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第257話 The calm before the storm(2)


 その男の助けが家のなかまで届いたのだろう。


 くるみが音を立てないようにやってくる気配がした。


 後ろを見ればやはり、ぴりぴりと耳を立てた猫のように警戒をあらわにしつつも、玄関に立ち尽くす碧のすぐ後ろにくるみがいる。


 咄嗟に腕で彼女を庇うのだが、その目はすでに倒れた男を見つけてしまったようで、はっと小さく息を呑んでいた。


 ここで待っているようにと、腕でくるみを抑え止めながら、碧はすっ転んだままの男に呼びかける。


「大丈夫ですか?」


 すぐに返事はない。ううと呻いているだけだ。


「とにかく動かないでください。どっか打ってたらまずいので」


 彼はおそらく、この建物の住人ではない。


 ここらじゃ日本人はなかなか見かけないし、さいきん引っ越してきたにしても、もしお隣さんにでもなれば父や妹が近況報告で嬉々として連絡してくれるだろう。


 と、突っかけたクロックスのまま玄関から急ぎ出て、足が止まる。


 ——いや待て。あの黒髪は……。


「もしかして琥珀か?」


 確かめるように尋ねると、あいてててと身を捩りつつ、男は前髪をかきあげる。記憶に染みついた、あの愁いのある瞳があらわになり、碧ははっとしつつも——やはりと思った。


 しかしその目許は、すっ転んだときの衝撃のせいか、あるいは雨に当たって体が冷えたせいか、すっかり血の気が引いて青褪めていた。


「今気づいたかんじっすか」


 連絡がずっとつかなかった彼が、なぜ今日ここにいるのかは問いただしたいが、それは後回しだ。


「そんなことより怪我は? どっか打ったりしてないか?」


 碧が階段の下まで飛ぶように、それでもすべって彼の二の舞にならないよう気をつけながら降りて、琥珀に肩を貸してやる。


「碧くんこれタオル——」


 それからすぐ、くるみの切羽詰まった声が、足音と共に聞こえた。


 状況を判断して厚手のタオルを持ってきてくれたらしいくるみの視線が、琥珀の頬——もっと言えば、そこに滲んだ血に寄せられる。


「あ……擦り傷が……。私、包帯とか探してくる。碧くんは琥珀さんをお家に」


「わかった。リビングの棚の下から二番目にあるはずだから」


「了解です」


 短い受け答えののち、くるみが切迫した様子で戻っていくのを見送り、琥珀の腕をこちらの肩にかけてやりながら体を支えてやる。


「ほら。立てるか?」


「悪い……()


「そういうときはありがとうだし、なんなら話は後でいいから。いくらでも聞いてやる」


「……ああ」


 なんだか調子が狂うが、琥珀は納得したように口を噤むと、よろめきながらも立ってくれた。


                *


 事情聴取によると、階段のおどりばから上がって三段目あたりから落ちたらしい。


 雨のせいで足をすべらせ、そのままキャリーケースと一緒に……とのことだ。


 幸いにも骨折はなく、頬とひざの擦り傷だけで済んだということで、救急車は呼ばずうちに上げてしばらく様子を見ることにした。


 慣れない手つきで琥珀の手当てをしてやり、トレーナーを貸して着替えさせる。


 その間くるみは雨に降られた彼のために、体が温まるようにと、はちみつ生姜のハーブティーを淹れてくれていたらしい。この二週間ですっかり慣れたキッチンから、いつも日本の我が家でそうしているようにトレイを運んできた。


