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第260話 やがて季節は巡っていく(3)



 琥珀が去ってから、碧とくるみはまだしばらく、桜並木に佇んでいた。


 それがまだ、まったりお花見をするという目的を果たしていないからだけじゃなく、さきほどの会話の残響に囚われているからなのかは、分からない。


 ただどちらとも一本の桜の樹を見上げながらも何も言葉を交わさず、それでもどこまでも分かりあっている気がした。


 さっと陽が差して、視界を眩くて透明な光で染める。


 空にはようやく本当の晴れ間が訪れたのか、さっきより明るいパステルブルーに、白が淡く霞んでいる。梢枝のあいだを名も知らぬ鳥が羽ばたき、定規で引いたように真っ直ぐな飛行機雲が、妙にくっきりと浮かび上がっていた。


 それをキャンバスに、はらりひらりと、枝を離れた桜が舞い落ちていく。


 一枚の花びらが、風にかろやかにひるがえるのを目で追ったところで——突如、後ろからぽすっと体重がかかった。


「……よかった」


 額を預けるようにして、くるみがしみじみ呟く。


 短い一言だけど、そこには様々な感情がこめられているのだろう。


「私、二人が話しているところを見て……ほんとはちょっと、彼女失格になるんじゃないかって、思ってた。碧くんを余計に惑わせるようなこと、言っちゃったから……」


 それに対し、碧は首を振る。


「違うよ。くるみが助言をくれたから、僕はちゃんと本音を言うことができたんだから」


「本当……?」


「ほんとほんと。おかげでもう昔の出来事には憂いはなにもなくなった」


「……碧くんは本当に、大人になったのね」


 柔らかさと手放し難い温もりを覚えながら、お腹に回されたくるみの小さく細い手に、自分の掌を重ねる。


 小さな手が生き物のようにぴくりと跳ね、それから尋ねるように彼女からもふれてくる。


「……うん」


 交際する前も後も、いくどとなくつなぎあった、愛する女の子の手。


 時にはお互いうかがうように慎重にふれあい、またある時はもどかしがるように引っこめ、今度は深く絡ませあった手。


 その掌がこんな、日本から遠く離れたベルリンの土地で自分にふれていることが、なんだかとてつもない奇跡のように思えて止まない。


 不思議な感慨に耽っていると、服の上でもぞもぞと、くるみがためらいがちに喋った。


「あの。……嫌な女って思われたくないから、言うつもりはなかったんだけど」


「ん?」


「じつはちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、妬いてるから」


 と思いきや、拗ねたような可愛らしいやきもちを言ってくるものだから、思わず笑ってしまった。


「な……なんで笑うの。ばか。あおくんのばか」


「だって琥珀はあのなりだけど、ちゃんと男だよ?」


「知ってるけど、そういうことじゃなく」


 笑われたのが不服らしいくるみは、むぎむぎと抱きつく腕に力をいれる。


「大事な友情なのは分かっているけれど……やっぱり碧くんが誰かの人生に影響を与えて、影響を受ける相手がいて、その人をいいなあって、思っただけ」


「んー。それはまあ……分からなくもないか?」


 たとえば碧なら、くるみの清く正しい情操教育に深く関与した上枝には感謝しきりだが、同年代の友人となるとまた違う感想を抱くのだろう。


 なんにせよ、碧が誰にもよそ見をしないと分かり切っているうえで表現してくるくるみの些細なやきもちなんか、ほほえましくて可愛らしいものだ。


「彼女だもんな」


「そう。彼女だもん」


 ふふと喉が優しく鳴るのが聞こえた。


 表情は見えないがきっと、砂糖菓子のように繊細で甘やかな、いつもの笑みをしているのだろう。


 くるみが、こちらの体に回していた腕を解く。名残惜しく思っていると、羽のようなかろやかさでこちらの視界に回った彼女が、亜麻色の絹束をふんわりと空気に泳がせ、首をすこし傾げて言った。


