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第264話 門出を待つ春(2)



 お祝いにと両親が連れてってくれたのは、街の交差点にあるひときわ大きなシティホテルで、本場のナポリで修行をしたシェフが監修するという人気のビュッフェだった。


 椅子に荷物を残して、皆好きずきに料理を集める旅に出ることになったのだが、碧の関心は、すっかり別のことで埋め尽くされていた。


 むろんそれは語るまでもなく、家探しのことだ。


 あれだけ待ちに待った二人暮らしが本当にあと一歩、すぐ手の届くとこに来ている。


 貰ってきた住宅情報誌も目をとおしてみたところ、大して当てにしてなかったわりに案外役に立つもので、いい物件を探す裏技や、学生でも審査が通りやすくするためのコツなどが載っていたのは渡りに船だった。


 ということで、これらのHow(ハウ)To(ツー) を実践に移したい気持ちが逸るせいで、いっぱいいっぱいな碧は、目に映るすべてをこれから始まるくるみとの暮らしに結びつけてしまっていた。


 保温器にたくさん並んだクロワッサンを見れば、


 ——休みの日はくるみと一緒に、朝ごはんにパンを買いに行ったりするのかな。


 と空想し、あるいは友達同士で来ている何人かの若者を見れば、


 ——うちにも湊斗たちが遊びに来るなら座布団は買っといたほうがいいかな。

 ——くるみはケーキとか焼きそうだよな……僕も習って手伝ったほうがいいか?


 と、まだ決まってもいない来客にまで気を遣いそうになったり。


 だけどそれはあくまで〈同棲初学者〉による曖昧な想像にすぎない。実際に住んだらどうなるのかは、四月にならないと分からない。それがまたわくわくを募らせてきた。


「くるみさんとは一年間ちゃんと仲よくしてたかい?」


 とその時、隣から話しかけてきたのは父だった。


 直前まで気配に気づかず一瞬身構えてしまったのは碧が浮かれていたからだろうが、それにわざわざ言及してこないあたり、父は大人だった。


「順調すぎるくらい順調です」


 余計なことを話すわけにもいかないので、まとめて一言でそう報告した。


「そっか。よかった。迎えに行ってひと目見た時から、去年会ったときとふたりの空気が同じだったから、心配はしてなかったんだけど」


 父はほっとため息を吐いたあとに、唐辛子たっぷりのペンネをもりもりよそいながら一般論を語る。


「ほら、四六時中相手のことばかり考えて成績落とすとか、まあ受験生あるあるだろう? 大事な時期に喧嘩になったりでもしたらそれこそ一大事だったからね」


 だけどそれはあくまで一般論で、碧たちに当てはまる話ではなかった。


「さすがにそんなことにはならないよ。……と言うか、なりようもなかった?」


 ピザを何切れか取りながら、視線を遠くに投げる。


 この一年を、目を皿にして振り返っても、交際にあたっての穏やかじゃない出来事はひとつもなかったと断言できる。


 そもそも受験生ということで、どれほど事件を探そうとしても〈日々がんばって勉強をしていました〉以外の思い出がほとんどないのだ。


 むしろ碧が勉強に集中できるようにと、くるみが料理代行——今までもそうであるが、ここで言いたいのは今までに輪をかけてということ——をしてくれたおかげで、返すべき恩徳が大量に溜まっている。それは今後の二人暮らしで碧が多めに家賃を支払うこと、家事も出来ることをなるべく引き受けることでなんとか釣りあいが取れないかを画策中である。


 勿論こんな毎日だったので、キスも抱擁も夜にくるみを家に送るときの別れ際にしたり、難問が解けたご褒美——これはくるみのちょっとした建前だ——にしてくれたくらいで、その他はほとんどお預け。