 ちなみに碧には気持ちが落ち着くように、日本から持参してきた煎茶——と、それぞれにぴったりのものを出してくれている。


 着替えた琥珀が、気まずそうな沈黙をたもったままリビングに戻ってくると、くるみはブランケットをそっと差し出して、碧の隣の席に座った。


 マグカップからふわふわ立ち昇る湯気のむこうで、肩にブランケットを羽織って、下手くそな包帯に巻かれた琥珀は、さっきよりはだいぶ落ち着いて見えた。


「出会いがしらから迷惑かけちゃったな」


「気にするなって」


 琥珀の目がくるみへ注がれる。


「彼女さん……ええと、くるみさんだっけ。まさか碧の実家に来ているとは思わなくて。折角の里帰りのとこ、おじゃましちゃって悪いね」


「いえ。お二人とも積もる話もあるでしょうし、私のことは空気だと思ってくださって構いませんから」


 くるみが物静かに返し、会釈をした琥珀が、今度は碧に話を振る。


「いつこっちに来た?」


「二週間前かな」


「いつ帰る?」


「明日の午後の便の予定だったから、すべりこみだな」


「そか。間にあってよかった。学校あるからここにいれるのは春休みの間だけってことだろ? 寄り道しないでここにきたのは、我ながら英断だったかもな」


 彼は冗談めかして自賛したが、あながち間違いでもない。


 琥珀が来てくれなかったら、こっちだってきっと、ひとつ忘れ物をしたようにもやもやしたまま日本に帰ることになっていた。


 そして、来てくれたからには話したいことは山積みだ。


 仕切り直しのつもりで、碧は煎茶のカップをすすり、ふうと息を吐く。


「琥珀にはいろいろ聞きたいことあるんだけど、話せそうか?」


「ああ」


 様子をうかがいつつ切り出すと、琥珀はこちらがなにを知りたいかを訊かずとも分かっているように、ポケットから何かを取り出した。


「まずはこれだよな。ほら」


 見せられたのは、彼のスマホだ。


 と言っても、何か見せたいものを映しているわけではない。画面はとくになんの光も灯していない。


 でも碧もくるみも、琥珀が何を見せたいのか、一目ですぐに分かった。


「ひびだらけですね」


 くるみが、彼のスマホがどうなっているかを、短い一言で述べた。


 そう、よくハリウッド映画で見る、弾丸を撃ちこまれた車のフロントグラスのように、ばきばきにひびが走っていたのだ。


「さっき転んだときに?」


「や。つい何日か前にやらかした。荷物見て分かるとおり、ちょっと遠出してて」


「ずいぶんとまぁ派手に……」


「その日のことほんと聞いてほしいんだけどさ」


 当時のことを思い出したのか、琥珀はわなわなと慄いた。


「ホテルでWi-Fiがなかなかつながらなくてね。なんとか拾おうと、スマホを持ちながらあっちこっちに立って、そんでベッドのうえで掲げたら碧からのLINEが来てさ。あ、やっとつながったー……って思ったら、今度はスマホを手からすべらせてさ、慌ててキャッチしようとしたら失敗して、バレーボールみたくなっちゃって。窓からぽーんって飛んでくじゃん。急いでホテルを飛び出て回収しにいくじゃん。したらまあ……結果はご覧のとおりですよ」


 想像するな、と言うのがむりなほどに、奇想天外な話だ。


 そして、思い浮かべたそれがあんまりあほらしい光景だったものだから、碧はぽけーっと上の空のまま頷いた。


「……うん。なんかいろいろ言いたいことはあるけど」


「なぐさめてほしい本気で」


「どおりで連絡がつかなかったわけか」


 もはやこれは笑い話であるが——笑い話で済むのは、琥珀に何事もなかったからだ。


 既読もつかないのは本人の身になにかあったのでは? と危惧していたので、犠牲になったのがスマホだけなのはよかった……よくはないけど、彼に何事もなかったのは本当によかったと、心の底からはーっと長いため息を吐く。


「スマホが壊れたから、わざわざ今日うちに会いにきてくれたんだな」


「そのとおり。碧がこっちきてることはルカから聞いてはいたけど、いつ帰るかまでは知らなかったから」


「じゃあ、公衆電話からうちにかけてきたのも?」


()から連絡きてたことは知ってたから、なんとか返事しなきゃって思うじゃん」


 琥珀が、椅子の背もたれに寄りかかる。


「けどスマホの連絡帳も、もちろんLINEも見れないし。唯一昔の、碧の家の電話番号だけメモが残ってたからなんとかかけたけど、出てくれなかったね」


「あー。あのときは家族で出かけてたからな」


 琥珀の言う話を整理すると、彼はこちらからメッセージで連絡を送ったときはWi-Fiがつながらないせいで既読をつけることができないまま、スマホを壊した。のちのちこちらが追って電話をしたものの、もちろんつながるはずもなく。


