第256話 The calm before the storm(1)
あれから家族四人は、夕刻まで余すことなく動物を見て周り、最後にお土産を買った。
碧はそこまで買い物が好きなわけじゃないので、ぐるりと見た後は一歩引いたところで待っていたのだが、千萩とくるみはるんるんであちこち見て回っており、買い物が終わる頃にはショップバッグをたくさん抱えていた。
女子という生き物は、どうしてこう買い物が好きなのだろう。
必要なものはさっくりAmazonで、五分で済ませがちな碧からしたら、長時間かけて歓談を交えながら選ぶ時間そのものを目的とするような二人は、どうしても不思議に思ってしまっていた。
「そんなにたくさん何買ったの?」
バスを降り、あとは家まで歩くだけといったところで、碧はくるみに尋ねた。
千萩は疲れたのか子供のように、父におぶられながら寝こけている。なので荷物は、歩くハンガーポールとなった碧があらかた肩から下げていた。
くるみは待ってましたと言わんばかりに答える。
「えっとね、着ぐるみパジャマ」
「へー。誰の?」
「決まってるじゃない。私と碧くんの」
「そっか。……え? 僕のもあんの?」
「碧くんに着せたらすごーくぴったりだって、千萩ちゃんが選んでくれたからつい買っちゃったの。黒豹の着ぐるみ」
えー……と碧は文句を垂れた。
十七歳にもなる男が、そんな可愛い系の服を着させられるなどたまったもんじゃない。
「大阪のおばちゃんみたくならない?」
「ならないならない。そんなに派手なのじゃないから」
くるみは柔和に口をたわませ、悪戯っぽく子猫のように瞳を細めた。
碧は知っている。そういう目をするときは、決まって何か、こちらの弱点を突く手札を切ろうとしている時だ。
「……代わりにって言ったらなんだけど、私もウサギのパジャマ買ったから。碧くんが着るなら私も一緒に着てあげる。碧くん今日ちょっぴり寂しそうだったし、日本に帰ってからまた今度のお泊まりの時に。約束」
さすがに気づいていたらしい。
せっかく遠い日本からはるばるやってきたお客様であるくるみに、妹や父が構うのは当たり前のことだから、くるみと二人きりでいれる時間が短くなったことを寂しがるのは、自分の勝手なわがままだ。
むろん、後から埋めあわせをしてもらおうなんてことは、これっぽっちも考えてはいなかったが……今はくるみの優しさに甘えて、棚からぼたもちが落ちてきたつもりで、日本に帰国したら沢山構ってもらおうと、約束のために小指を交わしあった。
そうして家に帰れば、リビングの電話が、赤いランプを点灯させていた。
家族で出掛けている間に、不在着信がいくつか溜まっていたのだ。
誰だろうと見れば、表示名は〈公衆電話〉になっている。初めて見る表示だ。
「父さん」
碧は、千萩をベッドに運んだ帰りがけの父を呼び止めた。
「なんか電話来てるんだけど。分かる?」
「えーどれどれ。……公衆電話か」
「誰がかけたかはわかんないんだよね?」
父は珍しく怪訝な目をした。
「そうだね。掛け直すこともできないから、とりあえず様子見するしかないかな。ただ、今時ちょっと怪しいから、次また掛かってきても出ないほうがいいね」
「だよな……」
と、答えつつも、もしかしたら友人がスマホを失くして、それでなんとかこれを頼りに連絡をしようとしているのではないかとも考えた。
とは言え、公衆電話が相手じゃ掛け直すことも出来ず、さらに琥珀にスマホに何度掛けても出てくれないのは今日一日で分かっている。つまり今の碧には何もできない、真実を知る術もない。いくら考えたって、来年のことを言えば鬼も笑うと言うものだ。
なので今はとりあえず、さきの心配は止めて、まずはスウェットに着替えるべくクローゼットへと向かった。
——その虫の知らせが、どんぴしゃで当たっていたと碧が知ったのは、ドイツを発つ日の前日のことだった。
*
およそ二週間の滞在もあっという間なもので、気づけば最終日の前日。
父や妹に歓迎会をしてもらったり、ベルリン動物園に行ったり、古い街を散歩したり、くるみにアルバムを見せたり、日を改めて博物館を巡るデートをしたり——日本じゃできない思い出を、たくさん築き上げることができたと思う。
ただ、やり残したことがない訳じゃない。
ひとつあるのが、くるみを連れてベルリンの壁の跡地にある桜を見にいくこと。
