたいことがあった。
「……碧くん!」
がばっと勢いよくブランケットを跳ね退けて、正座になる。
「え!! なになに」
一瞬驚きを見せた碧もまた、目を袖で擦りながら、いったい何事かとベッドでゆるく胡座になった。いつもと様子の違うくるみが発言権を求めて小さく挙手しているのを見て、優しく相好を崩す。
「どうしたの? 僕に何か相談事でもあるの?」
「はい。碧くんにお話があります」
「お話?」
人生の節目は迎えた。あの日くれた約束は、まもなく期限切れになる。
くるみの震える指がそっと伸びて、碧の頬にふれる。
もどかしかった。
恋情というものを知れば誰もがきっと味わうであろう、この感情を正しく言い表す言葉が、どうして百年たっても千年たってもついぞ生まれなかったんだろう?
だからくるみが探すしかない。
探して手渡すしかない。
大好きな、貴方へ。
————世界で一番大切な愛の言葉を。
「碧くんはこれまで、私のことずっと見ててくれてた。守ってあげたいとも言ってくれた」
でもと続ける。
「それだけに留めてなくてもね、もっと手を伸ばしてくれても、きっと罰は当たらないって思うの。だって私も、碧くんのこと大好きだもん。あなたを好きになってよかったって、心の底から思うもの」
きっと今のくるみは、世界で誰よりも幸せな自信があった。
「もうひとつだけわがまま言うね。……碧くんと引っ越したら、毎日、同じベッドで、一緒に……寝たいなって、思うの。どんな日でも毎晩一緒に居て、朝を迎えたい」
日本語は世界で最も優れた言語の一つと言われるけれど、それでも言葉は気持ちには追いつけない。感情が大きければ大きいほど、欠片も取りこぼさず表現することは困難だ。
それでも伝えたいものがあるから。百年たっても千年たっても人は、追求することをやめなかった。
正しく拾ってくれたかは分からないけれど、初めこそ目を丸くして驚きを示していた碧は、すぐに目を細めた。
「……うん」
ふやけた、笑み。
次の瞬間には、惹かれあうように距離がなくなり、くちびるが塞がれていた。
しばしのキスを終えて離れてから、碧もくるみに倣ってか、小さく挙手をして発言権を求める。
「僕からも一つ提案してもいいかな」
くるみが頷いて許可を下せば碧は手をひざに戻し、真剣なトーンで言った。
「どんな日でも、毎日一度は、ちゃんとお喋りする時間をつくりたい。もしかしたらバイトとか試験とか就活とかで忙しくなる時がくるかもしれないけれど、それでも今日どんなことがあったか、いいこともそうじゃないことも、話して共有していきたいって思う」
きっと碧はくるみより、ずっと遠くを見据えている。
将来のことを考えて動いている。
だからだろう。出てきたのはただの了承じゃなく、仰々しく格式ばった挨拶だった。
「ふ……不束者ですが、よろしくおねがいします」
「こちらこそよろしくおねがいします?」
碧もまた、威儀を正すくるみに不思議そうにしながらも、同じ口調で返す。
それがむしょうにおかしくなって、ふたりで笑いあった。
ひとしきり肩を揺らして落ち着いてから、碧とまたシーツに倒れこむ。
「明日からたのしみだね」
「……うん」
くるみはカーテンの隙間からうすぼんやりと見える夜の街の風景に、引っ越し予定のマンションを思い描いた。
まだ物件情報の写真でしか見たことのない三階建。
あたたかみのあるブラウンの、小さな建物。
一番上の、階段のすぐ隣にあるのが、くるみ達の入居する三○一号室だ。
明日はうちからは大物家具として、ベッドと小さいテーブルと棚を持っていく。
空っぽの家に家具を運べば、憧れの日々がいよいよ始まる。
近くには大学。キャンパスライフでは、いったい何が待っているんだろう。
碧くんとの毎日は、どんなことが待ち侘びているんだろう。
——それはきっと想像もつかないくらい、幸せな毎日なんだろうな。
「おやすみ。くるみ」
「うん。おやすみ。碧くん」
段ボールにかこまれた狭い空間で、もうすぐ始まる暮らしの気配に浮き足立ちながら、二人で目を閉じた。
◼︎お知らせ
お読みくださりありがとうございます。第6章完結です!
ここで高校編は終わりとなり、次は大学編となります。
もしかしたら短編集を挟むかもですが……
本日は11/22で、いい夫婦の日に締めることができたのが嬉しいです。
近況報告のほうで後書きを掲載いたしますので、詳細はそちらにて。




