第261話 この一年(1)
前回で「最終回近いのかな?」と思った方へ。
ぜんぜん終わりません。まだまだ続きます!!
引き続きよろしくおねがいしますo(^-^)o
三月八日。
桜の枝がまた、つぼみをつける季節。
大事な日の朝は、空気さえも違く思える。
『まもなく大塚——……The Next Stop is——……』
聞き慣れないアナウンスの読み上げる駅名だけを気にしながら、碧はワイヤレスイヤホンの音楽にぼんやり耳を委ねた。
がたんごとん、という線路の震動が、かえって気持ちを落ち着かせてくる。
あたりにはベビーカーと一緒に静かに佇む夫婦。春休みに友達と出かけている女子大生、スマホを弄るお兄さん、これから会社に戻るのであろうスーツの男の人。
当たり前の日常のなかにいる人たちのなかで、ひとり碧だけがどこかふわふわと浮いたような心地のまま窓を覗き見る。
ついこのあいだの朝までは空気がかなり冷えこんでいて、吐く息が白くなるほどだったのだが、今はもうだいぶあたたかい。
電車に差しこむ陽光は透明で、空は雲ひとつなくきれいに青く澄んで、何もかもがあるべきところにあるような完璧な昼下がりだ。
離れたところでは、違う路線の電車がしばらく並走しては別れていって、見知らぬ都会がどんどんスクロールしていく。
——ベルリンの実家訪問から日本に戻って、一年。
受験勉強に取りかかってからはあっという間に季節はめくるめく切り替わって、碧たちには次の春が訪れていた。
今やもう、高校三年生が終わろうとしている春。
卒業式まで残り一週間を切っている碧たちが高校生でいられる時間も残りわずかで、今日は次の肩書きが決まる、大事な日だ。
つまりは……今日が碧の人生を左右する、運命の日である合格発表。
ついこの間あった入試本番から今日を迎えるまでの日々は、案外落ち着いたものだった。
というのも、やるべきことは全てやり切ってあとは天運に任せるのみとなった以上、はらはらしてもいまさら何がどうなるわけでもないから落ち着くほかなかったのだが、様子を見にマンションにやってきた母には呆れられてしまった。
妹の千萩は受験にかなりびびっていたらしく「似ても似つかない兄妹だ」と。
しかしそれも今日を持ってようやく、本当の意味で受験から解放される。
二人が受験した教院大学はホームページでも結果の開示をしているが、現地では昔ながらの受験番号の掲示も行っている。
碧とくるみは二人で事前に話しあって、せっかくだしちゃんと大学に行って確かめに行こうというところに落ち着いた。
受かったらどうせ大学の近くに家を探すことになる。ならば合格した足のまま、近くの住宅街を散策なり不動産屋にいくなりして、引っ越し計画を進めたほうがいい。
受かったらだけど……という及び腰なことは、考えないようにした。
『地下鉄南北線はお乗り換えです——……Please change here for the ——……』
もう何分か電車に揺られれば、今日降りる予定の駅が碧を迎えてくれた。
受験した教院大学は、都内の文京区にある。
住んでいる調布市からは遠いので、今日はこうして長らく電車に揺られてきた。
いかにも都会らしい曲調のメロディーと一緒に払い出された碧は、改札口の案内板を見ながらなんとか駅を出て、道を辿っていく。
電車に乗っている時は見かけなかったけれど、ここまで来ると同じ目的を持っているであろう人はちらほら見つかった。
保護者と、あるいは友達同士で、受験票らしき紙を握りしめてそわそわとしながら出口を目指していくから分かりやすい。
どこか春らしい空気を吸いこんで、碧も彼らに着いていく。
大学は、駅からほど近いところにあった。
そして……碧の待ちあわせていた人物もまた、すぐに見つかった。
明るい陽の光が届けられる街のなか、大学の立派な門扉の前で佇んでいるのは、ひとりの美しい少女。
そのシルエットはいつもながら、小柄でほっそりと華奢だ。長くてカシミアのようにつややかな栗髪はいつもどおり真っ直ぐ下ろしており、人待ちの少女があたりを探るように首を動かすたび、ゆるやかに揺れる。