実は今日の午後に達成予定なので、厳密に言えばやり残しではない。四月に開花を告げる桜前線が——といってもドイツにそのような概念はないが——北のほうにあるこの都市にやってくるまで、待っていたのだ。
幸いにも、例年より気候があたたかいおかげで見頃が早いらしく、満開ではないにしろ美しい風景を臨めそうだ。
おやつや温かいお茶を持参してのお花見ということで、最終日にそなえてキャリーケースに荷詰めをしつつ、碧もくるみも今日をたのしみにしていた。
しかしながら——天気はあいにくの模様だった。
カーテンを捲れば、曇天の空からは、雫が降り続けている。静かな日本ほどじめじめしてないのが幸いだが、かと言ってわざわざ雨具を差して出かけるには億劫な雨だ。
「いちおう昼すぎには止むらしいけど……」
碧とくるみは、ペンを動かしながら、ゆっくり羽つきするように会話していた。
「散っちゃわないといいわね……桜」
「風が吹かなければ大丈夫だよ」
「綺麗なまま残ってくれると信じて、お勉強して止むの待ちましょっか」
春休みの宿題は毎晩二人でこつこつ進めたおかげでとっくに終わっているものの——だからって勉強から解放される訳じゃないのが、受験を控えた高校三年生というもので。
というわけで、午後に外に出るのだから勉強は午前のうちにしておこうと、ふたりは折りたたみのテーブルで問題集を広げていた。
「んー……」
難しい問題を相手に、シャーペンをくるくると指の上で回しながら、碧がぼやいた。
くるみが、それを拾うかたちで尋ねる。
「勉強、嫌い?」
「嫌ではないけどさ。この参考書をあと一年でマスターしなきゃならないって思うと、気が遠くて」
碧の狙うのは、教院大学の〈国際文化学部〉だ。
外国語——スペイン語やドイツ語などいくつかあるうちから好きなのを選べる——と、国語は全員が受ける必要があり、あとは数学と地歴から得意なほうを取る。
くるみが目指すのは〈経済学部〉で、碧と違うところは、外国語がない代わりに英語と、あとは数学が選択の余地なく決まってあることくらい。
そんなわけで、今日のテーマはお互いの受験にもかかわる数学。
ちなみに千萩は、拗れかけていたクラスメイトの女の子と仲直りすることができたようで、ふたりで市立図書館に行っていた。父は仕事なので、ひさびさのふたりきり
くるみはすらすらとペンを動かしながら、涼やかに答える。
「学習は日頃からの積み重ね。碧くんは私と同じ学年がいいんでしょ? ならがんばらなきゃ」
ふむ、と碧はおとがいに指を当てる。
「逆にくるみが先輩ってのもありだなぁ」
「こら」
冗談なのに怒られた。
眉をしかめ、ぺちぺちとなでるようなお手柔らかさで太ももを叩いてくるので、今度は正直に気持ちを言う。
「同じ学年がいいです」
「よろしいです」
鼻を可愛らしく鳴らし、碧の解き終わったばかりのページを受け取り、採点にかかる。
ペンで紙が引っかかれながら、しゃっしゃっと丸をつけられていく。一年時の復習とはいえ、そこそこ難易度の高い発展問題だが、この音からするとそれなりに解けていそうだ。
くるみにとっては勉強が趣味のようなものらしい。持ちあわせた好奇心や探究心も大きく、いろんな分野の本——それこそ大学教授をしているお母さんの書斎から借りたようなものを読んでいるところを家ではよく見る。
というわけで、そもそも彼女はすでに高校で修める内容は全て自力で予習済みなのだが、教えることで復習になるからと言って、よく碧の勉強の面倒を見てくれる。
その習慣は別に今に始まった事ではないが、くるみが教えるとそこらの大学生の家庭教師なんかよりよほど分かりやすいので、碧もここ一年で成績がぐっと上がった。本当にくるみ様々だ。
採点の間、今だけはちょっと休憩、と銘打った碧は、隣の彼女をそっと盗み見る。
いつもよりも真剣な目許、伏せられた睫毛のつややかさ、ペンを握る手の嫋やかさ。
涼やかで気品ある佇まいを眺めるだけで眼福で、もっと勉強がんばろうと思わせられるのだから、好きな気持ちというのはすごいもの。
「でも何だかんだやればできるのは、碧くんのいいところね」
「そりゃ昔みたいな自分には、戻りたくないから……」
「確かに、現国と古典と日本史はけっこう杜撰だったものね」
「耳にくる話だなあ」
はぁ、と椅子の背もたれに寄りかかると、くるみがくすくすと笑う。
「大丈夫、昔の話だから。今は違うのでしょう?」