「じゃあ仕切り直し。きちんとお花見しましょうか」


「でも団子がないと花見と言えなくない?」


 ここに来るまでにスーパーに寄ったのだが勿論、和菓子は売っていなかった。


 いちおうケーキはあったが、花見のお供にするには結構甘さがあってお株を奪われかねない。つまり花より団子となるわけで。


 なのでそちらと二者択一で迷って買ったのは『Lotus』のカラメル風味だ。


 碧もくるみも日本で何度も買っては勉強のお供にしているお菓子である。


「もう、くいしんぼさん」


 くるみは人差し指で、こちらの頬を突いてきた。


「確かにさっきはビスケットしか買えなかったけれど……ここでも探しまくればお団子も見つかるかもしれないよね」


「僕は一度も見たことないな」


「じゃあお茶とビスケットでがまんしてください」


 そりゃそうだ。こってり重いケーキは、花見よりは家でゆっくり味わうべきである。


「ていうか、お茶は持ってきてたんだ?」


「さっき琥珀さんに淹れたとき、ついでに緑茶を淹れてたのを持ってきてるの。日本から持ってきた銘柄のをね。こっちじゃなかなか売ってないでしょうから」


「いつの間に……」


 荷物は碧が持ってやっているが、確かにいつものトートより重たい気がしたのは、そういうことだったらしい。


「確かに、そろそろ日本が恋しくなる頃だもんなあ」


「きっとそうだと思って。もうすこし歩いて休憩したくなった時に出してあげるわね」


 くるみは桜を見上げるようにして、碧の一歩さきへと出る。


 結局お団子もお茶も今はお預けをくらった碧だが、それでも満たされた気持ちで、自分を導くように歩くくるみの、華奢なシルエットを眺めていた。


 桜の映し出された水たまりを、パンプスがゆったりと飛び越える。


 淡い栗毛が、春風に乗せられて、天使の羽のようになびく。


 可憐な桜の花に、もし人の姿を与えたらこうなるのではないか、というくるみの風采に、気づけば碧は見惚れていた。


 それはさながら、本当に桜の妖精のようだったから。


 同じ日本人の自分にはとくに目もくれないのに、行き違う人は皆、まるで花を愛でるような目で、くるみを眺めている。


 彼女の類稀なる美しさに、どうやら国籍は関係ないらしい。


 いつも学校なら、雪の妖精(スノーホワイト)——なんて表現されがちな彼女だが、やっぱり春が来れば暖かい気候で解けて消えてしまうものよりも、毎年長きに渡って美しく、咲き誇り続けるもののほうが、ずっと彼女らしい。


「碧くん?」


 呼ばれて見れば、一歩前にいるくるみがいつのまにか振り返っていた。


 尋ねてきたのはこっちの考え事が表情なりに浮かんでいたから、だろう。


 透明度の高いヘーゼルの瞳には、こちらの思惑を見透かそうとするような、それでいてうかがうようなものがあった。


「何考えてるの?」


「くるみが美人だからみんな見てるなーって」


「本当のところは?」


「いや今のも嘘ではないんだけど。……さあ、なに考えてるでしょうか?」


「勿体ぶらないで教えなさい」


「わ。わかったわかった」


 ふざけた回答のせいでぶつかり稽古をされた。


 別に隠すことでもないしな、と碧は、今度は素直に答える。


「やっぱくるみは、雪よりも桜のほうがずっと『っぽい』なって思ってた」


「私が桜?」


 碧は、遠くと今をなぞらえるようにくるみを視線でなでる。


「だってくるみって、すごく儚げ……っていうかさ。見た目もこう、桜と同じで系統がパステルカラーってかんじで淡いし。目を離したらその一瞬の間に居なくなっちゃいそうだったもんな。昔は」


 出会って間もない頃の、くるみ。


 つんけんと氷柱みたいに刺々しいところもあったけれど、今になって振り返れば、かよわくて繊細な女の子だった……と思う。


 なんせ、友達どころか親にすら話せなかった自分の貫きたい生きかたを、たとえ賛同してくれる人が何処にもいなくたって、この年までただ一人きりで肯定し続けていたのだから。


