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第250話 外国でのお散歩デート(3)



「あ。見て見て碧くん。あの看板」


 小学校を離れてまたしばらく歩いたところの道ばたで、くるみが宙を指差した。


 そこには何もないわけではない。正確に言えば宙ではなく看板だった。


 プレッツェルのかたちをした、欧州らしい可愛らしい吊り下げ看板。壁から伸びる鉄棒は蔦のようにくるりと渦を巻き、パンを焼く窯と手伝いをするノームを模った人形が載っている。それらが穂を垂らした麦の意匠に挟まれていることから、一目でベーカリーということが分かるデザインだ。


 ここが、建物に挟まれた街角のゆるい坂というのも風情がある。


「すごく可愛い。こういうのを見かけると、ついつい商品も見てみたくなっちゃうね」


「日本じゃこういう、ヨーロッパの洒落た看板ばかりを集めた写真集まで販売されているくらいだもんな。ここ僕が子供の頃からあるベーカリーだなんだけど、見てみる?」


「本当? 見てみたい!」


「折角だからなんか買って帰ろう。昔はおつかいもよく頼まれてさ。うちでは学校に持っていく弁当は、ここのパンが定番だったな」


 石だたみの狭い歩道に止められている自転車の間を縫いながら、オレンジの光が洩れ出る硝子のショーウィンドウに近づくと、そこからは陳列棚がよく見えた。


 日本のパンのようにふっくら柔らかというよりは、分厚くて黒い皮が切れ目に沿って裂けた、豪快かつ素朴なパンが、ところ狭しと並んでいる。


 ここでは客の前で注文の厚みのとおりに切って売ってくれる。メロンパンやクロワッサンのように、バターとお砂糖たっぷりの甘いものはないが、代わりにジャムやチーズやハムなどが売られていて、自分好みのサンドイッチにできるのだ。


 つないでいた手を離すと「あ」と残念そうな声が聞こえた。


 でも中は狭いし、さすがに何処でもいちゃつき続けたら周りにどう思われるか分かったもんじゃないから、今は許してくれとささやく。くるみもこくこく頷くので、納得してくれたようだった。


 手招きしつつドアを押すと、麦の焼ける香りが、ふあっと薫った。


 きぃ……と蝶番が軋んだおかげか、外のまだ肌寒い空気がはいったおかげか、焼いたパンの品出しをしていた黒ひげのおじさんが、すぐこちらに気づく。


「Na, bist du nicht der Junge aus der Akiya-Familie?(あれ、秋矢さんの家の坊ちゃんじゃないか?)」


 おじさんは驚いたように目を見開いた。


 それから、パンの詰まった箱をレジの隣においてこちらへ。


 見知った相手とはいえ自分はただの客だ。自分も高校に上がってから見た目も成長したのもあり、忘れられていたらどうしようかと思ったのだが、きちんと覚えてくれていたことにほんのすこしだけ気恥ずかしいような、だけど嬉しいような心持ちになる。


「Lange nicht gesehen.(ひさしぶり)」


「Stimmt, du bist doch nach Japan zurückgegangen, oder? Unser Baron hat dich ganz schön vermisst, während du weg warst.(確か日本に帰ってたんだっけ? お前がいない間うちのバロンが寂しがってねー)」


 ちなみに彼が言ったのは、碧が昔よく遊ばせてもらっていた、ジャックラッセルテリアの懐かしい名前。昔は看板犬として店番をしていたのだが、今日はいないようだ。


 おじさんも、よく見れば最後に見た時から目尻のしわが深くなっている。


「Und das Fräulein hier … Moment mal, hattest du nicht zwei kleine Schwestern?(そっちのお嬢ちゃんは……あれ? 妹さんって二人いたんだっけ?)」