いちおう学校がらみの行事ということで高校の制服を着ている。三月とはいえまだ肌寒いからだろう、そこにくすんだキャメルの、厚手のカーディガンを羽織っていた。
卒業をまもなくに控えて、あと何度見れるかも分からないその格好に愛おしさを覚えた碧は目を細めた。
後ろからそっと気づかれないように近寄り……その細い肩に両手をおいてみる。
「だーれだ」
「!」
一瞬驚いたような吐息が洩れ、碧はそこに見えない猫耳がぴこっと動くのを幻視した。
が、振り返らないまますぐにつんと澄ました返事。
「……まったく。碧くんてば」
「当たり」
「別にクイズに答えたわけじゃなくて。というか私にこんな悪戯をするの、世界広しと言えどあなたしかいないでしょう」
「そりゃあいるとしたらつばめさんとあとはうちの母さんくらいだしな。宮胡さんは……するかなあ?」
「想像できないわね」
くるみは可笑しそうに肩を揺らすと、くるりとこちらに体を回した。
いつもどおりの、お砂糖のように甘やかなヘーゼルの瞳がこちらを優しく見上げて、そんな些細なことが碧を安堵させてくる。
「じゃあ行きましょうか。碧くんの合格を見届けに」
「合格してる前提なんだ?」
「この一年碧くんがあれだけがんばったこと、私知ってるの。ちゃんと見てたんだから。だからきっと……ううん。ぜったい受かってるわ。私が保証する」
ふわっと浮かぶ淡い笑みは、もしものことなんて微塵も思っていないものだ。
ただ、碧の成功しか信じていない。
それだけで、人知れず僅かに残っていた体のこわばりが、ふっと解ける感覚があった。
「くるみのお墨つきなら僕も、そんな気がしてきた」
手を差し伸べると、くるみが嫋やかに口角を上げて、小さな掌を重ねてくる。
そうしてお互いに指を絡ませ密着させると、ふたりは大学名の刻んだ柱に挟まれた門扉を潜り、キャンパスのほうへ続く小道を歩き始めた。
思えば、この一年ほど机にかじりついたことは未だかつてない。
学校ではもちろん授業を聞いて、休み時間にはお弁当を広げながら問題を出しあい、塾や予備校こそは行かずに家ではみっちり勉強。
くるみの支えのもと、問題集をぼろぼろになるまで何周もして、参考書を穴が空くほど見て。調子が出ずに冬の模試の判定がいまひとつだったときもあったし、残り二ヶ月を切ったときに見覚えのない重要単語がぽろっと出てきて焦ったりもした。
それでもめげずにやってこれたのは、彼女と同じキャンパス・ライフを送ることが今の碧にとって、いったいどれだけかけがえのない価値と重みを秘めているか。そして何よりは〈これまで支えてくれたくるみにどうにか報いてやりたい〉……そんなひたむきで、がむしゃらな想いがあったから。
歩きながら、辺りをそっと見渡してみる。
予想はしていたが、カップルで合否結果を見にきた人は、あまり見かけない。
多くは保護者や教師らしき大人と一緒か、友達同士か、あるいは一人かのいずれかだ。
ゆえにやはり手をつないで歩くのは、ここだとやや目立ってしまうらしい。なんだか若干浮いている気がした。
——まあ僕がいなくても、くるみはひとりで人目を惹くだろうけど。
「また有名人になりそうだなあ」
「何か言った?」
「くるみの大学でのあだ名を予想しなきゃいけないなーって言った」
「あだ名……? や。止めてよ。縁起でもないこと」
眉を寄せたくるみは、わりと本気で嫌そうだった。
でも、くるみのような稀有な人間はどれほど探したってそうは居まいのは、散々わかりきった話だ。きっと大学でも皆の人気者になるのだって手に取るように予想がつく。
何にせよ、さすがに高校時代の一度聞いたら忘れないあだ名……〈スノーホワイト〉に勝るものはないだろうが。
小さなため息を落として、澄んだ榛の瞳がほんのり細められた。
「そんなことより碧くん。昨日はきちんと眠れた?」
「うん。やることもなかったから九時にはすでに横になってた」
碧がそう言うと、くるみは苦笑した。
「さすが碧くん。そこまで堂々としているなら、心配はいらなかったみたい」
