第269話 引っ越し前夜(1)
——引っ越しが、明日に差し迫っている。
もはや自宅のように慣れ親しんだマンションで、物を詰め切ったひとしきりの段ボールにテープで封をしたくるみは、一息吐きながらリビングを見渡した。
「うん……これでだいたい終わりかな」
すでに、家は段ボールでいっぱいだ。
後日ここは琴乃と千萩が住むことになるから、大物家具は置いていく。
だけど、碧がここで暮らすにあたってちょっとずつ収集され降り積もっていったもの、たとえばタイトルが気になって買い集めた本やくるみの私物のかご、いつもソファで二人を見守ってくれたハスキーのぬいぐるみなんかは、もう段ボールに仕舞われて、明日の訪れを息をひそめて静かに待っていた。
二年間の嬉しい思い出や懐かしい記憶のぎゅっと詰まった、宝箱のようだったこの空間は、もう整理がつけられて、すっかり空っぽ。
三月いっぱいで仕事を終えるカレンダーは取り外されているし、棚もがらんとしている。
寂寥とも明日への期待とも表現できる高揚を味わうように、ぼんやりと佇んでいると、玄関のほうから碧がひょこっと現れた。
「お疲れ様。こっちは玄関に運べるやつは運び切ったよ」
「碧くんのほうもおつかれさま。あと箱詰めまだで残ってるのはある?」
「バスタオルとか櫛とかそのへんかなぁ。でもそれは今夜も使うわけだし。とりあえず切りのいいとこまでは終わったってことになるか」
「了解。そうしたらちょっと早いけれど、休憩がてらごはんにする? 私お弁当持ってきたの」
トートバッグからランチボックスを取り出す。
鍋もカトラリーも昨日のうちに箱詰めしてしまったので、ここに来る前にあらかじめ仕込んでおいたものだ。
成城の自宅でキッチンに立っているところは、出勤前の母親に見られてしまった。
てっきり嫌味を言われるんじゃないかと身構えてしまったけれど、母は「上枝さんから教わったのなら心配はないわね」とだけ淡白に言って、そのまま仕事に行ってしまったのには驚いた。
きっと母なりに、今夜旅立つ娘のことを応援してくれているのだと思う。
今ある〈家族の正解〉を決めるきっかけを与えてくれた碧は今、弁当箱を前に目を輝かせており、くるみはほんのり苦笑してしまった。
「ありがとう……僕そこまでぜんぜん気が回ってなかったから助かるよ」
「どういたしまして。おにぎりの具は、明太子と昆布と唐揚げがあるからね」
折角暖かくなってきたことなので、ベランダの掃き出し窓を大きく開放して、その近くにクッションをひいてお弁当を広げるピクニックスタイルにすることに。
家が片づいて箱ばかりになったからか、妙に風のとおりがいい。どこかの民家から聞こえるFMラジオのトークを連れて、リビングから玄関のほうまで吹きぬけていく。
空気が白っぽい気がするのは、桜の開花が近いからだろうか。
「わ。だし巻き玉子。これ僕大好きなんだよね」
お弁当箱を開けた碧が、小さく歓びを零す。そのある種見当外れとも言える発言がおかしくて、ついくすりと笑ってしまった。
「知ってる。だからつくってきたの」
「今さらだけど、すっかり好みを掌握されてるよな……うちの母さんよりよほど熟知してるんじゃないか?」
そう言って目を細めて玉子焼きを頬ばる碧は、普段の彼からは考えられないくらいゆるみきった、幸せそうな表情をしている。
人に尽くすの好きだよね、といつも彼はくるみに言うが、その認識はちょっとばかり間違っている。
大好きな人相手だからこそ、そして彼がこんなに喜んでくれるからこそもっと喜ばせたいなと思って、こうして世話を焼いてしまうだけだ。
彼の健啖家っぷりは見ていて惚れ惚れするほどで、こうまで喜んでくれると彼女冥利に尽きるとうっとりしてしまう。
弁当箱と口をせわしなく往復する箸をじっと見ていると、さすがに視線に気づいたらしい碧が「?」と首を傾げる。
引け目からくるみは咄嗟にぶんぶんと首を振ってから、話の種を蒔いた。
「そういえば、鍵の受け取りは明日よね?」
「うん。明日のプランはまず鍵を貰いにいって、それから引っ越し先に家具を搬入かな。荷物そんなに多くないから、運ぶのは午前中に終わるとは思うよ」
「そっか。……あの——えと……」
言うか言わまいかまごついていると、碧が人差し指をぴんと立てた。
「もしかして鍵につけるキーホルダお揃いにしたいとか?」
「どうして!? 私まだ何も言ってないのに」
「くるみが言うか言わまいか迷ってるときは大抵おねがい事したいときでしょ? 話の文脈からして、明日のプランが知りたいんじゃないなら、これしかないかなって」
「ばか。勝手に分析しないのっ」
「落ち着いたら買いに行こっか」
「……うん」
お互いにふふっと笑い、生まれた何となしの静けさを埋めるように遠くの鶯が鳴いた。
お箸を持つ手を、差しこんだ陽がぽかぽかと温める。
こうして並んでゆっくりと穏やかなふたりの時間に身を委ねていると、思う。
