第252話 「新婚旅行?」(2)
デイパックを担いでいるので、学校帰りだろうか。この国の高校事情はあまり知らないが、千萩の学校より少し春休み開始が遅いのかもしれない。
文化祭ぶりの懐かしい友人との再会だが、道ばたで……しかもくるみを連れているときに出くわすとは思わず挨拶に迷っていると、彼が先手を打った。
「こっちに来てるってのは連絡もらって知ってたけど、ぐーぜんだね。まさかこんなとこでばったりとは。……新婚旅行?」
「に、見えるか?」
「見えるから言ったんじゃん。本当は里帰りに一緒に連れてきたってとこ?」
「分かってるなら初めからそう言ってくれ」
まったくと肩をすくめつつも、碧の思考はたった今ルカが言った、新婚旅行の妄想が早速くり広げられていた。
今回のは二人の記念すべき初旅行だが、あくまで同棲の挨拶がメインの目的。
だから、結婚した時などにもしくるみと海外に行くのに二回目があるとしたら、今度は自分もまだ行ったことのない国に行きたい。ここの家はいずれくるみの第二の実家になる予定なので、次また来る時にまた旅行と呼ぶにはちょっと違う気がするからだ。
こちらが隙あらば空想を展開しているのを知ってか知らずか、小さなため息が一つ。
「幸せそうでなにより。……ところで、ほたるは?」
金髪の青年はきょろきょろと落ち着かない様子で辺りを見渡すので、碧は思わず噴き出しそうになった。
人のことはからかうくせに、彼自身も結構分かりやすいものだから。
「何笑ってんだよ」
「別に何でも。ほたるなら当たり前に来てないな」
「そっか」
あまり表情には出さず、だけど僅かにほっとしたように肩を落とすルカ。
とりあえずくるみがクエスチョンマークを浮かべながら不思議そうにするので、ここで彼女だけ話にいれないのもなと思い、ルカに許可を取る。
「くるみさんには話してもいい?」
「……駄目ではないけど。ってかやっぱ碧は知ってたんだな」
「そりゃあな」
「いいよ話しても。けど特段笑える話でもないからな。……いや、逆に笑えるかも?」
「碧くん。お話ってなに?」
ルカが自嘲気味に笑い、くるみがちんぷんかんぷんな様相で尋ねてくる。
遠回しに伝えるべきか考えて、やっぱり直截に言ったほうがいいかと、口を開いた。
「実は、ルカには好きな人がいるんだ」
「好きな人?」
「それがほたるのことなんだけど」
「そ……そうなの!?」
驚きを示すくるみのすぐそばで、ルカはちょっとばつが悪そうにしていた。
「もう何年も前から。結婚前提におつき合いしたいらしい。でも、ほたるは鈍すぎて気づいてないんだ。ごめんな、今までずっと黙ってて」
「わっ。私はぜんぜん構わないんだけど、ルカさんが……?」
見れば、ルカが若干坐った目をしていた。いかにも不服そうだ。
「だいたいは正しいけどな、結婚前提なんていつ誰が言ったよ。勝手なでたらめ言うな」
「そうかな。僕はお似合いだと思うよ。挙式したらぜひ呼んでほしいね」
「ほんとか!?」
「分かりやすいやつだなーお前」
「あの……ごめんなさい、ルカさん。もし秘密にしたいって思っていたのなら、その。あまりお二人の関係を知らない私なんかが聞いてしまって」
くるみがしゅんと項垂れるのを見て、首を振る。
「いやいや大丈夫。むしろ知らないからこそ許可も出せたようなもんだし。っていうか、この話誰かにしたのも初めてかも。……なんか案外、肩の荷が下りたかんじがするもんだね」
ルカは今言った事はおそらく本当だろう。
彼は自分の内情をそこまでオープンにするタイプじゃない。
ではなぜ碧が知っているのかというと、やはりほたるを交えて三人で何年も近くにいると、ふとした視線や言葉遣いなどで察してしまうもので。
だから〈いつから?〉とか〈何をきっかけに?〉なんて詳細は知らないが、自分の観察歴から考えるに、その片想いは結構前からだと推察している。だから、ルカがここまで日本語をぺらぺらになったきっかけは、碧と互いの母国語を教えあったおかげもあるが、ここ何年かは間違いなく彼の健気な恋愛感情も大いに手伝っているのだろう。
