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第268話 旅立ちの日(3)



 かくしてクラスのほとんど全員が参加した打ち上げは、名残惜しさを笑いで上書きするように終わりを迎えた。


〈次は二年後の成人式の日に会おうね!〉


 との凪咲の提案で、遠いいつかの約束を取りつけられてから解散した一行は、家の方角が同じだからといつもの四人で一緒に帰路についていた。


 これだけ締めの行事をこなしても、また明日から学校が続いていく気がする。三年間で染みついた習慣というのは、なかなか心の在り処というものを解放してくれないらしい。


 ただ、自分を仕舞う箱の名前が、高校から大学になるだけのようにも思えるのだ。


 それを肯定するように茜空の夕焼けはいつもどおりで、一歩前を歩く湊斗とつばめの、カップルらしく仲よく寄りあった肩を、赤くきらきらと照らし出している。


「にしてもすごかったね! 碧と夏貴くんとの採点勝負!」


 つばめは打ち上げで上がったテンションがまだ戻り切らないのか、いつもより高いトーンで言う。


「まさか碧があっさりやられちゃうなんて予想もできなかったよねー」


 湊斗も、つばめよりは落ち着いているものの、それに同調した。


「採点結果が出たときの碧のリアクションがまた最高だったな」


「口ぽかんと開いて『うそだろ』って呟いてたもんね!」


 きゃっきゃと盛り上がる二人に、碧はいちおう自らの名誉のために、言い訳だけ差しこんでおく。


「そりゃあんなに上手いなんて聞いてなかったし……。あいつがマイク持った瞬間から、こう、なんとなく嫌な予感はあったんだけどさ」


「上手いやつあるあるだよな。歌う前からなんとなく只者じゃないかんじ出てるの」


 結果が出た時の、へってかんじに勝ち誇った夏貴の目を思い出しながら、碧はすっきりとした笑みを浮かべた。


 ラウンドワンでの打ち上げが始まって、最初に行ったのはカラオケボックスだ。


 初めこそマイクの譲りあいがあったものの、はりきって挙手してくれた颯太のおかげで探りあう空気は吹き飛び、好調なスタートを切った。


 歌にあまり自信のないという湊斗はタンバリンを持って賑やかしを果たしていたし、つばめは、失礼だけど想像していたより歌唱力が高く、流行りのJ-POPをばっちり歌いこなしては皆を巻きこんで盛り上げた。


 くるみは、みんなの前で歌うのは躊躇いがあるようで初めは聞くだけに徹していたけれど、いざ碧がマイクをぐいぐい押して勧めれば、恥ずかしそうながらも一曲。クリアに透きとおったメゾ・ソプラノから奏でられる美しいバラードに、誰もがお喋りを止めて聞き惚れていた。


 そして、席順からして次に回ってきたのが碧なのだが、そこで夏貴が勝負を挑んできたことで、部屋は別の意味で盛り上がることになったのだ。


 隣のくるみが、思い出したように尋ねる。


「そういえば夏貴さん、勝負のまえに『今度こそ勝つ』って息巻いてたよね? 昔なにかあったの?」


「んー」


 男同士の話だしなんとなくくるみには伏せていたが、それももう時効だろう、と成り行きだけを話してみることにした。


「実は結構前に、あいつと一緒にゲームセンターで遊んだことがあってさ。ダーツとかビリヤードで圧勝したんだよ。……まさかずっと根にもってたとは思わなかったけど」


 なんせ、二年近く前のことだ。いったい誰が、そんな埃のかぶった昔話をむし返されると思うだろう。


「じゃあ、狙いどおりばっちり仕返しされたってとこか」


「弟に華を持たせるのも兄貴の務めってやつだからな」


「あんたら同い年でしょ」


「まあね。……でもくるみに格好いいところ見せられなかったのは惜しいかな」


 勝ちを奪われてすっかり意表を突かれたまま終わってしまったので、くるみが期待したような結果にはならなかっただろう。


 昇降口であんなことを言ってしまった手前なかなかばつが悪いのだが、隣を歩く少女はぱちくりと大粒の瞳を瞬かせるばかり。


 それどころか、すぐにおかしそうにくすくすと喉を鳴らして表情を綻ばせるので、いったい何かと思ってしまう。


「ちゃんと見せてもらったから大丈夫なのに」


「どうしよう。記憶にないんだけど」


「勝ちを譲っても、相手を認めて笑っていられる碧くんは一番格好いいはずだもの。それはそうとして、やっぱり夏貴さんの実力にびっくりする碧くんは珍しくて、ちょっとおもしろかったけど」


「おもしろがらなくてよろしい」


「ふふ。冗談。でも格好よかったのは本当のこと」


 頬に熱が昇るのを覚えながら、碧は鳩尾を押さえてすっと目を逸らした。


「くるみが言うからにはそうなんだろうけど、なぜか貶されるよりもずっと、こう……矢がぐさっと」


「や……?」


 くるみはよく理解してなさそうだが、弄って笑い飛ばすよりも、こうしてピュアに真っ直ぐ全てを肯定してくれるほうが余程心に刺さってくる。


 彼女の人柄からして、前者の行動はまず考えもしないのだろうが、おかげで照れくささと嬉しさと引け目がごちゃまぜになって対処に困るのだ。


 そして、にまにまと温度湿度のある目でこっちを見ている二人にもまた対処に困らされたので、とりあえず指をでこぴんの輪っかにしたところで、尻のポケットに突っこんでいたスマホがゔーゔーと連続して震えた。


