第251話 「新婚旅行?」(1)
「ところで僕ばっかり先導してるけど、くるみは大丈夫?」
散歩も再開し、しばらく歩いて、時刻も午後となったあたりで、碧は尋ねた。
鞄からくまのぬいぐるみを取り出して写真を撮っていたくるみは、肩から淡い彩りの髪をさらりとこぼして、きょとんと首を傾げた。
くまさんと旅の写真を撮りたい、という要望を有言実行しているらしいが、やはり美少女とテディ・ベアの組みあわせは、嫌になるほど破壊力がある。
くまを抱えている時のくるみは、昔の自分が出来なかったことを取り戻そうとしているようだった。それで少女返りしたようなあどけなさが花咲いているのが、可愛らしさに拍車をかけているんだと思う。
「? うん。私は碧くんの隣にいられればそれだけで幸せだから」
「それは嬉しいけど……そうじゃなくて」
見た目の可愛らしさ以上に、やっぱり飛び出てくる自覚のない不意打ちに、頬を火が放たれたように熱くしてしまう。
いや——照れているばあいじゃない。
旅の一番の醍醐味を、くるみはまだ味わっていないのだ。
「せっかくの外国なんだよ。自分で行き先を決めて歩いてみたくない? ってこと」
「え?」
くるみはきょとんと瞬きをした。
「私が?」
「ほかに誰がいるんだ」
「碧くんを連れて?」
「知らない国を自分で好きに冒険するのもたのしいでしょ」
「……迷子になったらどうしよう?」
「ぜったいならないから心配しないで。僕がいるんだから」
勿論このへんの地理には詳しい。庭とは言わずとも迷子にはならないはずだ。
すると、じっとこちらを見上げていた大粒の瞳がぷいっと逸らされ、くまのぬいぐるみによって隠されてしまい。
これには碧もちょっと戸惑ってしまう。
「……僕、そんなに頼りにならない?」
「ち、違くて! むしろその逆というか、その——……も、もういい。私、主導権貰っちゃうから」
何かをしどろもどろ説明しようとして、結局は諦めたくるみは、嘆息混じりにくまをそっと鞄に仕舞いこむと会話をシャットダウンした。
というわけで、隊列を組み替え。
見た目は手をつないでいるところからかわらないのだが、碧が案内する方式から、くるみが好きなところを巡るかたちへチェンジだ。
好奇心旺盛なくるみは、やはり自分で好きなように外国を歩くという挑戦には心惹かれるものがあったようで、どこかうずうずした様子。
「どこ目指す? くるみ次第でどこに行ってもいいよ」
「じゃあマグカップを買いにさっきの駅を目指してみる。いい?」
「おー。いいよ。作戦は『ばっちりがんばれ』でオーケー?」
「何言ってるかよく分からないけれど……碧くんは見守ってて。折角だから風景を見ながら歩いてみたくて、地図は封印してみてもいい?」
「お好きなようにどうぞ。いざとなったら助けを求めてくださいな」
小さな手に引かれるがまま、あとは彼女の思うままにと主導権を託した。
*
慣れない土地というのは織りこみ済みとはいえ、結局のところ、目的地からはずいぶん遠回りなルートを辿ることになってしまった。
だけどくるみは終始ご機嫌だ。
「ふふふ。路地裏を歩いてみたいから、狭いほうの道ばかり選んだけれど……やっぱり迷っちゃったね」
「僕が正解の道を教えてやればよかった?」
「ううん。こういうのも旅の醍醐味、なんでしょう?」
「お、くるみも分かってきたじゃん」
「だってほら。ここなんか、道を間違えた人だけが見れる特権みたいじゃない?」
すぐそこには、大きな庭を構えた邸宅がある。
低い垣根のむこうには、春を迎えて咲き誇るいろんな花が植えられており、家主だけでなく、通りすがる人々の目を楽しませているようだ。
碧もこの街は庭だ——と豪語するつもりでいたけど、こんなきれいな庭は見たことがなかった。
「むしろ迷ってよかったなあって思ってるくらい」
「そう言える人ってなかなかいないあたり、くるみってすごいよな」
前々から尊敬していたところだけど、改めて思う。こういう〈ありふれた日常に小さな幸せを見出せる〉ところは、間違いなくくるみの長所だと。
たとえばさっきの喫茶店で、メニューに迷いに迷って珍しいハーブティーを選ぶところ。天気が崩れて買い物に行けなくなった日にも、お掃除をするチャンスだと言って碧の家を綺麗にしてくれたし。前なんか、碧が手をすべらせてくるみのお気にいりのマグカップを割ったところ、怒るどころか寛大な許しを与えた挙句、次のお休みの日に一緒に新しいのを買おうなんてデートの約束まで取りつけたくらいだ。
予定外の出来事すらポジティブに受け止め、宝物のように拾って帰ろうとする、くるみのそんな人柄があるから、碧も慣れた道の散歩がこんなにきれいに映るのだ。
