第254話 兄と妹(2)
お喋りしながら園内をぐるりと巡って、やってきたのは猛獣のいる舎だった。
「Ein Löwe!」
千萩が興奮した様子で、檻のそばまでスニーカーを走らせていく。
それを後からゆっくりとした歩みで、碧とくるみ、それから父は追った。
「あんまり近づくとがぶっとされちゃうぞ」
「なんだかライオンってお兄ちゃんに似てるね」
「百獣の王ってところが?」
「あくびのしかたが」
「……」
返事も出て来ずに檻を見れば、立派なたてがみをした雄のライオンは、太い刃物のような牙を出しつつくわっと豪快な欠伸をしていた。さっきからかった千萩からの意趣返しだろうが、そこはさすがに猛獣。なかなかに迫力のある光景なので文句は出ない。
一番初めのパンダの時から何となく気づいていたが、やはり動物たちはそれぞれの出身地をモチーフにした舎で暮らしているみたいだった。
パンダは中国風というかアジアンテイストの建築様式になっていたし、ここのライオンのいる舎もさながら本物のサバンナの大地を模したように、だだっ広く開けている。
くるみと千萩は柵のそばで、先日のことに会話が移ったようだった。
「そういえばお姉ちゃん。お兄ちゃんのホームビデオ見てどうだった……?」
「えっとね……〈幸せな家族代表!〉ってかんじが、見てすごーく伝わってきた」
「そうかなあ? 小さいお兄ちゃんはどうだった?」
「女の子みたいに可愛くてびっくりしちゃった。千萩ちゃんもちょっとだけ出てたけれどすごく可愛かったから、今度もっと写真見せてね」
「うん! お姉ちゃんの話も帰ったら聞かせてね」
きゃっきゃうふふと、それこそ本当の姉妹のように仲睦まじくしている二人。
後ろで見守っている父のほうへと近寄って、碧も同じく彼女らをのんびりと眺める。
父がまったりした口調で尋ねた。
「碧は混ざってこないのかい?」
「今はいいや。来週には帰る予定なんだけどさ、千萩は日本の高校に受かるまでの一年間、くるみと会えなくなる訳だし。僕は帰ってからの時間をたくさん貰うわけだから」
千萩は碧と同じ柏ヶ丘高校を志望しており、毎日、目標時間をクリアするため机にむかって勉強している。帰国子女となるので一般受験とはまた別なのだが、勉強は必要だから、そのあたりは先達である碧が、よく面倒を見てやっていた。
ゆえにがんばっていることは知っていたつもりだったのだが、ドイツに来て驚いた。なんせトイレには日本地図やら四字熟語やらがべたべたと貼ってあるし、前回来た時にはなかった参考書の山が、千萩の机にこんもり出来ていたのだから。
三月末でこれなのだから、その本気度はうかがえるというもの。
だからこそ、なかなか会えないくるみと一緒にお出かけできるのは、いいリフレッシュになることだろう。
それに、と碧は続ける。
「自分の彼女がこうしてうちの家族にとけこんでるのを見るのも、いいなって」
くるみには歳の離れた兄はいるが、歳の差があるがゆえに、彼女が物心つく時にはもう家を出てしまっていた。
さぞ一人の時間が多かったことだろうくるみが、こうして千萩と戯れあい、義理の姉妹として一緒にいる光景。構ってもらえない寂しさはゼロではないが、自分がわりこまずとも、それを外から眺めるだけで十分すぎるほどに碧は幸せな気持ちだった。
父が嫌味のない笑みで朗らかに言う。
「それは、いずれそうなった時を想像するみたいで?」
きっと一緒に暮らす挨拶をしたから、その後の計画についても考えはあるのか、父親として知っておきたいのだろう。
交際事情を根掘り葉掘り聞き出そう、という意図はないと分かるので、こちらも素直に返す。
「どうなのかなー。くるみさんもそういうふうになりたいって言ってはくれているけれど、はっきりとした約束をしている訳じゃないからな」
さすがに親に話すには気恥ずかしくて、そういうふう、とぼかしたが——つまりは家族になるということ。
前に碧が自分の過去を打ち明けた時、くるみがくれたお守りのような言葉。
つまりは彼女も〈結婚〉を考えてくれているはずだ、というのが碧の思惑なのだが、実はそのワードをこれまで口に出したことは互いに一度もない。