 自分で自分を諦めなかった彼女に今日までどれほどの孤独があったかは、碧では計り知れない。だから出会ったばかりの時、あんなに儚く見えていたのだろう。


 だけど今、くるみは確かにここにいる。


 決して居なくなったりはしない。温度で解けてなくなったりはしない。


 だから誰が雪と呼ぼうと、碧にとっては彼女は〈空知れぬ雪〉——桜なのだ。


 その評価が思いもよらなかったのか、くるみはしばし目を丸くすると、口許を抑え、上品に肩を揺らす。


「恋人を花に例えるなんて。ずいぶんロマンチックなことを言うんだ?」


 おかしな碧くん、可愛らしく笑うくるみは、碧にとってはどう考えたって桜よりも美しく、惹かれてしまう存在だ。


 なのだが、本人は碧の談すら正当なものと思っていない様子で。


 屈託なく笑うものだから、まるでこっちが自惚れた事を言ったみたいで、なんだか気恥ずかしくなってきた。


「あんま笑わないでよ。本当に思ってたことなんだから……」


「じゃあ今は?」


「え?」


「今も私、いなくなっちゃいそう?」


 くるみが悪戯っぽく尋ねる。


 その様子に碧も、冗談で乗っかろうかと一瞬思ったが止めた。


 握ったくるみの手をやわやわと揉みつつ、やっぱりちょっとだけ真剣に返事をした。


「僕が手をつないでるし、ずっと隣にいてくれるらしいので。心配はしてないよ」


 不服を表すようにむにむにと揉み返される。


「そこは訂正を求めます。らしいじゃなくて事実として、いるんです」


「ごめん間違えました。いてくれるので」


「よろしい」


 隣、というのはなにも、地図で測量できる距離の話をしているのではない。心の距離の話をしているのだと、わざわざ説明せずともくるみは理解してくれているようだった。


 くるみは「まったく碧くんは」なんて可愛らしいお小言を零しつつも、枝を離れて風の吹くままに旅をする桜の花びらを緩やかに目で追っている。


 目を細めて、散りゆく桜吹雪を愛でているくるみを、碧もまた近くからそっと眺め、愛でていた。


 大切な人が隣で笑ってくれていることがどれほど尊いかを、どれほど幸せなことかを、前の碧は知らなかった。だけどそれが今は得難く貴重なものだと分かっている。今が世界の誰より幸せのど真ん中にいると、掛け値なしに信じている。


 口が弛みそうになるのをごまかすように、桜を鑑賞するふりをして目を細めながら天を仰ぐと、くるみの掠れるほど小さな呟きが、耳に届いた。


「私は……春が一番すき」


「いろんな花が綺麗に咲くから?」


 どうやらそれが見当外れだと分かったのは、長い栗毛が左右に揺れたからだった。


「違う?」


 くるみはくすぐったそうに目を細める。


「だって、碧くんを好きだって気づけた季節だから」


「僕を……」


 すっと耳に沁みこんだ、彼女の言葉。


 それはいつしか碧に、ひとつの問いをもたらしていた。


 曰く、お互いに差し出したものを天秤にかけたときの話だ。


 くるみは手料理に勉強にといつも尽くしてくれて、今日だって碧の手を引いて正しい方角へと導いてくれて、安寧をもたらしてくれて、守りたい気持ちを奮い立たせてくれて、その存在そのものが碧にとっては眩い光で。


 だけど碧はくるみに同じだけのものを差し出せていない。


 つまりは、こんな風にくるみは言ってくれるけれど、ひたむきに愛して信じて隣にいてくれる彼女のために、こちらまだなんのお返しもしてやれていないんじゃないか? と。


 そう自問自答してしまっていたのだ。


 いつだって貰ってばっかりで、自分も彼女のために何かしてやりたいのに、借り物だけが募っていく。


 ならば、どうしたらくるみを喜ばせることができるだろう?


 大事な人に、何をすればこの愛情を伝えられるだろう?