「ごめん電話掛かってきた。ちょっと出ていい?」


「はいはーい」


「……あ」


 友人に断りつつ電話を取り出して何気なく発信者に目を遣れば——見慣れない市外局番の電話番号が、つい先日登録したばかりの〈わかばハウジング〉という名前と一緒に表示されている。ひそかに気が引き締まった。


「もしかして?」


 その様子を見たつばめが、確信を持って声をひそめる。


「碧くん。おねがい」


 同じく何の連絡かを悟ったくるみに促されて、ふたりに、うんと頷いた。


 四回目のコールがしっかりと鳴り終わった電話に出れば『わかばハウジングの綾瀬ですー』と妙に間延びした喋りかたの若い女の人が出る。


 訪問したときに担当してくれた、社会人二年目という優しいお姉さんだ。同棲したいと言う学生客を相手にすることは初めてだったそうで、物件探しで妙にはりきっていたのを思い出す。


『秋矢様のお電話でお間違いないですか?』


「はい。お世話になってます」


『ええとですね。先日お申しこみいただいた物件についてなのですが——』


 バックから別の社員の電話が聞こえる。この時期なので忙しいのだろう。


 近くを電車が走り去った。ちゃんと音を拾うために、スピーカーを耳に近づける。


『——で————ということですので。よろしいでしょうか?』


 表情を動かさずに、碧は受け答えをする。


「はい……はい。わかりました。ありがとうございます」


 そう長くないやり取り。ぷつりと電話が切れてからおもむろに振り返ると、すぐ近くに気が気でない表情のつばめが迫ってて、危うくスマホを落としかけた。


「どうだったの!?」


 やんわり一歩後退りながら、握り直したスマホを鞄に突っこむ。


「なんでつばめさんが当事者より気にしてるんだよ」


「気になるものは気になるの! 早く教えて!!」


 しかたない、と碧はわざとらしく咳払いした。


「実は……聞いたところによると、いいニュースと悪いニュースがあるんだ」


「なにそれ!?」


 これにはつばめと湊斗も思わずかじりつく。


「え。まさかじゃないよな? 勿体ぶらずに早く教えろって」


「それではまずはいいニュースから。——審査とおりました」


 引っぱるつもりもなかったので、言われたとおりにあっさり告げる。


 けどその〈あっさり〉が逆に不意打ちになったようで、三人の口がぽかんと丸く開いた。


 ぶわりと感情が爆発する寸前の僅かな沈黙ののちに、真っ先に我に返って動いたのはつばめだ。


「きゃあああ!! じゃあふたり一緒に住めるってコト!?」


「なんでつばめさんが当事者より喜んでるんだよ」


「嬉しいものは嬉しいの!! 本当よかったぁー! うちら最高の瞬間に立ち会ったんじゃない?」


 と、くるみの両手を握ってぶんぶんと振っている。くるみも嫌そうにはしておらず、むしろつばめが喜んでくれていることが嬉しそうに、握られた手を振り返している。


 湊斗は、ためにためた大きな息をはあーっと一気に吐いて、最後に笑った。


「心配させる発表するなぁ。でも、二人ともよかったな。おめでとう」


「ありがとう。……くるみはそんな驚かなかったか」


 もともとさして心配していなかったのか、当事者であるくるみは、安堵をいつもの柔和な笑みに混じらせるくらいだ。


「ううん。私も一瞬、身構えちゃった。でも保証人に父の名前と仕事を出せばきっと大丈夫ってわかってたから」


「言われてみればたしかに。友晴さんだもんなぁ」


 彼女の父親は有名大企業の社長で、実業家だ。世にたくさんある〈信頼〉のなかにも、あの肩書きほど穏やかに事をとおすものは、なかなかないに違いない。


 担当者は調べがつき次第、きっとすぐに判を押してくれたことだろう。


「だけど……よかった。これでようやく一緒に住めるんだから」


 じんわりと目を細めたくるみが、小さく呟く。


「……うん」


 碧は頷いた。


〈卒業〉〈合格〉〈家〉——同棲に必要な鍵は、これで全て揃ったことになる。


 次へとつながる大きな扉が、やっと開いた音が聞こえた気がする。


「ここまで順調に来れたのは湊斗たちのおかげでもあるよ。ありがとう」


「そんなそんな。俺が協力できたのってバイト紹介したくらいだし」


 教師たちには贈る言葉をもらい、つばめたちにはあらためて合格祝いの言葉をもらい、最後には二人で住める家が決まり。一度にこんなに祝福のシャワーをかけてもらえる日なんか、長く生きてたってそう来ないだろう。


「ね! ふたりが引っ越したら、湊斗とお宅訪問しにいってもいい?」


「もちろん。事前に教えてくれればケーキでも焼いて待ってるね。碧くんもいいでしょ?」


「四月はまだばたばたしてるだろうから、落ち着いたらいいよ」


「やったー! 手土産なににしよっかなー」


「気が早すぎるって」


 ほくほくと和やかな空気になるなか、湊斗が尋ねた。


「あ。でもそうしたら、悪いニュースってのはなんだったんだ?」


「成約記念にノベルティのボールペン渡す予定だったけど、品切れになったから代わりにクリアファイルになるってさ」


「思ったよりどうでもいいやつだった!!」


 ——ようやく、始まった気がする。


 つばめの笑い混じりの突っこみを聞きながら、くるみに優しく微笑みかけ、右手の握り拳を差し出す。


 くるみはきょとんとしていたものの、碧が「グータッチ」って教えてやれば、納得したように同じく小さく手を握って、こつんとぶつけてくれた。


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