「うん。前の僕が今の僕を見たら、たぶんひっくり返るんじゃないかな」
日本でろくな友人関係を築こうとしていなかった自分に、こんなとびきり最高な彼女が出来て、さらに都内の大学に進学しようとしているなどと言っても、おそらく……いやぜったいに信じないだろう。
「その証拠に、碧くんこの一年で本当に点数伸びてる」
丸つけを終えたくるみが、ペンをことりとケースに戻す。
「何点だった?」
「九十点。がんばったね」
確かに誇ってもいい点数だ。
くるみに倣って日々の隙間に、公式を眺め続けたかいがあった。
「だけど私なら百点取ってた」
と思いきや、厳しめの鞭が飛んできた。
「ここ、解きかたはあっているのに、計算があってないわ。ぜったい見直しするから、私なら落としてなかった」
「あ……」
細い指が示しているところを覗きこむ。
スピードを重視して、細かい計算式の記述を飛ばしたところだ。
くるみは涼しい表情で、正論を突きつける。
「急がば回れって言うでしょう? 面倒でも問題を解くときの思考の形跡を残しておくと、後から見返した時に間違いに気づきやすいもの。早めに気づけてよかった、これが本番じゃなくてよかったって思うべき」
「ごもっともです」
「私が教えるからには、びしばし厳しく扱くんだから。もし結果が駄目で、また来年に再受験することになったって、私は一年しか待ってあげないんだからね?」
「一年は待ってくれるんだ……」
厳しそうな口調のわりに、言っていることは相当に甘いことに、くるみは気づいているのだろうか?
思わずじーっとくるみを見詰めていると、視線に気づいたくるみはきょとんとし、それから何を取り違えたのか、ふんわり砂糖菓子のように笑うと、手を伸ばして髪をもふもふしてきた。
「でも私、碧くんはよくがんばってると思うわ。偉い偉い」
鞭の後は、しっかり飴をくれるらしい。
ふあふあと空気を挟むようになでるくるみの手つきは、子供をあやすようで、優しくて繊細で、眠気を誘うものだ。
愛おしむような優しい瞳が目の前でこちらを見守っているのだから、なおさら気持ちがよくなってくる。
——さきに言い訳をしておこう。
実家というのもあり、いつも自宅のマンションでしていたような恋人らしいスキンシップは、この二週間なかなか出来ていなかった。せいぜい夜寝る前、くるみの寝床に会いに行って、人目を盗んでキスをしていた抱擁を交わしたりしてたくらいだ。当たり前だが、いつドアががちゃりと開くかも分からないので、ほんの一瞬のふれあいに留まる。
ゆえに、碧もそろそろ発散しておかないと、帰国までに限界を迎えそうだった。
「もっとご褒美ほしい」
「ごほーび?」
こてんと首を傾げるくるみ。
碧は返事はせず、ごろんと寝転ぶと、彼女の柔らかな太ももにぽすっと首を預けた。
いわゆるひざ枕だ。
「ひゃっ。あ、碧く」
上擦った声が降ってくる
仰向けになったまま、ぼんやり目を開いた碧。赤い波を頬に滲ませた可憐な相好が、ふくよかな丘のむこうで、ぱちぱち瞬きしながらこちらを覗きこんでいた。
ドキドキしつつも、なんだか可笑しくなって、小さく笑う。
「前はくるみからしてくれたのに、僕からするとびっくりするんだ?」
赤みを帯びた白い頬が、むっとふくらんだ。
「だ、だって……突然されたら驚きくらいします」
「じゃあ今度から事前告知する」
「そういう問題じゃない気がするけど……まったくもう」
口では抗議しつつ、碧の黒髪を梳る白いゆびさきはそのままだ。
普段より丈が短めのワンピースと、やや肌が透けて見えるタイツとの間にもたれているが、やはり柔らかい。春の空に浮かぶ羊雲と、ふにふにのマシュマロのあいのこのようなふれ心地は、自分には持ち得ないもの。
これぞ女の子、といった甘く清楚な香りも、とろけて染みこむような温もりも、いっぱいの幸福をもたらしてくれた。
——好きだなあ。
しみじみ思う。くるみと一緒なら、受験だって受難だってどんな困難だって、乗り越えられるという自信がある、と。
彼女を、幸せにしたい。守ってあげたい。
そんな気持ちは永遠に燃え続ける聖火のトーチのように、いつだって心にあった。
だけどそれは曖昧で、まるで子ども同士が交わした十年後の約束のように覚束なくて。
それが最近になって、真剣に将来を考えるようになってようやく現実味を帯びたというか、ちゃんと現在から地続きの出来事として、輪郭を獲得しはじめた気がする。
