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第259話 やがて季節は巡っていく(2)



 乗りこんだバスに揺られ、延々と続くと思われたベルリンの壁やその崩れたがれきの跡にも終わりはやってくる。


 代わりに桜がようやく現れたときの感想は「やっとか……」だった。


 目的地まで距離があったのもそうなのだが、近況を伝えあう会話のなかで琥珀が、何かにつけて目を輝かせてはいちいち


「さっすが()()碧!」


 とストレートかつ大仰に賞賛してきて、それを聞いたくるみがむむっと何かを言いづらそうにしたりしたので、間に挟まれた者としては気が気ではなかったのだ。


 たぶん琥珀はわざと挑発しているのではなく、ただただ本当にすっとぼけているだけなのだろうけど、くるみはくるみでその自覚のない挑発にすっかりのせられていた。


()()碧くんだからそれくらい余裕です」


 と警戒し、碧の腕にしがみついて離れないのだ。


 あの慎ましいくるみがここまで我を出すのもそうだけど、普段なら誰とでも卒なく穏やかに会話ができるところ、ここまで棘を出すのも珍しい。


 ——このふたりが仲よくなることって将来あるのか……?

 ——うーん。なさそうだなー……


 碧は空気がぬけた風船のように、ぼんやり空を見上げるしかなかった。


 そんなこんなで、珍道中をしながらやってきた桜並木は、イーストサイドギャラリーのまわりの建物とは違って、哀しくなるくらいにあの頃となんらかわらなかった。


 だけど十年前よりはずいぶんと人で賑わっている。散歩をする夫婦。犬を連れたおばさん。ビールの瓶を片手にした若者。三つ目なんかは国柄が出ているとは言え、日本独自と思われた〈桜の花を愛でる文化〉が、あれからさらにドイツで広がったのかもしれない。


 かつてくるみと見に行った成城学園前の、淡く控えめで繊細な彩りをしたソメイヨシノとはまた違う。


 誰の目も惹くあざやかさな八重桜が空いっぱいに花房を広げ、どこまでも連なっていた。


 泣き止んだばかりの、まだ晴れきっていない空をキャンバスに、昔は手が届かなかった枝が目線と同じ高さで揺れていた。そこよりずっと高いところにはずいぶんと気の早い三日月が、真昼にも関わらずにふんわり浮かべられている。


