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第248話 外国でのお散歩デート(1)


 ドイツに来て四日目の月曜日。


 この日は、二人で相談して決めて待ちに待った、街のお散歩の日だった。


 朝はくるみと千萩とでフレンチトーストを焼いて、片づけを終えたら身支度をする。


 こういう時、男はせいぜい着替えて髪をブラシで整える程度なのだが、お洒落に一家言があるくるみは鏡の前で、どうなっているか分からない難しそうな編みこみをしていた。


 清楚なブラウスにはこれまた可愛い肩紐のあるワンピースを重ねている。


 こういう上品なひらひらを着ると、くるみはまるで等身大の歩く西洋人形(ビスクドール)のよう。今日もこのうえなく可愛らしい。


「よし。じゃあ行ってくるよ」


 一日をとおしてぽかぽかと春らしい気象になるとのことだが、天気とは気まぐれなものだ。念のために雨具が必要ないか天気予報を見てから、玄関で千萩に留守を頼む。


「……お兄ちゃんたち行ってらっしゃい。帰るのは何時になる……?」


「夕方までには戻るよ。千萩はほんとに来なくてよかったのか?」


「ポニーに蹴られちゃう」


「馬な」


 父親はとっくに仕事に出ているので、千萩がひとりでお留守番だ。


 別に本人がいてもいいのだが、デートのじゃまをしたくないのだろう。折角のプレゼントを買うのなら驚かせたい気持ちもあったので、千萩が行かないと言うのならそれでいい。


 散歩と言えど、くるみにとっては空港からの帰宅を除けば初めてのお出かけ。


 いちおう事前にルールを決めて、くるみが外出する時はちょっとしたことでも、必ず碧か父のどちらかが同伴することにしている。この街は平和とはいえ、不慣れな海外で女の子一人で表を歩かせて、犯罪に巻きこまれては洒落にならない。


 そのぶん、今日はこの街のいいところをたっぷり案内しようと決めていた。


「それじゃあ行ってきます」


「千萩ちゃんもお留守番よろしくね」


「うん……気をつけて」


 手をつないで、勾配のきつい階段を降りる。


 外はうららかな日光が、まだやや温度の低い大気にじんわり染みていた。


 春本番を迎え、欧州の長く厳しい冬も終わりを告げていることが分かる気象だ。


「さて……どこ行くかだけど、千萩のプレゼントは後にしてまずは街を見せたいから、とりあえず勝手気ままに歩いてみるでもいい?」


「はい。私は碧くんについていくから、案内はよろしくおねがいしました」


「じゃあまずは、あっちに行ってみようか。駅のほう」


 優しく手を引いて、彼女にとっては初めての、自分にとっては懐かしい道を歩き始めた。


 そこいらは、日本とは何もかもが違う。


 なんて言うと大仰かもしれないが、歩いていると本当に、何日か前までいた東京と同じ世界にある街とは思えないくらいなのだ。


 ゆとりある石造りの街には、東京にはないトラム——つまり路面電車がレールをなぞって走っているし、規格の違うナンバープレートをつけた車は道ばたに、蟻の行列のようにどこまでも道ばたに連なっている。もちろん東洋人はさっぱり見かけない。


 どこを見たって、くるみを驚かさないものはなかった。


 人の住んでいる建物を見上げれば、小さなバルコニーには物干し竿にシャツやらタオルやらが下がって、春風に気持ちよさそうに揺れている。このへんは日本と似た光景だろう。壁には子どもたちが描いたチョークの落書きが残っていて、歩道には自転車がたくさん停められていた。


 この国の人々の暮らす気配に、ここはかわらないなと頬を弛める。


「すごい。外国みたい……じゃなくて。本当に外国に来ちゃったんだ」


「今日までずっと家でのんびりしてたもんな。あ、ここの信号早いから気をつけて」


 半分しか渡っていないのに赤になってしまい、慌てて対岸まで走り切る。


「……早歩きでも間にあわない信号なんてわたし初めて。どうしてこんなに早いの?」


「車社会だから。渋滞にならないためかな」


「お年寄りのかたが渡る時はどうしてるの?」


「どうだろう? 車が待ってくれてたような気がする」


「すごい。ドライバーさん優しい」


「今は何を見ても聞いても、琴線にふれそうだ」


 くるみの目は一秒たりとも休むことなく、できるだけたくさんのお土産話を拾って持って帰ろうとするように、きょろきょろ忙しなく動いている。


 見るもの聞くものひとつとして、新しくないものはないのだ。さもありなんだろう。


 それでも手を離して遠くへ走っていかないのは、外国で碧と離れるのが憚られるのか、手をつないでいたい乙女心か。どちらでもいい、こちらへの信頼と愛情という点で相反はしないのだから。


「ドイツはこの季節は雨が多いんだけど、晴れててよかったね」


 天気が崩れていれば、今日も一日家でかたつむりをすることになっていた。


 気にせず出かけてもいいのだが、雨具を持つことになれば買い物も億劫になるし、手をつなげないと散歩デートのよさが八十%になってしまう。


 隣から、ぽつりと独り言のようなものが聞こえてくる。


「雨なら雨で、それはそれで…………なんでもない」


「僕、聞き返したりしてないけど、そうだね。いろいろと半分こできるもんね」


 くるみはちょこっと恥ずかしそうに、じと目を向けてくる。


「つばめちゃんの貸してくれた恋愛指南書によると、ここは彼氏さんは『何か言った?』って返すところだと思うの」


「そんな耳が遠いやつより、くるみのお望みを察して動ける彼氏のほうがいいと、僕は思ったんだけどな」


「そう言うわりに碧くん、たまーにものすごく察しが悪い時があるけれど」


「うそ。どんな時? もし直せるなら直したいんだけど」


 思わず聞き返す。


 父もああ言っていたし、同棲を控えている身だ。こんなところで嫌われては堪らない。


 しかしくるみの回答は不可思議なもので。


「残念だけど教えてあげない。……直されたら寂しいから」


「え。なんで?」


「なんでも」


 それじゃくるみが困るんじゃないか? と言おうと思ったが、くるみはみずみずしい笑みを咲かせながらも、話は終わりとばかりの空気を醸している。それでも足取りは浮かれた様子なので、機嫌は上々らしい。


