第258話 やがて季節は巡っていく(1)
子供時代のことを思い出していた。
幼いがあまりに、まだ季節の感覚も曖昧で、時間という概念もよくわかっていなかったときのことだ。
だからそれが、一日なのか一週間なのかは分からない。けれど、母がしばらくのあいだ家を空けて、とうに待ちくたびれた頃に帰ってきたことはよく覚えている。
その日から、家がばたばたと忙しく賑やかになったのだ。
父が慣れない掃除をして、埃ひとつなく掃除されたリビングのすみっこに、買いだめした荷物の山が築かれた。両親は幸せそうなのに、何かに気を遣い、ひそひそ喋るようになった。それが、碧には不思議だった。
碧にはまだまだ手が届かないベビーベッドが真ん中におかれ、それを、父や母が代わるがわる覗きこんで、しきりににこにこしている。
父が抱き上げて覗かせてくれながら、妹が生まれたのだと教えてくれた。
母がいたずらっぽく呼んだ〈お兄ちゃん〉という響きが、すごく格好いいものに思えた碧は、妹——千萩の世話をせいいっぱい手伝った。
父が冷ましてくれたミルクをあげて、泣いたらベッドのそばにお気にいりのおもちゃを並べて気を引いた。初めて抱っこして、寝かしつけできた時はすごく嬉しかった。小さな手が指を握ってきた時の高揚は、言葉にできないほどだった。
暮れなずむ陽が、千萩の驚くほどに細い、ほやほやした髪をオレンジに染める。
そして、これまた信じられないくらいぷりぷりした丸いほっぺに、睫毛が影を落とす。
当時どんなことを考えていたかまでは覚えていないけど、感情ははっきりと覚えている。
これが〈幸福〉というものだと、幼いながらに知った日だったから。
やがて季節は巡っていく。
ながれる時間は、人を成長させていく。碧も、千萩も。
そして今は————
*
二十世紀、たった一夜にして築かれた巨大な壁。
碧の生まれる数十年前まで、この国の首都を一五四キロメートルに渡り東西に分断し、これまた一夜にして市民の手により崩れ去った、束縛と自由の象徴のひとつ。
それが〈ベルリンの壁〉だ。
だけど今はむしろ、世界中の芸術家がペンキでらくがきを壁いちめんに残しているものだから、目を潤わせる景勝地と認識している人も多いだろう。
碧たちが見上げているのも〈イーストサイドギャラリー〉と呼ばれるところで、野外美術館となってなお平和の有り難さを物語る、現代に残されたごく僅かな壁だった。
近くには、目印となる旗を掲げたガイドさんが、英語でこのあたりの歴史を解説しながら、外国人を連れて、蟻のように隊列を組んで歩いている。
昔とさほどかわらないと思って来たのに、前回来た時にはなかった大きなホテルが、向かいの道路に建築されている。
スーツを着た見知らぬ男の人が、キャリーケースを転がしながら出てきて、タクシーを捕まえて去っていく。それがなんだか寂しかった。
「やっと帰ってきたってかんじがするな」
それは、何度とも見慣れた壁のアートを見たままの、碧の思いの丈であった。
すなわち感想を述べた碧がふと隣を見れば、くるみもどこか遠くを見るようなぼんやりとした目で、壁を見つめている。
くるみとはつき合いは深いが、その時のまなざしは、感情の読めないものだった。
彼女の見ているのは、真っ白い鳩が牢獄に囚われた人の鎖を引っぱって、助け出そうとしている絵。
「くるみ?」
名前を呼べば、こちらを振り返って、それから儚げに笑った。
「碧くんのしてくれた話を思い出してた」
「……そっか」
文化祭の夜のことだろう。ここは、碧と琥珀がひとつの約束を交わしたところだった。
おくゆかしいヘーゼルの瞳が、気遣わしげにこちらを見上げる。
「碧くんは大丈夫?」
「ん? うん。平気だよ」
折りあいはついてるから、と碧は言った。
「僕がこれからどうするかは文化祭のときに、琥珀ともう話しあってる。だから大丈夫」
琥珀のこと、というずっと目を逸らし続けた現実の問題なら、もう乗り切ったつもりだ。
碧が、自分の意志で、自分の心の赴くまま行きたい方角へ突き進む。
誰かの思いを叶えるためになんかじゃなく、己の気持ちひとつで、ただ碧がそうしたいから、困っている人に手を差し伸べる。
それが、文化祭の時に琥珀と再会して導き出した、答えだった。
けれどくるみの笑みは曇ったままだ。