 たった十年。


 何歩かさきを琥珀が、キャリーを転がして先導していく。


 半年前に再会したときは気づかなかったが、ずいぶんと背が伸びている。


 されど、十年。


 これだけで見える風景がこんなにも違うことに小さく驚きながら、空に解けてしまいそうな儚い月を眺める。


 ——ここへは次いつ帰ってこられるだろう。

 ——そのときになれば、僕は出すべき答えを、出せているんだろうか。


 なんてことを思ったところで、くるみがこちらを見上げている気配がした。


 一年半も一緒にいれば、もうそのくらいお見通しなもので、やはり当たりだった。


「くるみ?」


 しかし呼びかけには答えない。


 ただ透きとおる榛の瞳が、じいっとこちらを見ている。


 けれどそれは、何か気がかりがあったり、こちらの心境を憂えるようなものではない。


 ほんのりと上がった口角が、それを裏づけている。


 言うなれば、ただひたすら碧を信じていることが真摯に伝わる、そんな愛情のあるまなざしだ。


「……碧くんは、春は好き?」


 透けてたはずの碧の考え事とはなんの脈絡のなさそうな問いかけも、あえてのものだと分かる。世間話ということだろう。


「どうだろ。あんまり季節に好き嫌いはないけど……桜もちとか蓬団子がうまいってことなら好きかも」


「ふふ。すぐおやつの話する。……琥珀さんも、この後のお花見に誘わなくてよかった?」


「いいよあいつは。荷物もあるし、団子も花もべつにそんな好きじゃないだろうし。落ちてる桜の木の枝振り回すような罰当たりなやつだもん」


「ん? 呼んだ?」


 名前を聞き取ったらしい琥珀が振り返ってくるので、碧は「また転ぶぞ」と注意喚起だけしておいた。


 隣でくるみが可笑しそうに、ほのかに笑う。


「碧くん、やっぱりなんだかんだ好きでしょう。春」


「まあ。いろいろ思い出すことがあるからな。琥珀とかルカとかのいろんな人と出逢ったりしたの()、この時季だから」


「も?」


「いちおう僕の一番の思い出は春にあるからな」


 ぼかすように小さく笑えば、くるみは不思議そうにしていた。


 碧の抱える春の思い出は、実はくるみが一番を占めている——という話は、のちほどでいいだろう。


 これがくるみがドイツに来て初めて見る桜なんだなと思うと、感慨深いものがあるから。


 なんて考えていると、くるみの口許がほのかに弛んだ。


「碧くんなら大丈夫よ」


 それに何か言葉を返してやれる前に、ずっと一歩さきを導くように歩いていた琥珀が、清々しい笑みで振り返る。


「じゃあ僕はこの辺でおいとまとしますか! この後ふたりでお花見デートなんだもんな」


「あー。……琥珀にとっては、思い出になったか?」


 さっき聞かれたことをそっくり問い返せば、


「今日のことは、忘れるまでは覚えとく」


 と、琥珀だからこそ言える冗談で返ってきた。


 くるみも、彼に挨拶をかける。


「お大事にしてくださいね。予報では今日はもう雨は降らないみたいですけど、風邪を引かないように……」


「このあとはまっすぐ家に帰るから大丈夫。彼女さんにも迷惑かけちゃったもんな。ハーブティーうまかった。ありがとね」


 キャリーバッグを引きながら、彼は踵を返して……


「あ。そうだ」


 と何かを思い出したように、再びこちらを顧みた。


「また渡しそびれたお土産でもあるとか?」


 そうじゃなくて、と琥珀が言う。


「言い忘れてたことがあった」


「なんだ?」


 訊けば、琥珀はすうっと一拍挟んで——


 まるで少年のように、とびきり明るく言った。


「実はさ。()()()()()()()()んだ」


 驚きこそすれど、動揺はしなかった。


 第一に口調が。第二に笑いかたが。ならば次の瞬間こう言われるかもしれないと、知らずのうちに身構えていたからかもしれない。


 それにもし彼の言葉に狼狽してしまっていたとしても、隣にいるくるみの清らかな温もりが、碧を包むように宥めてくれるだろうことは分かっていた。


 だから碧は彼の告白を、現実のものとして、いっそう静かに聞きいれることができた。


 琥珀は、小さく言い直す。


「……いや、再開っていうよりはいちから始めたって言ったほうが正しいだろうな。本当はもっと上達してから言いたかったんだけど、隠してもしょうがないし」


 それから遠くを見るような目を翳らせた。


「はじめはさ、鍵盤なんて見るのも嫌だったんだよ。事故のあとに、友達だったっていう人に会ってみれば、みんな口を揃えて『生きててよかった』なんていうけど、目は物語ってたんだ。天才がいなくなったのが口惜しいって。みんな僕を見ているように見えて、違う僕を見ている。それがずっと嫌だった。けど……今の僕の力が過去に及ばないって知ってしまうのはもっと嫌だったから、何もできなかった。いや、何もしなかったんだ」


 記憶をなくしてからおよそ初めて聞く、琥珀の想いだった。


 あの日から何度だって会話は重ねてきたけれど、思い返せば彼はあまり〈自分〉のことを語ろうとはしなかった。今になって考えると、昔と違う自我を見せて友人や家族に戸惑いを与えないように、遠慮していたんじゃないだろうか。


 同時に思う。


 この春休みにドイツに帰ってきたのはもはや運命のようなもので、もしかしたら今この時のためだったんじゃないか、と。


 琥珀の本音と、相対するために。


 あるいは、親友の決めた旅路(これから)を見届けるために。


 それこそが、この三年間にやり残してきた唯一の忘れ物だと、風に揺れる桜の枝がささやいてくる気がした。


 ずっと見えないところに大事に仕舞われてきたであろう話は、淡々としたトーンで続く。


「けどそれって、つまり逃げてるってことじゃん。現実から目を逸らしている。かつての僕から、逃げてんだよ。だからいつかは向きあわなきゃいけないって、ずっと思ってた。昔の栄光に手が届かなくたって、誰にも終わりかたを決めさせたくなかった。可哀想なやつだって思われたくなかった」