 いや、今はとにかく受験だけに取り組むと決めたのは他でもない碧だから、お預けという表現は正しくないだろう。


 誰もが認める才媛であるくるみと同じ教院大学出身を名乗り、彼女に恥をかかせず、ようやく真に肩を並べられる日を想像すると、どうしてもペンを握る以外のことはしたくなかったのだ。


 堅忍果決と読書百遍を座右の銘に、雨ニモ負ケズ()()ニモ負ケズ……こつこつと解らない問題をなくすことに全力を尽くして、ようやく春を迎えることができたのだから、解放された喜びもひとしお。


 これまでくるみにはきっと遠慮もさせたと思う。他人を優先しがちなくるみだから、何も言わず支えてくれただけで。


 だからこれまでに時間が許さなかったぶん、お互いたっぷり甘えて甘やかして、四年間を大事に濃密に暮らしていこう。きっとそこには想像できないくらいの幸せが、待っているはずだ。


 唐辛子のペンネを山盛りよそい終えた父が「仲がいいのはいいことだね」と笑って席に戻るのを見送ってから、前菜が並んだあたりにいる、くだんの最愛の少女のほうへ近づく。


 くるみはトングで何かを取ろうとしていたようなのだが、その両隣からぎゅっと挟むようにして、母娘がこんなやり取りをしていた。


「くるみちゃんこれいる? ローストビーフ」


「いただきます。ありがとうございます」


「お姉ちゃんこれいる? きのこのラビオリ」


「じゃあそれも貰っちゃおうかな?」


 きゃっきゃうふふと仲睦まじそうにしながら、それぞれが好物とするおいしそうな惣菜を、お裾分けの要領で取り分けている。空っぽだったくるみの皿はあっという間に賑やかになっていた。