「えっと……ね。そうじゃなくてね——」
何かを言いかけたタイミングで。
「ちょっと碧見てみぃこれ。このおっさんのキスの絵ちーっともかわってない!」
その昔話で語られた当事者である琥珀が、いつの間にかさきに行っていたらしく、ぶんぶん手を振ってこちらを呼んだ。
「ほらこれこれ。うーんやっぱ懐かしいねえー。おっさん同士は正直どうかと思うけどな」
「だな」
話を深掘りすることなく、短く相槌を打つ。
彼の言う〈懐かしい〉がいったい、いつを振り返っての感想なのか、分からないからだ。
何かを言いかけていたくるみのほうをちらりと見るも、彼女は今続きを話すつもりはないらしく、淑やかな妖精の笑みに戻っていた。
「ところで……思い出ねえ」
琥珀がまた振り返って言う。
「どう? ふたりは今日のこと思い出になりそう?」
「思い出になるどころか、雨のなか幽霊が覚えのないことで僕を呪いに来たかと思ったくらいだからな。むこう十年は嫌でも忘れない」
長い髪のかかった目は、文句を言いたげだ。
「さっきのことじゃなくて、今ここにいることだよ。思い出を残すって話だろ」
「それなら、正直なところ会えた時点で目標は達成してる」
「え?」
と目を瞬かせて、それからしばらくしてから、ああと唸った。
「そういう。碧はほんとあいかわらずの……」
たらしだな、と苦笑する琥珀。
いっぽう碧は壁に目を逸らした。
——ほら。まただ。
〈俺〉が〈僕〉になったのみならず、ほたるを参考にした結果の〈あーくん〉とかいう、男を呼ぶには些かまぬけな呼び名までなくなっている。
ふたりの問題は……そう、乗り切ったはずだ。
なのに今日の琥珀はなんだか、らしくない。
それが、さっき彼が家に来てからずっとある心配事だった。
「あ。そうだ。ちょっと待って」
こちらの沈む想念など気づくはずもなく、琥珀が歩道のはしっこに寄る。
何をするのかと思えば、持ってきていたキャリーバッグを横たえて、かちゃりと開く。
彼の奇行に、碧は思わず尋ねた。
「何してんの?」
「いや……出したいものがあるんだけど、鞄の底のほうだったからさ」
「荷物の整理ならうちでしてくればよかったのに」
「しょうがないだろ。今思い出したんだから」
着替えにと詰めた服やらをがさごそしながら、なにやら探している模様。人の荷物を覗くのはよくないと思ったのか、くるみがしらっと目を逸らした。
「僕の服なら返すのは今度でいいからな。わざわざここで着替えなくても」
「そうじゃなくて、旅行でお土産を買ってきてたの忘れてたんだ。今渡していいよな?」
「お土産? そんなの、べつに気を遣わなくてもよかったのに」
「もう買ったんだから貰ってくれなきゃ困るわ。このあと二人はデートだろ? なら渡すの今しかないかなって。ちょっと待ってな」
琥珀が荷物を探しているのをやや遠巻きに見ていると、袖がくいっと引かれる。
「……あの」
見れば、くるみが言いづらそうに眉を下げていた。
どうしたんだ、と屈めば、碧にだけ聞こえるようにひそひそ話の要領で呟く。
「琥珀さんのことなんだけど……」
「ん?」
「なんだか前に会ったときと違う……ような気がして。何かあったの?」
やっぱり、人をよく見る観察力に優れた彼女もまた気づいていたようだ。
けれど今すぐ返せる正しい答えを、碧は持ってはいない。
「何があったかは分からない。でも前と違うっていうのは……うん、僕もそう思う」
「……碧くんは大丈夫?」
さっきと同じ問いかけだ。
だけど、その裏に秘められた意図は、碧がさきほど解釈したものとは違うものだった。
くるみは哀しげに目を細めると、別の言い回しで、もう一度訊ねる。
「碧くんは『琥珀さんにどっちでいてほしいのか』の答えは、出せるの?」
「!」
私はわからないけれど、と言いつつ、その目は真剣さを帯びてこちらに刺さる。
「琥珀さん……昔みたいに、戻ってるんでしょう? それが『そうなろう』と思ってのことなのかどうかも、いいことなのかどうかさえもやっぱり私にはわからなくて。……でも、碧くんは琥珀さんの親友だから。大事な友達のひとりとして、そのことを肯定するのか、そうじゃないのかは……決めたほうがいいと思う」
思わず言葉に詰まってしまった。
——そうだ。なぜ気づかなかったのだろう?