そして彼ほどの美男子で人柄もよしとなれば、大概の人に好まれるはず。だけど……
——こればっかりは、相手が悪いんだよな。
——なんせあのほたるだもんな……。
ルカをひっそり憐れんでいると、同情された友人は複雑そうな面持ちのまま、ごほんと咳払いをした。
「……この事は」
「言わないよ。言ってもほたるは信じないだろ」
「だよな」
ルカはきっと二重の意味で、大きく嘆息した。
ほたるは罪な女だ。
あんな美女のなりをしたくせして、恋愛の〈れ〉の字も匂わせず、もう二十歳になるというのに未だに男女で遊ぶことを〈家に集まって一緒にゲームすること〉だと思っているようなやつなのだから。
誰がみても見目整っていると断言できる美青年、ルカの魅力が、好みの差こそあれど一切届かないやつなんて、そんなの知る限りはほたるくらいだ。
「碧の文化祭に行った時もさ」
「うん」
ルカはいじけた風に言う。
「ほたるには『デート』って伝えて、事前に誘ってたのに、あいつ碧のことばっか気にしてるし。っていうか連絡間違えて大遅刻されたし」
「それは……どんまい」
「昔からほたるって碧にべったりだったじゃん。あれ何? カルガモの親子か何か?」
「僕は嫌だから振り払ってるけどな」
「知ってる。うざがってたよね昔から」
「……ルカはどうすんの?」
サファイアの瞳が、呆けたように瞬いた。
まるで、なぜ昼間は空が明るいかを問われているような表情だ。
「言えないよ。ってか言えないだろ。今さら」
前髪でさらさらと目許に影を落とすルカを見て、碧はきっぱり口を開いた。
「……ルカが言えないなら、僕から言おうか?」
こちらの突拍子もないであろう提案に、ルカはぽかんと動きを止める。
だが、碧はそれなりに本気だった。
今の友達としての距離だって、いつまでも続くものじゃない。何事にも期限がある。
ほたるがいくら子供っぽいとはいえ、ずっと恋愛を知らずに生きていくわけじゃない。あの見てくれなのだ。同じ専門学校の誰かに告白されて何となくOKするかもしれないし、心配した友達からいい人を紹介されるかもしれない。
長続きするかは別問題だが、とにかくそうなればルカは連絡を取ることすらままならなくなる。
「さっきは言わないって言ったけれどさ、あいつ多分一回ストレートにいかないと一生気づかないと思うよ。冗談だよねって思われる隙もないくらい真剣にさ。もちろんお前が嫌なら止めとく。どうする?」
しばらく言葉を失っていたルカだが……
「えー。いやいや。ないでしょ」
何もかも諦めたような息をふっと落とす。
「……仮に碧のそれが功を奏して、そういう目で見てもらえるようになったとしても、自分は日本に住めないし、ほたるはこっちに住めないし。二人で遠距離って柄でもないもんな。しばらくは今の距離を維持しとくよ」
気持ちを引き出しに封じこめるような口ぶりでそう言った。
「そっか」
何か助力になれればと思ったが、友人のアンサーがそれなら、碧もこれ以上何も言うことはない。
勝手なことをして今の二人の関係を崩してしまっても、責任なんてものは取れやしないのだから。
「ま、道ばたでする話じゃないしな。そろそろ帰るとするよ。雨も降りそうだしさ」
そう言われてから、空をいつの間にか分厚い雲が隠していることに気がついた。
四月の天気と女心はころころかわるとドイツの諺では言うとおり、天気予報が当てにならないことが多い。
「……僕たちも帰ろっか。雨具持ってきてなかったもんな」
くるみは頷いて、ルカに向き直る。
「ルカさん、私達はあと一週間とちょっと滞在するので、時間があればまた碧くんに会いに来てくださいね」
「ん。駅前におすすめのビアバーあるから、ふたりも時間あったらぜひ行って感想教えてよ。あとで送っとくから」
「くるみさんお酒苦手だからNG」
「そうなの!?」
手を振って、ルカが踵を返してから、何か言い忘れたように振り返った。
「あ。そうそう。琥珀のことなんだけど——」
と言いかけてから、まるで目に見えない何かがそうさせたように、ルカは口を噤んだ。