 琥珀も、返信はしておこうと公衆電話からかけたけれど、今度はこちらが出られず。


 だから今日こうして会いにきた、ということだろう。


 なにはともあれ——


「これでいちおう謎は晴れたってことで」


 心配が杞憂で終わったことを喜べばいいのか、こいつのおっちょこちょい具合に呆れればいいのかは分からないが、正解はほっと胸を撫で下ろすことなのだろう。


 なんだか急に喉が渇いた気がして、すっかりぬるくなった煎茶を一気に呷ると、琥珀はまだそわそわした様子で尋ねてきた。


「碧は?」


「ん?」


「僕になんか用事あったから連絡よこしてきたんだろ」


「あー。…………」


「なんだよ」


「いや。会って言うのは、メッセージで言うよりもなんか恥ずいなって……」


 さっきの事件でばたばたしてすっかり忘れていたが、琥珀に連絡をしたのは、もともと碧のほうから琥珀に会いに行きたかったからだ。


 だけど、それをばか正直に話すのは、なんだか気後れする。


「勿体ぶらずに言えって」


 焦れったい黒い瞳が物知りたげにじっと見詰めてくるものだから、碧はつい目を逸らしながら、遠回しな説明をする。


「別に大したことじゃないんだけどさ、ただ……僕が日本に帰国したこともあって、今の琥珀とそんなに関わること、できてなかったなって思って」


「ほうほう?」


「……」


「え? 終わり?」


 あとは察しろとばかりに黙っていると、隣のくるみが可笑しそうにくすりと笑ってから、続きを代弁した。


「碧くんは琥珀さんと、お友達として思い出をつくりたいんですって」


「えー。そうなの?」


 にやつくわけでもなく、揶揄うでもなく、ただ驚いたように目を丸くする琥珀。


 そのリアクションが余計にむず痒くて、碧は照れ隠しに、わざと投げやり気味に答えた。


「もう明日は帰るから、次にこっち来たときにな。いつになるかは知らないけど」


「あれ。今日はもう時間ないの?」


 琥珀のリアクションに、碧はぱちくり瞬きをした。


「なんなら今からでもいいと思ったんだけど」


「今から?」


 今度は碧が驚く番だった。


 立ち上がって窓辺に近寄った琥珀は、シェードの隙間から外を眺める。


 いつの間にか雨雲が切れたようで、まだ光と影の境界はぼんやりと曖昧だが、ハニカムタイルの床に落ちる日差しはさっきよりも明るく、透明だった。


「ほら、ちょうど雨も上がったみたいだし。彼女さんも一緒にさ」


「私もよろしいんですか?」


 どことなく浮き足立ったような琥珀に、碧は間隙を縫って問いかけた。


「ていうかそれよりも、けがは平気なのか?」


「ぜんぜん大丈夫。碧が明日帰るんならそんなんどうでもいい。二人とも、このあと予定は?」


「予定……」


 碧は、ふむと考えこんだ。


 せっかく琥珀が来てくれたところ申し訳ないのだが、もともと今日は約束があるのだ。


 くるみがこの日を待ち望んでいたことも知っているから、ここで碧の判断で勝手に頷くわけにもいかない。雨が止んだなら、なおさら。


 自分から連絡したのが今日琥珀が来るきっかけになったので、若干言いづらいながらも、そのことを答える。


「実はくるみと帰国前に、ちょっとした散歩に出る予定だったんだ。ちょうど桜の時季だし、旅の最後の記念にお花見っていうか」


「そういうかんじか。ならさすがに、そこから時間奪っちゃうわけにはいかないよな。連絡とれなかったのはこっちのせいなわけだし……」


 琥珀があっさり引き下がろうとしたところで、提案をしたのはくるみだった。


「あの、私は碧くんとちょっとでも桜が見られれば、それで大丈夫です。——そうだ、せっかくなら三人でそこに到着するまでの散歩をご一緒しませんか?」


「え。いいの? それ。折角のデートなのに」


 琥珀がさすがに申し訳なさそうに目を伏せるのだが、くるみはとくに気にした様子はなさそうで、穏やかな笑みをたたえたまま言う。


「後からふたりの時間があるんですもの。私は問題はないです。碧くんはいかがで?」


「くるみがいいんなら、僕もそれで構わないよ」


「決まりですね」


 くるみは上品な仕草で、両掌をぽんとあわせた。


 要するに——今からの予定の采配を、くるみが主導権握ってぶいぶい振ったのは、ベルリンに来た時しか会えない琥珀との時間を優先しろ、ということだろう。


 そんな気遣いが有難いいっぽう、彼女にがまんをさせてしまっているのではと、心配ではある。


 だけどこうなった以上、今自分がすべきは心配なんかじゃなく、折角捻り出せたこの時間に、自分のすべきことを全うすることなはずだ。


 あのとき、自分が未熟だったせいで見つめることのできなかった現実が、今まさに目の前にあるのだから。


 もう二度も、現実から目を逸らすようなことはしないと決めてある。


 ——くるみにはあとでお礼に、お花見のお団子かなんか奢ってあげるか。


 果たしてこの街に売ってるかは分からないけど。


「なんていうか碧、お前いい彼女さん持ったな」


 そうささやく琥珀がどこか寂しそうに見えるのは、彼に浮いた話がないからだろうか。


 うちの学校の文化際では、客ながら女子の群れができるほどの人気を博すだけの美青年っぷりを発揮したが、今のところ交際自体にはそれほど関心はないらしい。


 そのへんは、同じ二枚目でも、ルカとは大きく違うところだろう。


「ほんとは世界中に見せびらかしたいくらいだってのはここだけの秘密な」


 同じくささやき返すと、琥珀はかはっと笑った。


「首ったけだね。じゃあお言葉に甘えて、ちょっとだけ時間貰うわ。桜を見に行くってことは、ベルリンの壁のほうか」


「うん」


 玄関を出れば、やはり雨は止んでいたようで、空気はどこか露と木の葉の薫りを孕んでいた。だけど空は柔らかな青で、清々しく澄み渡っている。


 雨上がりにもいろんな空があるが、そのなかでも一番好きな、春の空だった。


 階段をさきに降りていく琥珀を、鍵をかけながらぼんやりと眺めていると、くるみが寄りそうように手を差し伸べてくれた。


「碧くん」


「うん。行こう」


 その手を優しく握りながら、碧は思った。


 紆余曲折あったが、最後には有言実行。琥珀が来てくれたことで、思い残すことはなく高校の最後の一年に踏みきることができそうだ、と。


 すべては、順調に進んでいる——そのはずだ。


 だけど、何もかもが大団円というわけではない。


 まだ彼に聞きたいことはいくつか残っている。


 たとえば、琥珀はキャリーケースを持って、いったいどこに行ったのか?


 あの日以来、琥珀はずっと自分のことを『俺』と呼んでいたのに、なぜ今になって『僕』に戻っているんだろう?


お待たせしました;;

前回更新から間空いてしまいすみません

また更新のんびり再開しようと思います

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