しかし、そのためにはくるみに何をしてやれればいいのだろう——という問いに、答えはまだ見つかっていない。
遠くへ行く自分が、日本にいる間に、くるみにしてあげられるもの。
それは言葉でも、思い出だけでも足りない気がして……。
「今日の碧くん、ずいぶんなあまえんぼさん?」
深く想念に沈みこんだせいか、ひざ枕のまま静かに呼吸をしていた碧に、くるみが優しく言った。
「……なんか落ち着く。あと、ちょっと眠い。このまま昼寝していい?」
「しょうがないひと。あと二時間くらいだけなら、許してあげる」
離れ難い温もりと柔らかさから、名残惜しくもなんとか、がばっとおきあがる。
「そんなにしてくれるんだ……いや冗談だけど」
くるみは自分にとっても厳しい。だけど碧は知っていた。
碧に対してはやっぱり厳しくなりきれず、根がだいぶ甘いことを。
*
お昼はまだ雨が止んでいなかったのだが、碧が父にちょっとしたおつかいを頼まれていたのを思い出したため、近所のスーパーマーケットに赴くことに。
天気が崩れているなか、なにもわざわざ二人で出向くことはないと思ったのだが、くるみも「ドイツにはどんなお野菜とか果物が売ってるか見てみたい」とのことなので、一緒に買い物に行った。
「海外だと、カートも大きいんだ」
日本のよりふた回りほどのサイズがあるカートを押していると、くるみがまじまじと見詰めて言う。
ここ二週間で慣れたつもりだが、碧が当たり前にしているものにくるみが真新しいリアクションを見せるのは、やっぱり面白い。
これだけ大きいとくるみくらいならすっぽり乗せてそのまま運べそうだな——と想像していると、当の本人が不思議そうな目をしてくるので、話を逸らす。
「あ、ほらあっちはくるみの見たがってた野菜があるよ」
「わあ。すごい品揃え。……?」
広げた掌より大きいパプリカも、枝ごと鈴なりに売られているミニトマトの大群も、可愛い花がついたズッキーニも、くるみにとっては珍しいだろうが、それよりとあることに気がついたようだ。
「あそこに量りがあるわ」
「自分で重さを量って、出てきた値段のシールを貼るんだよ」
「ふふ、すごい。二週間もいるのに、まだ驚きが尽きないなんて」
ぐるりと一周し、レジでお会計を済ませる。
明日には帰ってしまうということで、くるみはつばめや、家族に渡すお土産にチョコレートを選んでいた。碧もいちおう母に渡すのに、辛口のドイツ産ワイン……母の一番のお気にいりを買った。父から頼まれていたのが、それだからだ。
「くるみは帰るの寂しい? まだ帰りたくない?」
帰宅後、キッチンで購入品をマイバッグから取り出しながら訊いてみると、くるみは眉を八の字に下げた。
「帰りたくないってわけじゃないけど、やっぱり名残惜しいなって。現実は学校もあるしそうも行かないことは分かってはいるものの……せっかくこうして碧くんのお父様や千萩ちゃんと会えたのにもうお別れなのは、ちょっぴり寂しいかな」
「可愛がられてたもんな。でも、次もあるからさ。千萩は来年からこっちの学生になるわけだし。こっちからもまた遊びに行ったっていいわけだし」
「……うん。そうね」
気恥ずかしさを交えた淡い笑みを、くるみがほのかに浮かべた、その時。
——どん! がららららっ!
「!!」
突然の物音に、くるみが怯えたように、びくっと肩を跳ねさせた。
碧も、はじかれたように音のほうへ、首をもたげる。
……間違いなく、雷の音なんかではない。
何か重たいものが、この建物の階段から転落したような音だ。
「僕、見てくる。くるみはここで待ってて」
まだ衝撃でぎこちなさを残しているくるみにそう優しく言ってやると、碧は足早に……それでいて警戒をしながら、玄関のドアをゆっくり押す。
果たして——碧の家があるフロアから半階だけ下がったおどりばに、何かがいた。
大きなキャリーケースと、一緒に転がっている人がいるようだ。しかも雨に降られたのか、海から這い出てきた幽霊のように、額にはりついた前髪から雫がぽたぽたとしたたっている。シャツまでぐっしょりと、水を吸ってしまっていた。
ぎょっとしていると、その幽霊らしき人間が、倒れたまま、日本語で呪詛を……いや、助けを絞り出した。
「た、助けて…………うっ」
どうやら帰国前日にして、とんでもない事件に巻きこまれてしまったらしい。