「妹」


 くるみが、思わずと言った風に呟く。


 もちろん日本語はおじさんには伝わらず、にこにことこちらの返事をうかがっている。


「Ah, nein, das ist meine Freundin.(あの、妹じゃなくて僕の彼女です)」


 すぐにフォローをしたのだが、やはりくるみは微妙にしょげた様子だ。


「Haha, ach so, deine Freundin! Weißt du, bei Japanern ist das echt schwer zu sagen – ihr seht alle so jung aus.(ははは。なんだそうかガールフレンドか。日本人って誰も彼も若いから、見た目で判断するのは難しいな)」


「Überhaupt nicht ähnlich, oder(ぜんぜん似てないでしょ)」


 おじさんはにやにやと祝福してきた。


 その寿ぎを享受するのはもちろん吝かではないが、自分の成長を長年見守ってきた大人にされると、やっぱりちょっとむず痒い。


 シャツから出た太い腕を組んで、おじさんが思い出したように言った。


「Ach, übrigens, neulich war der Kohaku hier.(そういえばこの間、琥珀がきたよ)」


「Er?(あいつが?)」


 友人の名前が出たことに、反射的に聞き返す。


「Hat sich ein Glas Maronenmarmelade geholt. Ist schon ziemlich lange her, dass er das letzte Mal hier war. Ich dachte schon, er wär zu einer anderen Bäckerei übergelaufen. Schön, dass er doch wieder zu uns gefunden hat. …Alles in Ordnung?(栗のジャム買ってってたよ。だいぶひさしぶりにな。よそに浮気してたと思ってたから、またうちの味に戻ってきてくれて嬉しいけどな。……どうかしたか?)」


「Ja, alles gut.(いいや、なにも)……」


 なんとなく引っかかりを覚えて、気を取られた碧は、それしか返せない。


 ——だって、それってつまりは——


 いや、もしもを今考えてもしかたがないか。と、思索を打ち切りにする。


 それはそうとして、くるみが兄妹に間違えられたことに未だ尾を引いてそうだったので、明日のパンを買って外に出てから、困り笑いと共に励ましてやることにした。


「ほら、そんなしょげない。若く見えるってことは誉めてるってことだからな」


「……きっと手をつないでいなかったからだわ。うん、きっとそうに違いないもの」


 と、一人で謎の理論を展開して納得すると、するりと指どころか腕まで絡ませてくる。


「あのくるみさん?」


「何か文句?」


「いやそうじゃないんですけど……いいの?」


 必要以上にむぎゅっと抱きついてくるせいで、温もりと共に甘い香りがふありと立ち昇った。それだけならいいのだが、歩きづらい上になにか柔らかいものが当たっている。


 くるみも今回ばかりは気づいている、というかわざとしているようで、自分の大胆さに恥ずかしがりつつも悪戯っぽく口角を上げる。


「嫌なら離れます」


「や、嫌ではなくむしろ好……って何言わすんですかお嬢さんは」


「だって碧くんこういうわがままぜんぜん言ってこないから、たまには私のほうから叶えなきゃなって。——また妹って言われるのも嫌だし」


 ぼそっと拗ねた一言に笑いそうになったが、本人の名誉のためになんとか抑える。


「耐久度って擦ればなくなるって知ってる?」


「じゃあその耐久度が空になる前に……帰ったら〈いちゃいちゃ〉する?」


「うーん参ったな。はいって言いたいけど実家だもんな」


 そんなに煽られても発散も何も出来やしないので困るだけなのだが、くるみはこっちを困らせるのがおもしろいみたいだ。


 別にこの程度の悪戯は可愛いものなので、それ以上とくに何か言うでもなく結んだ手をむにむに揉む碧。しかしながら箸が転がっても笑う年頃とはよく言ったもので、くるみはそれすら可笑しいらしく、鈴を転がすような笑みをくすくすと零した。


「碧くんには、二人暮らしまでもうちょっと大事にされておきます」


「大事にされててください」


 受験戦争からも解放されて、気の赴くままに好きなだけ構い倒せるようになったら、その時はたくさん愛でてやろう。


 そうひっそり誓いつつ、またゆるい坂道を二人で肩を並べて登りはじめた。


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