「……」


「誰かさんも、こんなやつに一番近くで憧れてくれてたみたいだしな」


「ああ。……そうだな」


 思い出したように深く相槌を打った。


 琥珀の言うとおり、碧にとって彼はかつて憧れの存在だった。


 彼の存在が、その輝かしい生き様が、碧をここまで連れてきてくれたのだ。


 もし人生を長い長い旅と例えるとしたら、その旅の始まりはもちろん、自分がこの世に生まれた日で。けれど、目的を定めたときこそが本当の旅のスタートだと定義するならば、碧にとってそれは間違いなく列車のなかで琥珀と出逢ったあの七歳の冬の終わりの日で。


 傲りでも高ぶりでもなく、琥珀はそれを事実として、かつての己の栄誉として受け止めてくれていた。


 それが嬉しくて、やっぱりすこし寂しくて。


 今のを踏まえてようやく、確かめるように碧は口を開く。


「……文字どおりの、自分探しの旅を、ずっとしていたってことなんだな」


 琥珀は頷く代わりに、そっと目を閉じた。


「父さんには猛反対されたんだけど、なんとか説得して連れてってもらって。……ちょっとでもきっかけがほしかったんだ。前の自分を知れるなら、ほんとうに僅かな手がかりでもよかった」


「行きさきはたぶん、僕の想像であってるよな?」


「かもな。お前は察しがいいからな」


 まだ一つ残されていた謎。


 大仰なキャリーケースを持って、琥珀はいったいどこへ旅行していたのか。


 今の会話でもう、予想はほとんど確信に近づいていた。


 それは、彼にとって浅からぬ縁のある国。あの事故があった国だろう。


 東欧で買った、と思しきお土産のキーホルダーを見た瞬間から、何となく分かっていた。分かったうえで……琥珀が自分から話してくれるのを、待っていた。


 そしてそこまで気づけば、彼がどうしてそこまでして昔のように戻ろうとするのか、今話してくれたことの言外にまで想像が至るのは、時間の問題だった。


 ——きっと、僕のためだ。

 ——僕がかつて憧れていた男を取り戻そうと、琥珀はしているんだ。


 パン焼きのおじさんから琥珀のことを聞いたときも、彼の趣味や嗜好が昔のように戻っていたのも、きっと努力して〈そうなろう〉としてのことだったのだろう。


 だけどそれを彼は言わない。誰のためかなんて、かたくなに語ろうとしない。


 琥珀の話を聞いて、碧はまず言葉を探す。


 一番伝えたい気持ちをなるべく正確に表すものを語録帳から見つけようとして、しばし逡巡してから碧は琥珀の目を見た。


「……琥珀が、そう考えてることは、何となく分かっていた」


「やっぱ気づくよな。さすが碧だ」


「うん。……気づいてたうえで、僕から言うべきことを、ここに来るまでの間にずっと、ずっと探してた。だけど……」


 言葉に詰まり碧はうつむいてしまう。


 琥珀の考えを受け止めたうえで、碧が彼にどう在ってほしいのか。


 歩いている間、会話も上の空でずっと考え続けた。


 だけど結局、答えは出せなかった——出せるわけがないのだ。


 千萩がドイツを離れ、日本の高校に進学する決断をしたように。碧がくるみを最愛の人に選んで、凪咲の告白を断ったのと同じように。くるみが親の言う大学ではなく自分で決めたところを第一希望としたように。どちらかを選ぶということは、どちらかを選ばないということなのだから。