「それはくるみがいてくれるからだよ。もしこれが一人での受験だったらまあ……代わりに誰かに合格発表を見てもらって、教えてもらうくらいしてたかもしれない」
自信は正直、そこまであるわけではない。
これだけ人が集まっているのだ。自分より優秀な人なんかごまんといるし、大学受験は限られた椅子の取りあいだから、誰かが勝てば誰かは必ず負けるものだと理解はしている。
ただ、この一年これだけくるみに支えてもらって積み重ねた努力の成果は、きちんと本番に出し切れたと思うので、後はそれを見届けに行くだけだという心境だ。
なので碧はいつもどおり笑ってみせたが、くるみはしおらしく睫毛を伏せてしまった。
「もしかしてくるみのほうはあまり寝れなかったの?」
「実はね」
ほんのりとした苦笑が返ってくる。
「碧くんの人生の一大事だと思うとどうしても……」
細い指が、教会で祈りを捧げるシスターのように組まれる。
結果を見るまで行く当てのない動揺や心細さを、今こうして、なんとか押し留めたいのだろう。
「だからあなたのその動じなさを私もちょっと、見習ったほうがいいのかもしれないわって思ったの」
「くるみが思い詰めることないのに。僕はともかくそっちはもう受かってるんだからさ」
「碧くんのばか。私ばかり合格したって駄目なんだから」
罵倒と共にそうきっぱり言い切ったくるみが、きっと眦を吊り上げながらも、腕にぎゅっとしがみついてくる。
「……ふたりで幸せにならなきゃ、駄目だもん」
こちらをほのかに睨むくるみを優しく抱き留めつつ、碧は納得とともに頷いた。
「くるみのお母さんの出した条件だもんな。一緒に暮らすための」
「そうだけどそうじゃなくて。私たちふたりともが、ちゃんと第一志望の学校に合格するのが大事なの。碧くんなんてここしか受けてないんだから、なおさら」
「だって他にこれだって大学もなかったしさ。本番は解けた手応えはあったから大丈夫だよ。とはいえ猿も木から落ちるって言うし、何があるか分からないのが受験だけど」
「ああ碧くん。ここで落ちるとかすべるとか言うのは……」
「ん? ……あ」
一瞬遅れて気づいた碧は口を押さえた。
「日本じゃそういうの縁起が悪いんだったね。ごめん」
「ただの言葉遊びというか、連想みたいなものだから私は気にしないんだけど、他のかたはどう思うか分からないものね」
「花言葉は気にするのに?」
「もー。それは話しが違うもの。ほら早く行こ?」
くるみはぐいぐいと袖を引っぱろうとしてくる。
もちろん体格からしてびくともしない碧はそれをかるくいなしてから、優しく手を引き直す。くるみは「むぅ」と唸りつつも、大人しく連れられていった。
合格発表がキャンパスのどこでされてるのかは事前に調べてはいたが、他校の制服の人たちが一様に同じところへ歩いていくので、それに着いていくだけでよかった。
それがなくても受かった人が胴上げとかされてるかもしれないし、賑わっているほうに行けばすぐに分かるだろう。
なんて目論見はきちんと当たりだったようで、ほどなくすれば人だかりが見えてきた。
学科ごとに分かれた大きな掲示板。
貼り出された白い紙には番号がびっしりと並んでいるのが遠目でもわかる。そしてあたりは紺やグレーのブレザーを着た受験生で埋め尽くされていた。
友達同士で涙ながらに抱きあうものやら、掲載された番号の写真を撮るもの、はたまた何も言わず立ち尽くすだけの人からそっと踵を返す人までがいり混じっている。
まるでドラマのような、人生の交差点の後ろで、碧は足を止めた。
「くるみ」
「はい?」
「僕の番号代わりに探してもらってもいい?」
「いいけど……碧くんは『あった!』ってしたくないの?」
「くるみが探したほうが確率上がりそうだから」
「別に誰が見たって同じなんじゃ」
「くるみが僕の番号を見つけて、喜んでるところを見たい」
彼女の言うとおり、もう結果は確定しているのだから誰が見たって同じ。
だけど、もし努力の結果が花開いているのなら、その花はくるみに一番にプレゼントしたいと思っただけだ。我ながら気取った発想だけど……。