昔の彼は碧の憧れで、追うべき目標で、眩しくて巨大な存在で、大事な親友だった。
今の彼はあらゆることを忘れて、その結果こんな自分に憧れの感情を注いでくれるやつになって、おっちょこちょいで他人想いで、やっぱり大事な親友だ。
けれど二人の琥珀は、同時に存在することはできない。
持っている記憶が違っても、彼はひとりの人間なのだから。
勿論くるみが言わんとすることも分かる。どうこうすることは出来ないかもしれないけれど、碧なりに考えて動いたほうがいいんじゃないか、ということだろう。
とはいえ、碧には答えが出せそうになかった。
考えれば考えるほど、ぐるぐるといろんな感情が綯い交ぜになって、取り留めもつかなかった。
「あったあった。ほい」
しゃがんだまま、琥珀がぐっと腕を伸ばしてきた。
「なにそんなとこで突っ立ってんの。こっち来なよ」
はよ貰え、と何かを握った手を揺するので、言われるがまま受け取れば、それは妙ちきりんなキーホルダーだった。
こうもりの翼に、黄金に怪しく光る目。日本のとはまた違った、外国らしい吸血鬼。
吸血鬼と言えば東欧に伝わる伝承が有名だ。掌のそれを見てぽかんとしていると、琥珀がキャリーを仕舞いながら、くるみに申し訳なさそうに言う。
「ごめんね。彼女さんのは来ると思ってなくて買ってなかったんだよね。代わりに乗り継ぎのとき空港で買ったトルコ土産の|NazarBoncugu《青い目玉》でもいい?」
「い。いえ……私はその。大丈夫です」
謙遜じゃないことは確かだ。
その手のものが苦手なくるみは、困り笑いとしか言えない表情でごまかしている。
ぼんやりとキーホルダーを瞳に映していると、琥珀が嫌味なくけらけらと笑った。
「気にいったなら何よりだ。鞄につけてもいいからな」
「え。やだよ」
「そんな遠慮せんでも」
「琥珀はお母さんが買ってきた服を未だに着るのか?」
「あははは……なんだよその例え。子供かよ」
「笑うな。子供だよ」
何も考えずに咄嗟に返して、それから心が妙にざわついた。
なぜかはすぐに分かった。あの時も、今のと同じ言葉を琥珀に返したからだ。
——詳しく知らないのに将来の夢にするの?
——うるさいなー。僕に言うからには碧も何か目指すんだろ。
——じゃあ僕は正義の味方がいい。
——あはははっ。なんだそれ子供かよ。
——笑うな。子供だよ。
感情が洩れ出ないようにときゅっと口を結んだ碧は、ずいぶん狭くなった空を見上げて、遠い感慨に想いを寄せる。
目を閉じれば、ありありと回想ができた。
すぐそこで、小さな琥珀が手に木の棒を持って振り回している気がするし、その後ろを舎弟のように着いていっているような気もする。
昔の琥珀はいつも、碧の一歩前を行っていた。兄貴ぶんの風格があったのだ。
何もかもを、細かく覚えていた。
あのとき琥珀が着ていたシャツの柄とか、靴はサンダルだったなとか、ぽかぽかした日差しと対比になる、空気の冷たさとか。そういうところまで全て。
だけどその情景は目を開けば、曇った硝子窓に指でなぞったらくがきのように、いずれは淡く霞んで見えなくなってしまう。
ここだけは、あの日のまま時間が止まっていると、根拠もなく思っていたのに。
世界はどこもおきざりになんかしてくれず、皆を平等に連れて今日も廻っていく。
もちろん琥珀にも、もれなく同じだけの時間が降り積もっている。
この間に会った時と喋りかたが違う。
呼び名が違う。
笑いかたが違う。
今日の彼が、半年前に会ったときの彼とは違うことの徴証が、これだけ揃っている。
ながれる時間は、人を成長させていく。碧も、千萩も……そして琥珀も。
碧は、結局決めることはできなかった。
自分に出来ることは、今も昔も関係なく——琥珀の門出を祝福し、見守ることだけなのだから。