 かつて憧れだった——きっともう会えない友達。


 いま目の前にいる——碧を尊敬してくれている友達。


 どちらも等しく、代替できない、どうしても選ぶことのできない、碧のたったひとりの大親友だ。


 そんな碧の葛藤を汲み取ったのだろう。


 いきなり、琥珀がずんずんにじり寄ってきた。


 かと思えば、彼の両手がこちらの肩をがっしりと掴む。


 隣に居たくるみが、驚きに口許を手で抑える様子が、視界のはしに映った。


「いいか! 碧」


 真剣さそのもので殴りつけるように、自分とよく似た真っ黒な瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。


「何があっても止めるなよ。ぜったいに!」


「!」


 こちらを穿つような彼の目には、ぎらりと底から輝くような光が見て取れた。


 今日から自分がすべきことへの確信。


 碧は一度だけ、こんな瞳をする人間を見たことがある。


 かつての、あらゆる自信と野心に燃えていた、彼自身だった。


()は去年の文化祭の日に、お前に火を点けてもらったんだ。碧が、俺の言葉に縛られたからじゃなく、自分がしたいからずっとがんばってるってことを知れて。それが気を遣った嘘なんかじゃなく本音だって分かって。俺が、誰かの光で在り続けられたんだ——と思うと、嬉しくて……だから今、がんばろうって思えた」


 自分に言い聞かせるように、琥珀は続ける。


「でもな碧。がんばろうって決めたのは、俺だ。止めるのも続けるのも、それを決めるのは俺だけの権利なんだ」


 ぐっと、両手が肩に力をかけて、一度だけ揺すってくる。


「本当は気づいてるんだよ。いくら真似したとしても、全く同じようには戻れないってことを。だけどな、取り柄を手放した今の自分は何のために生きているんだろうって、価値なんかないんじゃないかって……何度も何度も、眠れなくなるくらい考えて辿り着いた、これはそういうものなんだ」


 まるで一世一代の訴えのように。


「これでやっと誰かと、対等になれる気がするんだよ。だから……何年かかっても! 何十年かかっても一生かかっても……俺は俺を諦めないからな」


 しん、と沈黙が響いた。


 いつもの愁いの表情なんかどこにもなく、ひたすら真摯な宣誓を言い放った琥珀に、碧もまた目を逸らさない。


 そのまま一秒、二秒——


 ……ずびっ。


「え? 何で泣いてんの?」


「話じででいろいろこみあげでぎだんだよ!」


 琥珀は洟をずびずびにすすって、涙目で訴えていた。


 気取っていたクールが限界を迎えたように、わあわあとわめき散らす。


「口に出した以上はもう後戻りできねーじゃんって思って! だってぜってぇ難しいじゃんピアノとか。なんなんだよ両手と両足つかうんだよ意味わかんねえよ! 音楽記号も意味はなんとなーく覚えてるけどそんなすぐ読めねえし!」


「それ今言う?」


「啖呵切った以上こっからさき言えねえから今のうちに弱音吐いといてんだよ!」


「なんだそれ……」


 間近でさわがれても喧しいので、とりあえず肩におかれた手を退かす。


 彼には悪いし口が裂けても言えないが、ドラマにあるようなきれいな涙じゃなく、なんだか湿っぽい情けない泣きかただ。


 それを見ていたら、なんだか安堵がどっと押し寄せて。


「——……あははっ」


「え? 何? なんで笑われた今?」


 思わず噴き出せば、琥珀が抗議したげな目で見てくる。


 なので、碧は笑いを抑えるのを早々に諦めて言い訳をすることに。


「やっぱ琥珀は琥珀だなって」


「どういうことだよ!?」


「そのまんまでいてくれて嬉しいなって思ったんだよ」


「お前、今の話聞いてた?」


「ちゃんと聞いたから一つ言わせてくれ」


 碧は笑みをようやく仕舞いこむ。


「あのさ。……わからなかったんだ。今の話を聞くまで……僕は、琥珀のしようとしていることを、友達として応援すべきか。あるいは止めるべきなのか」


「けどそれは——」


 琥珀の口が何かを言おうと、半分だけ開かれる。


 そこから言葉の続きが放たれるのを待たずして碧は続けた。


「いいことなのかそうじゃないのかすらも、判断がつかなかった。ここに来るまでの短い時間じゃ、考えても答えは出せなかった。たぶん、これからも同じだと思う。このさきどれだけ考えても……きっと決断はできないと」