くるみはふふっと口許を綻ばせながら、はにかむように繊細な睫毛を伏せた。
「だって。碧くんがいるなら迷ってもへっちゃらだって、思ったから」
「なにそれ可愛すぎる」
——頼りになるやつと思ってもらえてよかったよ。
——あ、やばい。本音と建前が逆になった。
どうもそれが火に薪を焚べる発言になったらしい。
「とっ。とにかく! ここからさきはやっぱり碧くんが案内して」
「う……分かったから、ぶつかり稽古はやめてくださいって」
ぐいぐい体を押してくる。照れ隠しと、ついでにアテンドしろということだろう。
それはいいのだが、やはり彼女に頼られるというのは彼氏冥利に尽きるものだ。
本人も拗ねているかと思いきや、重力に従って垂れた前髪の隙間からは、ほくほくとした瞳。口角も嬉しそうにほのかに上がっていることが分かる。
可愛いなあ……と、彼女がぬいぐるみにそうしていたように、抱き締めて愛でたい気持ちがあふれてきたが、ドイツと言えど公衆の面前。帰ってから存分に可愛がってやろうと心に決めつつ、次にすべきは妹への贈り物選びだ。
「あ。ほら。あそこでいろんな小物売ってるみたい」
しばらく歩き、くるみが指を差したのは、広場で開催されている小物市だ。
集まっている客の隙間から見てみると、長きに渡って人から人の手を渡り歩いたヴィンテージ達が、数十年の時の重みのある輝きを静かに放っている。
「小物というか……古物ね。千萩ちゃんはこういうのは好きなの?」
「うん。なんか可愛いものコレクションにはまってるっぽい、最近」
クロスを引いたテーブルには、銀のスプーンやら真鍮の指輪やら石のブローチやらがごちゃっと並べられていて、まるで沈没船から持ち帰った宝箱をひっくり返したみたいだな、と思った。
「これ、くるみに似合うんじゃないかな?」
碧はそのうちの一つ、くすんだピンクゴールドのブレスレットを手に取った。
「もー。千萩ちゃんにあげるものを探しに来たんじゃないの?」
くるみが困ったように眉を下げる。
「それはそれ。これはこれ。……うん、やっぱりこういう系はくるみに肌馴染みいいと思うんだよ」
くるみの手に近づけてみると、やはり想像どおりしっくりくる。くるみのミルクのような肌の白さと輝きを美しく引き立てているようだ。
そもそも意匠だって、去年のホワイトデーに贈ったネックレス——今まさに彼女がつけているものと近しい。飾りとしては細い鎖に花を模したモチーフひとつで、こういうシンプルかつ優美なデザインはくるみの好みどんぴしゃだろう。
「これ買ってくる」
迷わずキャッシャーに行こうとする碧を、くるみが慌てて止める。
「ちょっと待って。そんな何でもない日なのに買ってもらっちゃうのは悪いわ」
「遅めのホワイトデーってことで」
くるみの口が、もにょもにょと波打つ。
「だ……だってそれは買わないことにしてたからでっ。バレンタインに渡しあったからってっ。そしたら私も渡さないと不公平!」
「いいよいいよ。じゃあ〈一緒にドイツに来た記念日〉ってことで」
「もう来てから四日目だもん」
「なら〈僕の耐久度を試すようなことは今後しないと誓った記念日〉?」
「碧くんをメロメロにさせるためなら何だってするしそんな誓いはしません」
「〈初めて迷子になった記念日〉」
「……も、もういいですそれで。ありがとう碧くん」
買ってもらって申し訳ないやら有難いやら、という気持ちでせめぎあっているようで複雑な表情になったのがちょっと面白くて笑ってしまうと、気づいたくるみにぺちんと二の腕を叩かれる。
千萩には、雨の日に収穫したようにみずみずしい真っ赤な苺を模った、ドロップみたく透きとおってぷっくりした硝子のブローチを、くるみが吟味してくれた。
購入を済ませると、千萩にやるほうはバッグに仕舞い、ブレスレットは早速くるみの細い手首にそっと留めてやる。
「……可愛い」
くるみは目線の高さまで手首を持ち上げて、様々な角度からブレスレットを眺めた。
「でも私……碧くんに貰ってばっかりな気がする」
「僕はもう散々なくらい貰ってるよ」
「まさか『愛情を』なんて言う気じゃ?」
「くるみのこれからをぜんぶ貰ってる」
「もー」
可愛らしく牛の鳴き真似をしたくるみは、愛情表現を言葉ではなく仕草に全振りしたように、恥ずかしそうに目を伏せて、腕にくっついてくる。おそらく照れた表情を隠そうとしているのだろう。
そんな彼女の意図を汲みつつ、ただその手を握り直そうとして……
「あれ? もしかして碧?」
この国では家族のほかに聞くはずのない日本語が聞こえた。
ただそのやや独特なイントネーションで話すのは、碧の知る友人に一人だけいる。
「ルカ?」
声のほうを見ると、金髪にサファイアの目をした男がきょとんと立っていた。