なんせ高校生には重すぎる話だ。未成年で責任がまだ取れないから、という理由においてくるみにキス以上のことをまだしていないくらいなのだから、段階をすっ飛ばして結婚など言えるはずがない。
だけど言葉にしていないだけで、二人の行動指針として〈ずっと一緒にいる〉というのは間違いなくあると言い切れる。
課題なのは、いつそれを婚約として申し出るか——だろう。
「いざとなったら、親をちゃんと頼るんだよ」
見透かしたような父の提案に、碧はちょっと照れくさくなりながらも、小さく頷く。
すると彼は笑いながら髪を手でわしゃわしゃとしてきて、碧は振り払う気もせず、しばらくの間子供扱いされるがままにした。
「こっちにはキリンもいるよ」
虎やヒョウを見た後は、また別の動物が待っていた。
広い大地を伸び伸び、木々の間を縫ってはぐるぐると円を描くように走り回るキリンを、千萩がいち早く見つける。
大きいのは承知していたが、やはり間近で観察すると相対した人間の小ささに驚かされる。脚の長さなんか、自分の背丈をゆうに越えているようだ。
もし今までの会話からあえて例えるなら、高身長の父に似ているだろうか。
「千萩はキリンって漢字で書ける?」
看板の解説を熱心に読みこんでいる千萩に、碧は問題を吹っかけた。
「え? 漢字で?」
「くるみは書けるよな?」
それからついでにくるみも巻きぞえにすれば、迷いなく涼しげな返事が。
「書けるけど、紙とペンがないと答えられないわ」
「さすが僕のくるみさんだ」
余裕ある涼しさが吹っ飛び、白磁の肌をほんのりと赤くして、くるみはまごついた。
「て、天下の往来でおかしなこと言わないの」
「日本語だから平気だって」
照れ隠しに、つん、とそっぽ。
「お父様と千萩ちゃんがいるんだからそういう問題じゃありません」
「二人は仲がいいね、本当に」
父が娘を見守るような温かな眼差しでほのぼのと眺め、いっぽう千萩は会話の最前線には着いていかず、指で空中に文字を書き出している。まだ〈キリン問題〉に挑戦しているのだろう。
「うう。えー……と」
頼りなくへにゃへにゃと宙をなぞった文字は全く正解とはかけ離れている。
——いや、僕もうろ覚えだし正確な漢字は書けないんだけど。
焦った瞳がこちらを捉える。
「分かんないよぉ」
「書けないと日本の高校に行けないぞ」
「千萩ちゃん。それは嘘だから真に受けないほうがいいと……」
「でもでも……お兄ちゃんは、書ける……んだよね?」
「そりゃな」
兄の見栄が、碧に嘘を吐かせた。
「他にも何か問題、出して」
「んー……じゃあオウムは漢字でなんて書く? はいさーんにーいーち……」
「それも難しいよぉ」
なんて、兄妹の茶番めいた押し問答をしている時だった。
「Chihagi?」
日本語とはやや違うイントネーションで、妹の名前を呼ぶ少女の聞き慣れない声が、後ろから聞こえた。
振り返ってみれば、そこにいたのは千萩と同じ年代くらいの子。
お土産で買ったのだろうパンダのポシェットを肩に下げて、ダークブロンドをおさげ髪にしたその子は、そばかすの頬の上で硝子玉のような瞳を丸くしている。
まさしく、休日にばったり出会った同級生の表情だった。
というか何処かで見覚えがあるのは、やはり千萩と同じ学校の生徒だからだろう。きっと近くに家族や、あるいは一緒に来た友達がいるはずだ。
そして、声をかけられた妹は——
「あ……」
まずその子を見た瞬間、目を見開いた。
それから気まずそうに眉を寄せると、返事もせずに碧の後ろにさっと隠れてしまう。
「千萩?」
妹がかなりの人見知りなのは、知っている。だけどこちらはどうも、見知ったクラスメイトに会った時のリアクションとは到底言い難いもので……。
「この子と、何かあったのか?」
兄からの呼びかけにも、千萩はだんまりして答えない。
喧嘩をした友達、だろうか。学校で何か、二人の間であったのだろうか?
碧たちの心配と、それを反証するかのようにきょとんとするその女の子をよそに、千萩はすっかりテンションが下がったふうだ。
「……お土産見て待ってる」
皆が何も言えぬまま、千萩だけがそうぼそりと呟くと、逃げ出すように走っていってしまった。