 そこまで言うと、確かめるように、息継ぎを求めるように、隣の少女を見遣る。


 くるみもまた同じくこちらを瞬き交じりに見上げると……ふっと、どこまでも優しい笑みを滲ませた。


 見慣れたはずのヘーゼルの瞳。まるで、碧がどんな答えを出すとしてもそれを尊重してくれるような、そんな深い抱擁の光が織り交ぜられた目。


 一度離れていた手がさりげなく、再び絡められる。ぎゅ、ぎゅっと二回握られるのは「大丈夫だいじょうぶ」と、彼女の声で言い聞かせられているようで。


 ——そうだ。


 くるみがいたから、いつだって碧は困難を乗りこえてこれた。


 一人暮らしの寂しさも、留学に行き当たったときの決断も、彼女の両親の説得も。


 信じてくれる、見守ってくれる、ときに宥め、ときに肩を並べて一緒に問題へと立ち向かい、ときに支えて導いてくれる——そんな最愛の少女が隣にいるのだ。


 それらと比べれば大事な親友とこうしてお喋りに興じることなど、さほどのことでもないだろう。ならばもう、迷うことなんて何一つなかった。 


「琥珀」


 なにか振り切った様子の碧に、もう口を挟まず聞く気になったのか、琥珀はただじっとこちらを見返していた。


 話したいことはもう決まっている。


 とはいえしっかり組み立てて整理しきってはいないから、ちょっと拙いところはあるかもしれない。それでも届けたい言葉があった。


「……こないだ、僕の学校のクラスメイトが言ってたんだ」


 二月十四日にあったことを思い出しながら、碧は静かに語る。


「嫌なことがあったって、それで自分が後悔しないで済むのなら結果としてはよかったって思えるって。そう言ってた人がいた」


 その言葉は、凪咲の告白事件(こと)があったから出すことができた。


「だから……僕も、いずれ卒業する高校時代に忘れ物を残したくないって考えるようになった。思い残すことがないようにしようって考えた時に、一番に思い当たったのが、琥珀とこうして話す時間をつくることだった」


 今日ここにいられるきっかけに感謝をしながら、碧は続ける。


「昔のお前に帰ってきてほしくないって言ったら、嘘になるよ。だけど今のお前にも、いなくなってほしくはない。……わがままだよな。だけどこれが今の、僕の正直な気持ちなんだ」


 哀しいことでも、不幸なことでも、きっと全てに意義はある。


 残酷な運命の前に人間は脆い生き物だから、むりにでもそうわりきって生きていくしかないのだ。


 あの事件で二人の道が一度分かたれたからこそ、碧は日本に帰国してくるみと出逢えたし、琥珀も己を見つめるきっかけになったのかもしれない。そう考えるしかない。


 ——思えば僕にも、今日の自分になるのに欠かせない、ひとつの諍いがあったっけ。


 去年の、遠い夏の記憶を、あの日に見た赤焼けの入道雲と共に思い出す。


「誰かにどうあってほしいとかはさ、結局は身勝手な思想の押しつけでしかないって考える人もいる。それがいくらその人のためを想ってであろうと」


 その言葉は、夏貴とのすれ違い(こと)があったから出すことができた。


「僕は誰かに期待を貰っても、動じたりはしないだろうな。けどだからといって、さっきのような考えを持つ人がいる以上、誰かに期待を押しつけたりはしたくない。それが僕の言ったようなどっちつかずの優柔不断な気持ちなら、なおさらだろ」


「……」


 返事がないことは、肯定として捉える。


 今度は、先週あったことを思い出しながら碧は想いを言葉にしていった。


「もしこれが妹のことだったら、もちろん僕は家族としてそれに答える責任があるし、間違いがあれば兄として正さなきゃならない。世話を焼くのが兄の本領だからな。でも……琥珀は、僕にとって兄でも弟でもなくて友達だから」