 ——ひとつだけ、今の僕からあげられるものが、あるとしたら…………。


「ああ。間違いないな」


 誰にも届かない独り言を零した碧はすでに、ひとつの答えに辿り着いていた。


 くるみへの、一生に一度の大きな贈り物。


 それはゆびさきに灯す、永遠の約束。くるみの将来を確約する、誓いの印。


 すなわち〈婚約指輪〉しかないということに。


 くるみのその細く華奢な薬指に、想いをかたちにした石を輝かせてやりたい。いつか、仕事によっては世界中を飛び回ることになるかもしれない碧だから、日本に待たせてしまう彼女のために、生涯離れないことを誓う証がほしい。


 まだ学生とはいえ、法律で言えばあとちょっとで立派な大人だ。


 高校卒業するまでまだ一年あるけれど、くるみとの将来を、曖昧なものじゃなく手の届く現実のものとして考えたい。


 次ドイツに来る時は、婚約の挨拶をする時にしたい。ふたりで築く家族を、目に見えるもの、かたちあるものにしたい。


 それにどれくらいかかるかは見当がつかない。とくに金額で、それなりにかかるだろうことは覚悟している。


 けれど、大学にはいって四年間勉強をして、オーストラリアの大学院に行くまえの、日本で迎える最後の桜開花を迎えるその日までには、きっと……。


「……僕も気づいた。やっぱり、春が一番好きだって」


「じゃあ、ふたりでお揃いだね」


「今度は日本でだけど、また来年も一緒にお花見しような」


「はい。喜んで」


 くるみは純真な笑みを咲かせると、甘えるように腕に寄りそい、頬擦りをした。


 ——あと何回、くるみと桜並木を肩を並べあって歩くことができるだろう。


 つい昨日まで抱いていたそんな問いに、期限などないと答えを突きつけるために。


 ——生涯を誓えば何回だって、またここに来られる。


 何年だって何十年だって、隣にいられる。


 一緒に笑って泣いて、そんな尊い時を途切れることなく刻んでいくために。


 いつしか、世界でいちばん大切な愛の言葉を————。


 もう見えなくなりそうな真昼の空に浮かぶ月と、飛行機雲を見上げてくるみの手を握る。


 風にのって短い旅をする桜の花のひとひらを、時折くるみが愛おしそうに見送る。



                *



 やがて、季節は巡っていく。




 帰国を惜しむ家族に別れを告げれば、残りの春休みはあっと言う間だった。


 高校三年としての始業式が行われ、名実ともに本当の受験生になったわけだ。




 青葉とかしましく鳴くせみが、夏を連れてきた。


 ふたりが目指すのは、偏差値で言えば東京六大学と引けを取らない名門大学だ。


 このままの成績なら合格は十分に目指せる、と面談で教師からはお墨つきを貰ってはいたが、とはいえ余裕などかましていられない。バイトも卒業した夏休みは、朝から晩まで明け暮れる勉強のせいで休みらしい休みはなかった。


 なのにちっとも困難とは思わなかったのは、間違いなくくるみのおかげだ。


 指定校推薦を狙っているくるみは学内での評定も上々なので、本来受験勉強をする必要はない。だけど毎日うちのマンションで、同じ時間だけ勉強につきあってくれていた。



 

 暮れゆく残暑と涼しい風が、秋を呼んできた。


 九月六日は、つき合って一周年記念日(アニバーサリー)だった。受験生とはいえ記念日は大事にしたいという価値観の二人なので、なにをするかを話しあって、時間が許す限りのデートをした。


 そして衣替えをして制服の袖が長くなった頃、くるみが教院大学の指定校推薦の合格をあやうげなく貰って帰ってきた。


 ひと足早く、教院大学生となることが決まったのだ。


 三年間で一度たりとも首席を明け渡さなかった末の合格なのだから、うちの彼女は本当にすごい。碧の母も、まるで我が子の栄誉のように、涙を浮かべて喜んでいた。だけど何より一番喜んでいたのは……くるみのお母さんだったと思う。結果のメールが届くまえから、合格祝いを包んで待っていたと、彼女の父の友晴が教えてくれたから。




 泣いても笑っても高校最後の、冬がやって来て。






 ————そしてふたりは、また次の春を迎えた。






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