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第266話 旅立ちの日(1)



 柏ヶ丘高校の卒業式はつつがなく、厳かに、予定どおりに執り行われた。


 事前に一度だけあった予行演習ではみんなこっそりお喋りなんかしてさして真剣にやってなかったのに、いざ本番となると、クラスメイトの女子の何人かが静かにさめざめと泣いていた。


 クラスのLINEもあるんだからその気になればいつでも会える、という考えの碧はさして哀しくもないしこれっぽっちも泣く気はないけれど、誰かのすすり泣きを聞くとこの長いようで短かった三年間も終わるんだなと、妙にしんみりしてしまっていた。校長式辞の、気の遠くなるほど長い話も、最後だからと思うと心に染みる気がしなくもない。


 卒業証書授与は、学年首席の成績優秀者として、くるみが代表をしていた。


 きちっとアイロンのかけられた上着に左右対称に結ばれたリボン、歩くたびにかすかに揺れるスカート。


 立てば芍薬とは誰が言ったか、まさに花のように美しい佇まいで校長から証書を受け取り、代表としての務めを果たしているくるみを遠くから眺める。


 制服そのものに嗜好を持つわけじゃないが、あれも今日で見納めとなるとやっぱり寂しい気持ちが勝ってしまう。碧の着ているこのシャツとブレザーも、明日からはクローゼットで、もう日の目を見ることはない。


 体育館に響くばんらいの拍手に送り出され、三年生たちは教室に戻ると、それぞれ卒業証書の黒い筒を受け取った。


 最後となるホームルームと全員が揃っての最後の記念撮影、それから担任教師からの送る言葉で解散……なのだが。


「くーるみいいぃぃぃん!! 会いたかったよおー♡」


 いの一番、助走をつけてまでくるみに抱きついていたのは、つばめだった。


 暴走機関車のような抱擁を受け止め切れず、二歩後ろによろめきながらくるみがもぐもぐと返事をする。


「わぷっ。つばめちゃ。久し」


「ひさしぶりだねえくるみーん♡♡♡」


「最後まで言わせてあげなよ」


 碧は、卒業文集とアルバムをデイパックにしまいながら突っこむ。


 だけどつばめはくるみとの再会に夢中で、さっぱり聞く耳を持ってはいない。


「あっそういえば今年の挨拶もきちんとできてなかったもんね今年もよろしくねー! 二人とも同じ大学に合格できてほんっとよかったねおめでとう♡」


「三ヶ月ぶんの言いたいこと渋滞してるな」


「こんなに長く会ってないと何て言うか迷っちゃうね。……とりあえずありがとう? それとつばめちゃんも大学合格おめでとう」


「うんうん♡ ありがとう♡」


 お互いにぎゅっと抱擁を交わす。感動の再会だ。


 三ヶ月ぶりに会ったつばめは、ほんのちょっぴりだけ髪が伸びていた。


 当たり前だけどやっぱり、会わないだけで皆の時間は等しく刻まれているんだなと気づかされる。


 そんなことを考えながら二人の幸せな抱擁をじっと見ていると、視線に気づいたつばめがふっとほくそ笑んだ。


「ずっとくるみん占領してると彼氏がやきもち焼くからこのへんにしとかないとね」


「女同士なんだから別にいいよ。好きなだけくっついて」


「太っ腹! じゃあこのままくるみん貰っちゃおうかなー?」


「それは駄目です」


 ところでつばめが来たなら、彼氏かつ碧の親友でもある湊斗もすぐそこにいるのだろう、と振り返ったところで、やはりくだんの彼が寄ってきているところだった。


「いやーなんか懐かしいな、このかんじ」


 ゴールデンレトリバーにも似た風采で、よっと手を掲げる。


「湊斗」


「二人のいちゃいちゃが見れないと寂しいなーってつばめと話してたんだよ。な?」


「そうそう。学校名物の熱愛っぷりがない今年の冬はうちらにとって寒すぎたよ……」


「別に登校してた時だっていちゃいちゃした覚えはないんだけどな」


「おっとそれ以上は言わせないね! っていうか何回目よこのやり取り! あなたたちいーっつも学校でいちゃついてたから! すぐ二人きりの世界になるんだから!」


「碧は、楪さんと一緒にいる時だけ、表情とか喋りかたが優しくなってるからな」


 やれやれと肩をすくめた湊斗が、隣の机の椅子を引いてどっかり座る。


「ところで。とうとう新婚のための家の申しこみをしてきたんだって?」


「うん。そんな言い方はしてないけど。ひさしぶり」


「おうひさしぶり」


 こちらもまた三ヶ月ぶりに会った湊斗だが、ちょくちょく連絡は取りあっていたので、お互いの近況は話すまでもなく知っている。


 湊斗は進学実績の高いうちの学校じゃ珍しく、大学には行かずに春から働き始めるということで、最近は車の免許を取るために奔走していたらしい。この間はやっと仮免とれた、と喜びのメッセージを送ってきていた。


