第265話 門出を待つ春(3)
建物を出ると、かすかな喧騒と春の夜のみずみずしい空気が肌をなでた。
食事を終えて解散なわけだが、父と千萩はここから車で近隣のホテルまで。母は会社近くに借りている自宅へ。同様に、碧とくるみは方角が同じなので一緒に帰宅することに。
「くるみさんのこと玄関まできちんと送り届けるんだよ」
「うん。わかってる」
言われるまでもなくそうするつもりだったから頷いた。
隣で手をつないでいるくるみに優しく言う。
「明日一緒に家探しに行くときも、家まで迎えに行くよ」
くるみはへにゃりと甘く目を細めて、はにかみを表現した。
「うん……ありがとう」
「あらあらまったく。碧はくるみちゃんにはとびきり優しいんだから」
「だってこれから二人暮らしだよ。送り迎えくらいは支えあいの一環で僕の仕事なんで」
「仲よしの秘訣だね」
妹が言って、父がおとがいをさする。
「碧は誰に似たんだか、妙に達観してるところあるからなあ」
「誰にでしょうね」
冗談めかして返すと、ほろ酔いの父は、穏やかに笑った。
「日本に戻ってからずいぶんと大人になったみたいだし、そりゃ達観もするか。もうすぐ碧も、卒業だからなぁ」
「あー」
柏ヶ丘高校の記念すべき第五十回目の卒業式。
父の預かり知るとおり三年生たちはいよいよそれを、週末の土曜に控えていた。
母が尋ねる。
「くるみちゃんのほうは? ご両親はおいでになるのかしら?」
「はい。その日はさすがにふたりともスケジュールを調整して仕事の休みを押さえたそうです。兄もわざわざ神戸から飛んでくるみたいで。わざわざいいのにって私は言ったんですけれど……」
「あら。妹想いのお兄ちゃんでいいじゃない。同じ兄として案外うちの子とも話があうんじゃないかしら? ねー碧?」
「むりやり家族ぐるみのつきあいに持っていこうとしてない?」
「でもこのさき長ーいおつき合いになるんだから。ねえ?」
「……まあ」
勿論そうなのだが、母がいるとやりずらい。
いずれお互いに生涯を捧げあうつもりなのは事実ではあるとはいえ、親世代に言われるがまま肯定するのも気恥ずかしいわけだ。
くるみの兄貴にはまた時が来たら挨拶をするんだし、そういう人生設計はふたりで決めてゆっくり歩んでいく予定なのだから、母にはそっとしておいてほしい。
様子をうかがうべくくるみのほうを見れば、彼女はまた違う感想を抱いたらしく、きゅっと口許を引き結んで黙りこくっていた。
耳まで赤く染めているあたり、母の言葉を完璧に真に受けているようだ。
照れている姿はひどく可憐で愛らしいのだが、こうなるとからかいを仕掛けた母のひとり勝ちなのだからよくない。
「くるみ、あんまり照れると母さんの思うつぼだからね……」
「あらあらまあまあ可愛らしいわねえ。からかいがいがあるわ♡」
「ほら」
家族の視線を一点に受けて、くるみはますます小さくなる。
「あう……えと……家族ぐるみのおつきあいは嬉しいですけれど、うちは皆、なんというか昔かたぎなんです。琴乃さんでも打ち解けるのに時間がかかるかもしれません……」
「でもうちの子は認めてもらったんでしょう? 大丈夫よ、くるみちゃんのとこのご両親のお好きな手土産をこの子にばっちり聞いておくから。……卒業式の後にいきなり挨拶しに行ったりはさすがにしないからそんな目で見ないでちょうだい?」
「いくら母さんでもそれは本気でやめてよ?」
人柄からして真逆の宮胡と琴乃が出逢ったら、いったいどうなってしまうのか、想像もつかない。そして、何を考えているかわからないことに定評のある母は、いつの間にか勝手に楪家の人に話しかけたりしてそうなのがまた困る。
なので釘を刺しておかねばならないのだが……そこであることに気づく。
「というかふたりとも来るんだ? 卒業式」
「勿論だよ。なんせそのために仕事休んだんだし」
「愛する我が子の晴れの日なんですものね」
「そっか——」
「まさか来てほしくないとか?」
「いや別に。ただ、こんな三月の忙しいときに休み取らせて申し訳ないなって。というかこの歳になっていまさら『来るなよ』とかそんなこと言うわけないよ。反抗期じゃないんだから……」
「一度くらいは反抗してくれてもいいんだけどね? 碧は昔からいい子だったから」
「言わないって。というかそう言われると余計に言いたくない」
「はははは。それはそれで反抗だな」
「僕なんも喋れなくなるじゃん」
息子の門出がよほど嬉しいのか、父はいつになく饒舌だけど、碧としてはいざ卒業と言われてもいまいちしんみり来ないのだ。
というのも我が校は、冬本番となったあたりから、それぞれが自主学習するために自由登校となる。
教師に相談したいことがあったり、勉強の教えを仰ぎたい人なんかは好きに学校に来てもいいが、大半の生徒は家なり図書館なりに引きこもる。
碧とくるみもリフレッシュのためにときたま市立図書館に赴いていたくらい。ここ何ヶ月も登校すらしていなかったので、柏ヶ丘高校の生徒であるという自認すらもはや曖昧になっていた。
けれどずっと会っていなかった湊斗やつばめ、それに颯太や夏貴にやなちー達と会える日と言い替えると、とたんに懐かしい気持ちになるのだから不思議なものだ。
「父さんの泊まってるホテルこのへんだっけ。帰国はいつ?」
「休みは来週いっぱいまでは取ってるよ」
母がしんみりしながら言った。
「それにしても、卒業なんて早いわね。お化粧崩れるの嫌なのに当日は泣いちゃうんだろうなぁ。ハンカチ二枚は持っていかないとね」
「だね。いやー碧のいいとこ見れるのが待ち遠しいなぁ」
「……さきに言っておくけど、卒業証書は代表が受け取るだけだからね」
「それでも、門出を見送る親は嬉しいものなんだよ」
父は額にぽんと手をおき、そのままわしわしとやや乱暴に撫でまわしてきた。
「くすぐったいんだけど」
「まあ偶にはいいじゃないか」
くるみの前では立派な男として振る舞いたい気持ちもあって、子供扱いなんてされようものならやんわり拒んでいたところだが、なぜだか今はそんな気もおきずにされるがままになってしまう。
もしかしたらそれは、親に甘えることができるのは今のうちだ、自立すればそのうち頼れなくなるのだから——と心の何処かで思っていたからかもしれない。
けれど、上機嫌に目尻を下げる父の表情からはそんなことは微塵も読み取れなかった。
歳も体格も、こんなに大きく育った碧のことが、まるで五歳の子供にしか見えていないようだ。
それが碧にとっては面映くて照れくさくて、やっぱりちょっとくすぐったかった。
また日間ランキング載っていたみたいでありがたいです!ありがとうございます!