 押しつけになってないかが心配だが、くるみは淡くはにかんで受けいれている。


 となるとその家族一丸となった可愛がりがおもしろくなって、碧も気づけばつい、銀のトレーに寝そべる大きなスプーンを掴んでいた。


 丁度出来立てが運ばれてきた熱々のグラタンをくるみの皿にこんもりと盛ってやると、もちろん重みですぐに「え」と気づく彼女。


 いつの間にか築かれたマカロニと海老の山を見て、こちらを見て、もう一度皿を見下ろしてから、ようやく困り気味ながらにあわあわと口を開く。


「こんなにたくさん?」


「くるみグラタンも好きだよね」


「そうだけどこんなには……」


「大丈夫だよ? いらないならあとで僕が貰うからさ」


「碧くんのお皿すでにピザでいっぱいに見えるんですけど。本当に貰ってくれるの?」


「僕が健啖家なのはくるみが一番知ってるでしょ」


「それは知ってるけど……そこまで言うのならちゃんと手伝ってね?」


 なんてやり取りをしていると。


あらあらうふふふ(これはもう愛ね)♡」


 母がまた底知れない笑みを見せてきた。


「まったく本当にうちの子はくるみちゃんのことが大好きなんだから♡ 千萩、おじゃましちゃなんだし私たちはさきに戻ってましょうか?」


「はーいママ」


 好き勝手言うだけ言って、二人が生温かいまなざしを残して席に戻っていく。


 母娘にヘンな気の遣いかたをされ、おおかたばつが悪いのだろう。立ち尽くしていたくるみが我に返るや、うっすら頬を赤く色づかせた。


「もう。碧くんのせいだからね。もう」


「はいはい。ほらこれもあげるよ……『大好きなくるみちゃん』に」


「い、言ったそばから!!」


 珍しい呼びかたに意表を突かれたくるみを大雑把に笑ってあしらうついでに、鮪のマリネ、それからライスコロッケをよそってやったところで、するりとトングが奪われる。


「?」


「碧くんに貰うばかりなのも申し訳ないから、私もよそってさしあげるの」


 こちらの器までさっと取り上げたかと思えば、刻んだトマトやら柔らかくちぎった葉野菜やらが、くるみの手によって次々に落とされていく。


「えー」


 と文句を述べるも、くるみからは「えーじゃありません」と可愛らしいお小言。


「碧くんのことだから今日は好きなものだけ持っていくつもりだったんでしょ。ちゃんとお野菜も取らないと。……ピザにもトマトがのってるっていう言い訳はなしだからね?」


「なんで僕の言おうとしたこと読まれてるんだ」


「ふふふ。私は碧くんのことなら何でも」


「知ってるもんな」


「そういうことです」


 と、どこか誇らしげに目を閉じるくるみ。


「でもさっきのは冗談。一年間がんばったのも知っているもの。今日はお野菜はほどほどにして、ご褒美として好きなものを好きなだけ持ってっていいからね?」


「ほんとに?」


「ただし私によそったものはちゃんと手伝うこと。いい?」


「はーい」


 結局、野菜も魚も揚げ物もたっぷり盛って席に戻ると、すでに両親は、食事をしながらしっとりと歓談をしていた。


 帰りは運転代行を呼ぶそうで、二人とも赤のグラスワインを別で注文している。


 こうして見れば、息子である自分が言うのもなんだけど、並ぶと絵になる夫婦だ。


 有名人のようだというのはさすがに賞賛がすぎるが、両親はどちらも身内びいきなしで、もうすぐ高校を卒業する息子がいるとは思えないほど若々しく、見目も整っている。


 古いアルバムなんかを見せてもらったことがあるが、二十代の頃の父はロジャー・フェデラーを親しみやすくしたような目鼻立ちをしていて、どちらかといえば日本人らしい風采の母に似た碧は、もっとその血を継ぎたかったと思うくらいだ。


 若見えするとは言え、さすがに今となってはいい歳したおじさんだし、母も会社ではそれなりにおっかない上司らしい。が、周りからの「すてきなご両親ね」なんてのは、何度となく言われ慣れた話だった。


「そういえば碧?」


 母に名前を呼ばれて、くるみから分けてもらったグラタンを口に運ぶのを止める。


「あなたたち明日、新居の契約の申し込みに行くんですって?」


「あーうん。いろいろ聞いてみて、いいところが見つかればだけどね」


 さきほど持ち帰った住宅情報誌に書いてあった。春は引っ越しのシーズンで、サイトに空きありとして載ってる物件でも更新が間にあっておらず、すでに借り手が決まっていることも多いのだと。


 それを知って爆速で、最寄り駅前にある不動産屋に電話をかけ、明日の予約を取りつけたのがついさきほどのことだ。


 うまくいけば週末には、住む家が決まるかもしれない。


 母はふふふと意味深な笑みを浮かべると、鞄から何かを取り出した。


「そんな二人に見せたいものがあってね」


「ん? これなに?」


 母がテーブルに出したのは、いくつかのリングで綴じられた、冊子のようなものだった。


 持ち運びするメモ帳にしては大きく、板書するキャンパスノートにしては小さい。


 表紙はとくに柄のないパステルオレンジで、真ん中に英語で印字されているのは……


「カレンダー?」


「ちょっと見てごらんなさい」


 勿体ぶってるのかどうなのか、父と母はにこにこするだけ。


 よくわからないので躊躇いがちながら言われるがままに開いてみるとそれは、一月から始まり十二月で終わる、一見するとありふれたカレンダーのようだった。


 くるみも椅子ごと近づいて、一緒に覗きこんでくる。


 彼女が見やすいように角度をつけながら、ぱらぱらと順にを捲っていけば、それぞれのページに印刷された季節を表現したイラストが色褪せていることに気づく。


 それもそのはずで、上に小さく刻印された年は今より二十年も昔のものだった。


「これってもしかして……」


「お父さんとお母さんが新婚だったときのカレンダーよ。あなたたちに見せることができたんだから、取っておいてよかったわね」


 それを耳にして、わざわざこれを渡してきた意図を理解した。


 あらためて眺めるとやはり、ただの予定表だけじゃなく夫婦の連絡帳も兼ねているようで、ピンクと青のペンで毎日事細かに書き記されているのが分かる。



 一月十日 金曜は紙ごみの日! 忘れないでね!