 登校がなくなってからはこちらの余裕がなくなかなか会えなかったから、こういうどうでもいい掛けあいもなかなかに懐かしい。


「今は審査の結果待ちだ、って言ってたっけな。電話で報せてもらうかんじ?」


「っては聞いてる。早ければ今日の午後連絡くるって」


 訪問した不動産屋で、提出した希望に沿った物件を見繕ってもらった昨日おとといあたりの話。


 初めから条件に拘りすぎても家賃が高くなったりしてしまうから、二人で相談してラインを引いた一番下の条件で探してもらい、そのなかから一番いいのを選んできた。くるみが料理をしやすいように、広々としたキッチンの物件だ。


 今は彼に説明したとおり、電話で結果を待つ段階だ。


「そうかー。いやー受かるといいなぁ」


「まさか大学に受かったあとになって、また合否連絡にそわそわする羽目になるとはね」


「けど家だろ? 落ちることってそうそうないんじゃないか?」


「いや、同棲だとなかなかそうもいかないみたいで。断る大家さんもいるんだとさ」


「まじかー。でもなるべくなら一発で決めちゃいたいよな」


 と会話しているうちに、つばめはくるみとのひとしきりの抱擁を解いたらしい。


 碧と湊斗の間で肩をぽんと叩きつつ、取りまとめる。


「まあまあ今のところは気持ち切り替えて! うちらもとうとう卒業だねえ」


「ほんとあっと言う間だったなー」


「私はこのクラスで授業を受けられてすごくよかった。いい人ばかりだったし」


「そうだね。僕も」


 碧はしんみりとした気持ちで教室を見渡した。


 友人達もそれに倣って、どこか湿り気を帯びたまなざしを同じ方角へと注ぐ。


 もう解散はしたと言うのに、ほとんどのクラスメイトが残っていた。


 帰るのが名残惜しいのだろう。式典だからいつもよりボタンを衿までしっかり締めて、きっちりと着こなした最後の制服で、紅白の花に彩られた黒板をバックに写真を撮りあったり、アルバムの白いページにメッセージを書きあったり。配られたばかりの卒業文集を読んで思い出話に花を咲かせているのも見えた。


「今日で最後となると、やっぱちょっと寂しいよな」


 湊斗が寂寥を滲ませないよう明るく、けれどぽつりと言う。


 振り返れば仲のいいクラスだった。


 授業もきちんと静かに聞くだけじゃなく、挙手も発言もしてたし、教師からは他よりもやりやすくて助かると評判だったとか。


 初めこそくるみとのことをやっかまれたり、関係を根掘り葉掘りされたりといった事件もあった。けれどそれもずいぶん昔のことのように思える。


 自分を隠さないようにしてから、クラスメイトとの距離が近くなった。交際を公に発表してからは、納得するまでの順序はあれど、最後にはみんなが祝福してくれた。


 時間とともに、碧とくるみのカップルらしい空気にみんな慣れ親しんでくれて、支持してくれる人や、この関係をそっと守ってくれる人がたくさんいた。感謝しきりだ。


 文化祭のときは結託して賞を取れたし、十一月七日の誕生日にはおめでとうの言葉と一緒に、一品ずつ弁当におかずをわけてくれて豪華なランチにしてくれたり。


 そんなわけで、碧もまたこのクラスに思いいれがあった。


「そうだ! アルバム!」


 彼らをぼんやり眺めていたつばめが思い出したように、ぽんと手を打った。


「私も書きたいことがあるんだった。ってわけでみんな貰ったやつ出して!」


 三人で視線を交わし、けれどすぐ目的については察しがついたから、貰ったばかりのアルバムを開いて提出する。


 つばめは筆箱からペンを取り出すと、三冊のまっさらなページに順番に、さらさらっと何かを書いていく。


「はいできた! つばめちゃんのサイン!」


 けれど、メッセージではなかった。


「なんでサイン?」


「ここは『卒業後も仲よくしようね』とかじゃないのか?」


「わざわざ書かなきゃいけないほどうちらの友情はうすぺらじゃないでしょうが!」


 確かにもっともらしい。


「じゃあせっかくだし受け取っておこうかな。せっかくだし」


「見るからにどうでもよさそうな目で言うの止めてもらっていいカナ?」


 死んだ目でつばめが突っこむ。


「碧ってあいかわらずくるみん以外に関心ないわけ? どうでもいいことにはほんっとそーだよねー……いやー昔とかわんないなぁ。なんか私だけ歳とった気分」


 くるみが思わずおかしそうに肩を揺らす。


「十年前からの親友みたいなこと言ってるけど、知りあったの二年前よね?」


「うそ。逆に二年しかたってない!? 感覚としては本当に十年くらい一緒にいてもおかしくないんだけどな。うちらの仲のよさだいぶ濃密では?」


 確かに言われてみればそうなのだろうか。


 くるみとつばめがいい友人関係を築いているのは言うまでもない。放課後に服を買いにショッピングにいったり、あとは時たまお泊まりもしていたみたいで、お互いの家に行ったことが何度もあるんだとか。