碧がそう言って紙の受験票を渡すと、こちらの意図を分かってくれたのか、受け取ったくるみはきょとんとしていた表情から一転。
なんとも頼りがいのあるお姉さんみたく言った。
「……わかったわ。なら責任を持ってちゃんと見つけるから、安心して私に任せてね」
くるみがそう言ってくれたら、本当にどんなことでも大丈夫な気がしてくるのだから不思議なものだ。
ふたりは間隙を縫うように、ごった返した人混みをかきわけて一番前まで来た。
最後に一度だけ、確かめるようにお互い視線を交わしあう。
うん、とどちらともなく頷きあってから、くるみが一度深呼吸をし……〈国際文化学部〉の掲示板から番号を探し始めた。
いつになく真剣で、刃の鋒のような鋭さを帯びたヘーゼルのまなざしが、ゆっくりゆっくりと掲示をなでていくところを見たっきり、目を伏せる。
誰かの万歳が、嗚咽がやけに遠く聞こえる。
まるで別世界の出来事のようだ。
一度くるみに話しかけようとして、やっぱり止める。
待っていたのはきっと、時間にしたらほんの僅かな間だろう。
だけど碧にとっては、永遠にも思えたその果てに——
「……!」
くるみからはっと吐息が洩れて、つないだ手が、ぎゅっと握られる。
つられて見れば、彼女も髪を躍らせてこちらを振り返ったところだった。
「碧くんっ——」
もともといつだって潤んでいるようなヘーゼルの瞳に、涙の珠が余計に滲んでいく。
訴えかけるような目に碧は、くるみがこれ以上何を言わずとも何を言わんとしているかを悟った。
掲示板を見るまでもなく、それが何よりの答えあわせだったから。
くるみ、とその名を呼びかけようと碧が口を開きかけたのと、彼女が人目も気にせず首に飛びついてきたのはほとんど同時だった。
「碧くん……碧くん……あった。番号あった! 合格おめでとう……!」
合格。
涙して祝福を告げるくるみが、その言葉はなんだか現実味を帯びていなくて。
いっぽうで心の何処かは冷静なまま、彼女の万が一の見間違いじゃないことを確認するため、碧もくるみを抱き止めたまま首を回して掲示板を瞠る。
〈004627〉
果たしてそこには、登録や手続きなどで何度も書かされてすっかり覚えた受験番号が、そっくりそのまま載っていた。
——合格。
初めはその事実が指し示すものを、理解し受け取り切るのに時間がかかった。
だけど涙目で抱きつくくるみを見ることで、やっと現実におきた自分の出来事として、すとんと落ちてくる。
「受かってる」
「……! ……!」
くるみはもう言葉にならない大きな感情を、こくこく何度も頷くことでしか表現できないようだった。
その喜びようをみるにつけようやく、碧にもじわじわと大きな歓喜が滲んでくる。
やがてそれは、こぼれんばかりの笑みとなって碧の表情に浮かんだ。
「じゃあ僕も……この春からくるみと同じ大学ってことか」
「うん!」
「そっか。よかった——」
がんばってよかった、という気持ちもさることながら、大事な人をここまで喜ばせることができたことが、碧にとっては何よりの喜びと誇りに思える。
晴れて合格が確定したら、あとはやることは明確だ。
そのまま案内に従って、学務課で手続きの書類や大学生になるにあたってのガイドブックを受け取り、晴れやかな気持ちで正門を出ると二人はスマホを取り出す。
「まずは母さんに受かったことを報告だな」
「私の親にも伝えなきゃ。一緒に暮らす条件は、碧くんの志望校合格が前提だったから」
「ってことは……これで僕も楪家公認なのかな?」
「父はもう、碧くんのことだいぶ気にいってるみたいだけどね。この間も『有名な神社のお守り買ってあげたら碧くんは喜ぶかな?』なんて言ってたし」
「実はメッセージでも入試前日に『明日はがんばれ!』って連絡きてたよ。『受かったらまた居酒屋でごはんしましょう』って送ったら『いくらでも!』って言ってくれた」
「あら。いつの間にそんなに仲よくなって」
なんて和やかな会話をして、それぞれ両親へ電話をかけて、合格の報告を差し出す代わりに、お祝いの言葉の受領をする。
春の気配のただよう、昼下がりのこと。
そうしてふたりの世界は、彼らの春は再び始まっていく。




