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第262話 この一年(2)



「これとかどうかな。築三十年だけど礼金なしの月八万円」


「わあ。結構リビング広いね」


「あーでもこれ一階か。やっぱりくるみは女の子なんだから、オートロックのできれば上の階がいいよね。くるみは駅からどれくらい離れてても大丈夫?」


「んー……私は碧くんがいるならどこでも幸せだしあまり拘りはないのかも。歩くのも好きだからね」


 こちらが赤くなったことには気づかず、くるみは貼り紙を見て続ける。


「とは言っても現実問題、あまり遠すぎても毎日の買い物が億劫になっちゃうかもしれないもんね。その隣の物件はワンルームだから、二人暮らしするにはちょっと狭いし」


「いざ決めるってなると迷うなぁ……」


 合格の報告を終えて、それぞれの親たちをおおいに喜ばせたふたりは、大学からJRの駅に戻る前に、とおりがかりの貼り紙をまじまじチェックしていた。


 たんぽぽハウジングという看板が出た、雑居ビルの一階。


 ゆとりのある採光硝子に並んで貼り出された、いろいろな間取り情報を前に、ふたりは吟味に吟味を重ねていた。


 大学に合格したからって、そこがゴールじゃない。


 やることはまだまだたくさんある。


 その最たるものが家探しだ。


 春を控えたこの時期のアパートやマンションはほんとうにひどい争奪戦らしく、条件のいいところは空いたそばから飛ぶように契約が決まっていくそう。


 なのでなるべく早く決めたかったのだが、どういう家を選ぶかの細かい条件をくるみとまだ相談できていなかったことにいまさら気づく。


 とはいってもついさっきまでは受験生だったから、そんな余裕はなかったんだけれど。


「……あっほら。住宅雑誌ですって」


 くるみが、扉の横にある〈TAKE FREE〉の冊子を、ラックから取り上げた。


「へー。こういうのも案外助けになりそうだね」


 細い指がぱらぱらと捲るのを隣から見れば、ここに貼ってある物件なんか氷山の一角だと言わんばかりに、たくさんのアパートやマンションの情報が載っている。


 なんだかんだWebで探すのが一番いいかと思っていたが、本気で探すならこういうところもくまなくチェックしていくほうがいいのかもしれないと思った。


「これも折角だから貰っていこうか。けどとりあえずいったんこの話は保留かな……そろそろ家に帰らないと夜の予定に間にあわなくなるし」


 碧は腕時計をちらりと見てから、受け取った情報誌をページが折れないようにデイパックにしまった。


「くるみもいろいろ探しておいてくれる? どういうところがいいか踏まえて。僕も調べるからさ」


「はぁい」


「じゃあ帰ろっか。父さんと千萩もホテルに到着したみたいだし」


 そう、今日が大事な日なのは実はもうひとつ。


 柏ヶ丘高校に合格した千萩が、日本への移住もとい帰国のためにはるばるドイツからやってくるのだ。


 そのために父は一週間ほど仕事の休みをとっており、今夜は皆でひとつ、碧と千萩、そしてくるみの合格と卒業を祝う席としてホテルでの食事を予約してもらっていた。予約を取った段階では碧の結果はまだ出ていなかったので、あくまで〈見込み〉だけど。


 もしもさっきの発表で駄目だったら、家族もなかなかおめでとうの言いづらい空気のよろしくないお祝い会になるところだったので、ちゃんと受かってよかったと心底思う。


「千萩ちゃん……会えるの一年ぶりだ。碧くんのお父様とも」


「母さんはしょっちゅううちに様子見にきてたけどね。まああれは半分くるみに会いに来てたみたいなもんだけど。持ってくる差しいれ大抵くるみの好きなパティスリーのケーキだったし」


「本当に琴乃さんにはよくしていただいて……ありがたい限りだわ」


 くるみが、表情をほっこりと綻ばせたのを、碧は優しい気持ちで見守った。


 親に同棲の挨拶をしに行ったときは、お呼ばれした訪問者として家主に失礼のないように、と謹んで振る舞っていたようなのだが、今はそうではない。うちの家族の輪にすっかりとけこんでいる。


「修学旅行のお土産、ずっと取っておいたの今渡しても喜んでもらえるかな?」


「うん。くるみの選んだものならなんでも喜ぶと思うよ。日本のものなら、なおさら千萩にとっては珍しいだろうしさ」


 日頃からよく連絡を取りあっているほど仲よくなった義理の姉妹だが、この一年はお互い勉強に集中するために、電話もメッセージも控えていたという。


 ならば、今日の再会はおおいに盛り上がることだろう。


 と、そこである事実に気がつく。


「珍しいと言えば……そういえば今日は、うちの家族が四人揃う日か」


「ええ。それが?」


「秋矢家がみんな集まるってめったにないんだよ。父がまとまった休みを取れたときに日本に帰るからそのときくらいかな。年に一度あるかないか。くるみは初めてだよね?」


「ああ。言われてみれば……」


「まあ……うん。だよなあ」


 碧が言葉に迷いながら、遠いまなざしで腕組みをする。


 何というか、これは説明に難儀する話だった。


「?」


 事情を知らないくるみは、不思議そうにこてんと首を傾げる。


「どうかしたの?」


「……や。うちの家族さ。というよりかは両親がなんだけど。ふたり揃うとちょっと厄介なんだよね」


 いちおう両親の名誉のために言っておくと、彼らは皿や茶碗を投げあうようなひどい夫婦喧嘩をするとか、そういうわけではない。


 むしろそういうシーンを見たことはないし、たまに父が帰国したときは二人きりで銀座のワインバーを梯子するのが定番なので、仲はいいほうなのだろう。


 だけどたまに——そう、たまに手がつけられなくなることがあるのだ。


 なのにくるみは一切気にしていない、というか、いまいち想像がついていないようで。


「ふふ。私賑やかなの好きだよ?」


 そういうのとはまた違うんだけどな……と訂正しようとしたけれど、くるみは秋矢一家の全員が揃うことに上機嫌な笑みを浮かべていたので、これ以上野暮なことを言うのはよしておいた。



明日はくるみの誕生日です!

修学旅行の話がちらっと出ましたが、本編では話の展開上すっ飛ばしてますので、そのエピソードは次の短編集(番外編)で語ろうかと思います。

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