かつて〈恋人同士〉という言葉から想像していたものと、今手のなかにある幸せは、案外違うものなんだと。
文学小説を読んで何となくこうだろうなと想像だけで決めつけていた恋愛は、少なくとももっとドラマチックで燃えるように烈しいもので、自分にいつか降ってくることに現実味を帯びてなんていなかった。
けれど、今は知っている。
彼に出逢うまでに知らなかった感情たちを、その存在を知っている。
くるみが碧を好きになって、いつしか抱いた気持ちは、もっと繊細で柔らかくて春の陽だまりみたいにあたたかくて——こんな幸せが細く長く一生続けばいいなと思えるような、そんなものだった。
こうしてただ一緒の空間にいるだけで、どうしようもなくくるみは幸せだった。
「そうだ」
碧がごくりとおにぎりを喉に下した。
からの、一瞬だけ間をおいてから辿々しくお伺いを立ててくる。
「その……今日このあとなんだけど……うちに泊まってく?」
「!」
予想していなかった言葉に、くるみはゆっくりと碧のほうを見る。
——〈ウチニトマッテク?〉
聞き間違いじゃない。黒曜石の瞳は、気恥ずかしさにかすかに揺れていた。
難関大受験が目標だったという事情が事情なだけに、ふたりはまだ健全なお泊まりにすら慣れきったわけじゃない。
むしろもどかしいながら、カップルらしいふれあいに関してはずっと足踏みしていたと言ってもいいくらいだ。
だから、こうして誘うのにもそれなりの踏ん切りが必要だったのだろう。
いつもであれば感情をなかなか表に出さない碧が、こうして動揺を見せるということは、隠し切れないほどにいっぱいだということ。
「くるみのほうは荷造りもう終わってるんでしょ? なら今日はうちで寝泊まりして、明日運び出すときに、くるみの家に寄れればいいかなって思ったんだけど」
「……それは……その……」
一般論で、彼氏と彼女がつき合えばいつかはある、お泊まり。
くるみ達も何度かしたことがあるとは言えど、婉曲どころかそんな直裁に提案されてしまえば、恥ずかしくて頬が火を放ったように熱くなるのは当たり前の話だ。
気持ちとしては、碧と一秒でも一緒にいる時間が長くなるのは、喜ばしいこと。
すぐに「はい」と返事したいのに、口許だって意志に反してきゅっと一文字に結ばれてしまい、言葉も上手く転がり出てこない。
目をあわせられなくてそっと瞳を伏せてしまうが、碧は訂正をする気はないようだった。
ひざに寝かせていた手が、優しく、こちらの心にふれるように優しく——握られる。
「何でかって言うとさ、僕の家族が住むようになるとはいえ、ここでこうして一緒にいられるのも今日が最後だから。くるみと居たくて……駄目かな」
びくっと驚きもう一度碧を見やれば、今度は彼のほうが赤くなっていた。
ばつが悪いのか、たちまちその視線を逸らしてしまう。少年のような仕草。
いつだって格好いいところを見せたいのが、彼氏心なのだろう。
けれど普段のクールさがなりを潜めた正直すぎる表情に、人間らしさのサインに、くるみは目を奪われてしまう。
——可愛い。
なんて言ったら嫌がるだろうか。でも——
——すごく可愛い。かわいい……
そんなことを思ってしまうあたりくるみも、相当にべた惚れなのだろう。
柔らかく口に弧を描かせて、小さく首を振る。
「駄目なんかじゃないわ」
「! そっか。よかった」
ため息とともに額を抑える碧に、くるみはくすくすと笑う。
「断られるとでも思った?」
「え? ああ……いや、そこはあまり考えてなかったけどさ。ちょっと、湊斗からの余計なお世話を思い出して」
「? 湊斗さん。昨日カフェバーに引っ越しのご挨拶に伺ったときのこと?」
バイトで働かせてもらってお世話になったからと〈Adrable Cafe〉にいる店長さんには、バータイムが始まる前の休憩時間に挨拶をしに行く、と事前に聞いていた。
勿論そこでは湊斗とも会ったはずで、何かやり取りがあったのだろう。
「湊斗さんがなにか仰ってたの?」
「……ナンデモナイ」
何故か、またもや目を逸らされた。
持てる知力で推察しようにも、くるみとしては見当もつかなければ訳も分からない。
なのでせめて表情から読み取ろうと、画策してすっくと立ち上がったくるみ。追いかけっこの要領で、とてとてと彼の視界へと回りこむ。
しかし何が気まずいのか、目線にはまたぷいっと逃げられるばかり。
挙句、碧は困ったように眉を下げてしまう始末と来た。
「?」
「本当に何でもありませんのであまりこちらを見ないように」
くるみはきょとんと瞬きをするしかない。
その後も矯めつ眇めついろんな角度から尋ねてみたけれど、カフェバーで何があったかは、どれだけ聞いても教えてはくれなかった。
現実恋愛の日間ランキングはいっているようです。ありがとうございますー!
次回が、今回の章の最終話になります。
作品自体はまだまだ続きますので引き続きよろしくお願いします!