 その言葉は、千萩の人生相談(こと)があったから出すことができた。


「そう思うとやっぱり、どうしてほしいなんては僕からは言えない。だから、代わりに僕からこれだけ言わせてほしい」


 碧は穏やかに、口許に弧を描いた。


 最後のその言葉はきっと、隣にくるみがいてくれているから話すことができる。



「僕はただ……琥珀が生きて帰ってきてくれたことが、嬉しい。それだけでよかったんだ」



 言いたかったのは、ただこれだけだった。


 いや、この言葉を手渡そうと音を紡ぎ、喉を震わせて初めて、これをずっと言いたかったのだと真に気づいたのだった。


 思い返せば、日本に戻ってきてからも、空に浮かぶ月を見るたびに琥珀の出来事を思い出していた。


 夜空からあまねくものを照らしてくれる月に誓うように。あの日のやるせなさを忘れないため、抱いた志を貫徹することだけを心に秘めて。ただ碧だけが、がむしゃらにもがこうとしていた。


 琥珀が今後どうなっていくかは、考えなかった。


 いや、考えないようにしていたのだ。


 大事な思い出と共にピアノの腕を失った彼の将来が、輝かしい功績を掴むことはもう出来ないんじゃないかなんて思いたくなくて、現実から目を逸らしていた。


 ——だけど、琥珀は大人になった。


 あらためて生涯を懸けてしたいことを考えて、決断して、表明してくれて。


 ——そして、碧も大人になった。


 現実を見詰め、ずっと言えなかった想いを口に出せるだけの心の余裕ができた。


 きっと二年間離れていたから気づく思いがある。気持ちの整理を行う時間があったからこそ、手渡せる言葉がある。


「……生きててくれてありがとう」


 思い残しがないようにだとか、琥珀と話したいだとか、初めに考えていたことはもはやどうでもよかった。


 親友として今日までずっと言ってやれなかったことを、記憶を失った彼に届けること。


 それが、碧が今ここにいるただ一つの意義だと信じていた。


 さあ……っと、春の匂いのする風が吹いて、あたりがさっきより明るくなる。雨が上がったのにずっと停滞していた雲が、ようやく動いたらしい。


 さっと陽が差して琥珀の頬を明るく染める。


 そこに、さきほどとは違う涙が光るのを見て、碧は穏やかに眉を下げた。


「好きに生きていいんだよな。琥珀が決めたことなら僕は、それが一番だと思うから」


「碧……」


 黙って聞いていた琥珀の目に、みるみる透明な珠が浮かんでいく。


 今度はちゃんとドラマみたいなきれいな泣き方だな、なんて笑おうとして、なぜだかうまく笑えなかった。


 なぜだろうと空いた右手を頬に持っていけば、ゆびさきが小さな雫を受け止める。


 ——やばい。なんだ、これ。


 自覚したとたん、視界がみるみる水彩画のように滲んでぼやけていく。


 さんざん好き勝手思っておいて、人のこと言ってられないじゃないか……と、泣きたい衝動を碧は怺え、荒れる感情の波が凪いでいくのを待ちながらなんとか笑みをつくった。


「だから……まあ、がんばれ。いつか最高のラヴェルを聞かせてくれればいいよ」


「またずいぶんと難易度の高いところを——」


 琥珀の涙交じりに浮かべた苦笑いが、やがておかしそうな本物の笑いへとかわっていく。


「彼女さん」


 ずっとそばに佇んでくれて、だけど首を突っこむことはしなかったくるみに、琥珀が声をかけた。


「何年かしたらまた碧と一緒にドイツに来なよ。演奏を聞かせられるくらいにはなるように、がんばって上達しておく」


 くるみは静かに、だけど確かに頷いた。


「……はい。その日を心待ちにしておきます」


 碧にとって哀しみを象徴していたラヴェルの曲。


 〈Le Tombeau de Couperin〉


 それがくるみの存在によって、哀しみがいつしか和らげられて、やがて輪を描くように琥珀の手へと戻っていく。今度は希望の象徴として……。


 一連が帰結するのを尊いような気持ちで見守りながら、碧はそう遠くないであろう。その賑やかでめでたい日を、心のなかで思い描いた。


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