 二月九日 遅くなるから晩ごはんは温めて召し上がってください

 三月三十日 お花見の日♡ お弁当を買うのを忘れないこと

 六月七日 琴乃さん掃除ありがとう 今週は僕がやります!



 同棲する碧たちのアドバイスにするために、持ってきてくれたのだろう。これだけじゃなく、ちょっとした手書きのイラストから買い物メモ、感謝の言葉まで残っている。


「へー。なるほど……」


 折角なのでまじまじと眺めて参考にさせてもらっていると、父は頬をかきながら照れくさそうに笑う。


「スマホがまだなかった時代だからねー。メールはあったんだけど、いつかは読めなくなるから。やっぱりこうしておいて正解だったね」


「そうねぇ。あなたたち、カメラではよく写真を撮ってるんでしょう。ならそれとあわせてこういうのも残したほうがもっと思い出に残るんじゃないかと思ってね? せっかくの二人暮らしなんですもの。四年間なんかあっと言う間よ」


「感謝の言葉って伝えてもらっても案外すぐ忘れがちだから。何か嫌なことがあったときに見返すと、それだけで許せちゃったりするしね。週に一度は書いておくといいよ」


「〈ありがとう〉の曜日かぁ。いいですね」


「そうだね……せっかくだし僕らもやってみようかな。くるみはどう思う?」


「うん。真似してみたい」


 くるみも一も二もなく賛成のようだ。


 さきほどから妙に眩しそうな目で予定を眺めていたのは、もしかしたら羨望の感情も混じっているのかもしれない。


「カレンダーと、ついでにペンも明日の帰りに買いましょうね」


「じゃあ僕も父さんと同じで青にしようかな。名前と同じだし」


「私は何にしよう。オレンジとかでもいい?」


「くるみの好きなのでいいと思うよ」


 ——が次の瞬間、ワインで喉を潤してから、隣の琴乃へ小さく呟いたのは父だった。


「Are you a Sunday-start or Monday-start person for the week?」


「Of course Monday!」


 訳すとようするに、カレンダーで月曜と日曜のどちらから始まるのがいいのかを聞いているのだが、母の返事に父は考えこむようにおとがいに指を当てた。


「I knew it... But still, starting with Sunday just feels more natural, don’t you think?」


 ああ、と碧はぐったり額を抑える。


 ……どうやら両親のいつもの〈議論〉が、始まってしまったらしい。


「No way. The week starts on the day you start working, obviously!」


「But wouldn’t it feel nicer to think it starts after a rest day?」


「That’s exactly why you’re always late on Mondays.」


 くるみはフォークを止め、ぽかんと見つめた。


「……これ喧嘩じゃないよね?」


「ただの文化論争だから放っておいていいよ。いつもこうなんだ」


 両親は根っからの議論好きで、何かにつけてこうして英語で結論が出るまで話しあうのが、秋矢家のあるあるだった。


 さすがにくるみが驚いてしまうので、ここでは止めてほしかったんだけど……。


 そう説明すると、千萩もデザートのケーキに手を伸ばしながら何事もないように言う。


「今日の予約をするときも、ビュッフェにするかフレンチにするかずっと議論してたもん。たぶん愛情の裏返しなんだよ。お互いに考えを理解してほしいっていう」


「じゃあ仲がいいってことなんだ……?」

 引き気味に状況整理をする三人に、さすがに両親も我に返ったようだ。


「あら。ちょっと熱くなりすぎちゃったわね」


「まあこれも結婚の醍醐味ってやつかな? ははは……」


 昔からこの手の議論に巻きこまれがちだった碧は、はぁと大きめのため息を吐いた。


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