 碧は楪家に宿泊の許可をもらったことなんか一度もないので——宮胡の存在を考えればとてもじゃないが「泊まってもいいですか?」なんて言えない——そういう女子ならではの友情というのは羨ましさがある。


 いっぽう、碧と湊斗の互いをいじりあったり愛ある貶しを仕掛けあう気のおけない男同士の関係も、くるみからしたらとても仲よさげに見えるそうだ。


 四人での思い出も、揃って海に遊びに行ったことやら、くるみの誕生日をお祝いしたこと、学校帰りにカフェバーに集まったりと、いろんなものがある。


 勿論、卒業してからも連絡は取りあうつもりだし、週末は会いに行ったりするだろう。


 だけど区切りとして、仲よくしてくれた友人にはきちんと返事はすることにした。


「じゃあ僕からは二年ぶんの気持ちをこめて、メッセージ書いてあげるよ」


 ペンを拝借すると、つばめのアルバムの余白にきゅっきゅと文字を記していく。


 〈今後もよろしく!〉


 と書き終えたところで、覗きこんだつばめから突っこみが飛んできた。


「って二年でたったの八文字!?」


「だってどうせ連絡取ればすぐ会えるし。つばめさんの大学って、僕たちのとこの隣の区なんでしょ? 湊斗が働く予定のとこも、そっから電車でわりとすぐのとこって言ってたし」


「そうなんだけどこう……情緒がないよ情緒が! 近頃の若者にはわかんないかー?」


 示しあわせたわけじゃないが、笑いを左手で抑えながら、くるみがペンというバトンを受け取る。


「この理論でいくと、つばめちゃんと一年から同じクラスだった私は十二文字ね」


「え!? いいよその謎理論に従わなくて!!」


「じゃあ俺は最長の三十二文字で——」


「ちょっと待ってよもっと気持ちこめようよ!!」


「アルバム書いてるの? うちらも書かせてもらってもいいかな?」


 仲間同士でいつもの賑やかな掛けあいをしていると、そこでつばめに……いや、正しくは碧達全員に声がかかる。話を聞いていたらしいクラスメイトたちだ。


 つばめがぱっと明るく振り返る。


「ちょうどよかった。せっかくだから全員のメッセージを集めようと思ってたんだー!」


「なんだかそれスタンプラリーみたいだね」


「あーカラフルペンいいなーうち家においてきちゃった。貸して!」


「はいはーい」


 くるみ達の白紙のページが、寄せ書きによって瞬く間に埋め尽くされていく。


 机に寄りあって賑わっているところを遠巻きに見守っていると、そのなかのひとりから手招きをされた。


「秋矢くんもほら早く早く」


「あ……うん」


 なんとなく蚊帳の外のつもりでいたから、名前を呼ばれてすこし驚いてしまう。


 差し出して、みんなが書きこんだアルバムを返してもらうと、そこはたくさんの温かなメッセージで溢れていた。


〈二年間ありがと! くるみちゃんと今後も仲よくね!〉


〈将来もしまた外国住むことになったらその前に連絡しろよ! 空港に会いに行くから〉


〈成人したら一緒に酒のもーぜ!〉


〈なんだかんだ三年間同じクラスだったけど碧とはもっと早く仲よくしとけばよかったなって 今さらだけど……とにかく今までありがとうな!〉


〈大学でもおふたりがラブラブでいることを期待してるよ!〉


 色とりどりのペンでかざられた文字達。


 級友たちとお近づきになった自覚はあった。けれど、ここまでしてもらえるなんて想像はしていなかった。ひとり孤独に誰とも打ち解けることができなかった、入学当初の記憶が残っていたから……。


 嬉しさと気恥ずかしさで頬がゆるんでいると、くるみがそっとささやきかける。


「照れてる?」


「別にそんなんじゃないよ……」


 そっぽをむいてポーカーフェイスにごまかしたつもりだったけれど、滲み出した気恥ずかしさは隠し切れないままだったようで、後ろからみんなの朗らかな笑い声が届いた。


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