「いや。それこそ道ばたでする話じゃないか。ごめん忘れて」
「なん……」
聞き返そうとして、何となく止めた。そこまで言われたら気になるだろ、と答えるまで追求しようかとも思ったが、目つきが妙に思い詰めたものだったから。
ルカにその表情をさせているのはほたるとの関係のことか、はたまた琥珀に何かがあったのかは判別がつかないが、もし彼に何かあったと確信がつくのなら、ルカは碧に真っ先に報告してくるはずだ。
だからまだ何もない、今のところは、故に碧にも何も言えない、というのが現況だろう。
「……まあいいか。じゃあな」
気にはなるが聞くに聞けないまま、彼を見送ると丁度、雫のようなものが頬を掠める。
ただの時雨だとは思うが、目的も果たしたと言うことでくるみを連れて、すぐそこの停留所まで。
やってきたバスに乗り、チケットを買ってから空いていた後ろの席に隣あって座り、碧はささやいた。
「散歩、打ち切りになっちゃってごめんね」
くるみは垂らした横髪をふるふる揺らす。
「雨が降ったおかげで、外国のバスに乗れちゃうんだから、むしろ嬉しいくらい」
「バスもいいけど、どうせならトラムも乗りたいでしょ」
外を降る水玉を映して雨模様になっていたくるみの瞳が、ほんのり光を帯びた。
「トラム、乗れるなら乗りたい! ……でも乗るなら目的地を決めないと」
「今日の散歩とはまた別で、父さんがくるみのところ遊びに連れて行きたがってたから、その時に多分。目的地は千萩が決めるって息巻いてた」
「本当? たのしみにしておく。そしたら碧くん、私実は他にも行きたいところがあるんだけど、いい?」
「勿論。どこ行きたい?」
「ベルリンの壁の跡地に桜があるって話してたの、覚えてて。その、碧くんがよければだけど……私見てみたいな」
その提案が様子をうかがうようにどこか控えめなのは、その地に琥珀との思い出があることを以前話したからだろう。
別にくるみが気にすることではないし、碧にとってもあの時はいい思い出だ。むしろ旅行に際して連れていきたいと前々から思い描いていた事なので、素直に頷く。
「いいよ。咲くのは四月中旬以降だから、今だとまだ蕾かなぁ。来週にはちょっとずつ五分咲きくらいにはなっていると思うけど……じゃあ帰国の前に少し早めのお花見ってことにしようか」
くるみは座席の上でこちらの手を握り、柔和であたたかな笑みを浮かべた。
「碧くんがよかったら、琥珀さんも誘って三人でね」
「……」
初めは小さな驚きを示した碧も、やがて目を優しく細めた。
「そうだな。会いに行くんだもんな」
帰ったら電話をしよう。それでまたあの時と同じ桜を見て、持ち帰っていきたい。
今度はたくさんの思い出を……。
ささやかな気遣いに、頼れる恋人の存在を有り難く思いながら、窓の外を見る。
春雨はまだ、しばらく止みそうになかった。
——春は出会いと別れの季節だと、よく言う。
それらの具体度を一段階上げると卒業とか進学と呼ばれる人生の節目になって、代わりに抽象度を一段階だけ上げると、きっと〈変化〉という言葉にまとめられる。
だけども碧は思う。悪く言えば、春というものは〈一歩踏みだすことを余儀なくされる季節〉でもあるんじゃないかと。
望むと望まざるに拘らず、たとえばどんなに大好きな中学校でも卒業の時はくるし、合格したのが第三志望の高校だけだったとしても、その制服に袖をとおす日はくる。
一緒に暮らす未来のために、現実と向き合いながら、来たる大学入試へ舵を切って勉強に勤しむ、碧とくるみ。
兄の背を追って、日本の学校へ進もうと挑戦する千萩。
関係に期限が近いことを悟りつつ、それでも今のままを望んで、一歩を留保するルカ。
きっと誰にだって言えることだ。
気づかないだけで、きっと昨日とは何かが一つだけ違う。
たとえばそれはペンキが塗り直された昔の学校のブランコのように、歳をとったパン焼きのおじさんのように、あるいは雫を落とすこの空を秒速二十メートルで動いていく雨雲のように。
静かに。
でも確実に。
何かが終わり、何かが始まる——その中間点に、いま僕らは立っている。




