第253話 兄と妹(1)
——ぷるるるる。ぷるるるる。
呼び出しのコールが鳴り続けるのを、碧はひたすら聞き届けていた。
スマホの、発信中という文字の下には『琥珀』の名前が表示されている。
——ぷるるるる。ぷるるるる。
「出ねえ」
ぽつりと落とされた呟きが、ゆるやかな風に解けた。
午前十一時の眩しい太陽に目を細めながら立ち止まる碧を、ベビーカーを押した家族連れや、五十代くらいの夫婦がゆったりとした歩みで追いぬいていく。お父さんらしき男の人に呼ばれた小さな男の子がすぐ横を走っていったタイミングで、相手が不在のまま、ぷつりと発信は切れた。
〈今の琥珀と、もう一度思い出を積み重ねたい〉
と、いう思いもあるが、ルカの言いかけたことが気になったためにこうして電話をかけたのだが、彼とはどういう訳か、なかなか連絡がつかずにいた。
「連絡出ないって……いったい何をしているんだ」
ため息を吐いて腕を下ろせば、ちょっと離れたところの小さな建物の辺りで千萩が、ぶんぶんと退屈そうに手を振っているのが目に留まった。
「お兄ちゃん電話、終わったなら行くよぉ」
すぐ横には、外行きの格好をしたくるみと父もいる。ちょっと電話してくる、と言い残し離れた碧を待っていた。
「今行くよ」
スマホを尻のポケットに突っこみ、皆のもとへ向かった。
*
「寝てる」
「すっかり寝てるね」
「もうお昼になるのに……ねぼすけ?」
碧とくるみと千萩は揃って、じっと同じ方角を見つめていた。
木組みのジャングルジムのてっぺんで、白と黒のふわふわしたかたまりが座っている——いや、眠っている。
熱心に見つめ返してくれるのは、せいぜい硝子にうっすら映った自分達くらいだ。
「ぜんぜんこっち見てくんない……」
「手を振ったら見るかな?」
「そんなアイドルじゃないんだから」
「お兄ちゃん、パンダは動物園のアイドルだよぉ」
旅行、もとい里帰りも折り返しとなった週末。
今日は土曜日で父が休みということもあり、事前に決めていたとおり家族みんなで外出をしていた。
選ばれたのは千萩立っての希望もあって、創立百八十年もの歴史を誇る、この国最古のベルリン動物園。
碧も移住してすぐの頃に連れてきてもらった記憶はあるが、なんせ当時はまだ小さかったから、どんな動物を見せてもらったかまでは覚えていない。なので初めての来訪のつもりで、象やらライオンと会うのを楽しみにしていた。
読むか分からないけれどとりあえず記念にとパンフレットを貰い、エントランスから近いのもあっていの一番に見に行ったのが、ドイツで唯一ここにしかいないパンダの檻だったのだが、彼らは人間などお構いなしに熟睡していた。
……そして今に至る訳で。
「にしても」
と、碧は寝ているパンダに目をこらす。
「なんだか千萩みたいだな」
「アイドルってところが?」
「いつも寝てるとこが」
千萩はむすっとした。
「ここにしばらくいたら仲間だと思って寄ってくるかもな」
「じゃあ、千萩ずっとここにいる」
くるみが困った風に言う。
「だけど……目覚める気配がないね」
「この調子じゃ、日が暮れちゃうぞ」
もちろん客は碧達だけじゃない。
遠くからわざわざ見にきたのか旅行者と思しき人から、ベビーカーを押した家族連れまで、パンダに会いにきた皆が柵の縁に並んで、硝子のむこうを眺めていた。
だけれどお団子になってぴくりとも動かない様子に、やがては諦めたのか。みんな、五分ほどの観察のあとは去ってしまっている。
碧たちはそれよりもっと長く、かれこれ十分近くここにいた。
父もずっと構えていたカメラを苦笑混じりに下ろす。
「千萩。パンダはしばらく寝てるだろうし、その間に次の動物を見にいったらどうかな」
「次のって?」
「ええと……何がいたかなあ」
父が、折られたパンフレットを広げる。どうやら早速、役に立ったようだ。
「この鹿みたいなのとか見たいんじゃないか?」
碧が横槍で、地図上の動物のイラストを指差すと、千萩は文句を垂れる。
「鹿は逃げたりしないもん」
「むしろ、逃げたら一大事だな」
「でもパンダは、千萩が鹿を見ている隙におきちゃうかもしれない……」
妹もかたくなだ。
どうしたものかと熟考していると、くるみも地図にある鹿っぽい絵を覗きこんで、あっと何かに気がついた。
「この絵……多分だけどトナカイじゃないかな。千萩ちゃんは見に行きたい?」
「トナカイ!? なら見たい!」
妹のころっとした掌返しに呆気にとられて言葉を失っていると、千萩はくるみの手をぐいぐい引っぱって、さっさと隣の舎に行こうとする。
しょうがないな、碧も追いかけようとしたところで——突如、後ろの客のざわめきが大きくなった。
振り返れば、なんとパンダが木を降りて、笹の葉を鷲掴みにしているではないか。
しゃくしゃくと筍をかじるような小気味のいい音を立てて、まるでうまい棒をたべるような豪快さで、笹のくきまでが口に呑まれていく。
「パンダおきて笹をたべはじめてるよ」
呼び止めれば千萩も皆も舞い戻って、追加で十分、観察に勤しんだ。