 釈然としないながらも、本人がいいと言うならいいか、と追及はしなかった。


 それに、とつぜんの雨に見舞われたっていいと思うのは碧も同じ。ふたりで慌てて走って、バスに乗って帰ることになっても、それはそれで思い出になるだろう。


 くるみと一緒なら、どんなワンシーンでも大切な記憶として残るはずだから。


 遠くから届く地下鉄の振動と人々の喧騒、近くから聞こえる葉擦れの音をBGMに、お喋りをしながら、地図を持たずあてどなくゆっくり歩く。


 青い瞳をしたグレート・デーンのお散歩をしているおじさんが、ふれあいを快く許可してくれた。くるみがしゃがんで優しく「おいで」と言っても知らんぷりされて、がっかりしていた。そりゃ日本語でしつけられていないんだからそうなるよな、と碧はひっそり笑った。


 やがて歩いているうちに、閑静な住宅街はだんだんと都会に姿をかえていく。


 停留所に止まるのは、レモンイエローに塗られた二階建てのバス。


 硝子の鎧をまとった巨大なオフィスビルがにょきにょきと天を衝き、青空やむかいの建物を鏡のように映している。


 くるみはヨーロッパらしい風景を期待したかもしれないが、駅の近くはオフィスで働く人も多いので、わりかし東京と似たところも多い。それでも歴史のある街なので、新しいものと古いものがしっかりと同居している。なかには三百年以上前に開業し、あの皇帝ナポレオンが来たこともあるレストランもあるほどだ。


 こういう文化の香りのするところが、この街のいいところだと思う。


「あれはなに?」


「シュペーティ。二十四時間開いてて、お酒でもお菓子でもなんでも売ってる」


「あれは?」


「蚤の市だよ。古着とか家具とか売ってる。根気よく探せばお宝も眠ってるらしいね」


「わあー……あっ。見て。あっちにスタバがある」


 くるみが謎に声を潜めながら、ちょんちょんと袖を引いた。


 日本で暮らすと、日々のなかで何度も見かける看板が、街にとけこんでいる。


 硝子のむこうにいるノートパソコンを睨んで仕事している人や、学生がメインの客なのも、日本と同じだ。


「……外国発祥だから当たり前だけど、そっか。他の国にもあるんだ」


 碧はもう慣れきってしまったが、気持ちはよく分かる。


「ベルリン限定のデザインのマグカップが売ってるけど買ってく?」


「本当? じゃあそれは父と母のお土産にしようかしら。荷物になるから買うなら後がいいんだけど……帰りもここ通る?」


「うん。そういうルートにするから大丈夫だよ」


 そんなわけで、後で寄るとこメモに残し、散策を再開。


 ——したものの、すぐに足は止まる。


「ね。あっちにはお洒落なカフェがあるわ」


 くるみの光を帯びた瞳が、白で統一されたお洒落なカフェを捉えた。


 〈Käsetorte〉の看板が出ている。どうやらチーズケーキの専門店のようだ。


「寄ってみる?」


「ケーキかあ。あんまお腹にたまらないんだよな」


 と碧がぼやくと、くるみがすすす……と距離を詰めた。


 垂れた前髪の下から、どこか悪戯っぽい瞳が覗いている。


「……碧くんは私のこと、可愛いと思ってるでしょう?」


 前後のつながりが読めない問いかけが。


 どういうこっちゃと怪訝に思ったが、事実なので頷く。


「毎日思ってるよ。でもそれが?」


「じゃあ、可愛いケーキをたべる可愛い私は見たくない?」


「それを自分で言える自信すごいな? いや事実だしめちゃくちゃ見たいけどさ」


 世の中には、己の可憐さに自覚のある美少女と、ない美少女がいるらしいが、どうやらくるみは前者らしい。


 そりゃあれだけ男子の人気を博して告白されておいて、己の魅力に気づいてないはずないのだが、それを雑な交渉材料にしてしまうのがちょっとおもしろかった。


 くるみはおかしそうに相好を崩す。


「だって、碧くんが毎日かわいいって言ってくるから。もともと自覚はあるとはいえ、嫌でもさらに自信はついちゃうわ」


「自分の名前を『かわいい』だと思っているわんちゃんみたいだね。かわいい」


「呼びましたか?」


 今日はくるみのテンションがやけに高い。


 慣れない外国の探索が、よほどたのしいのだろう。


 砂糖といい勝負をするくらい甘い会話を交わし、これまた甘いチーズケーキと各々注文したお茶で舌のご機嫌を取った。


 ひと休みすると今度は、駅から離れて川のほうへ。


 と言っても、この市街を針で糸が縫うようにながれる——もちろん人の目からすれば大きいけれど——そんな謙虚な川だ。


 ここはさっきと違って、あまり高さのある建物はない。


 アンティークカラーに染まる街並みで、昔ながらのヨーロッパらしい古風な街並みが見られるのだ。


 たとえばこの国を代表する首都を、さらに象徴するベルリン大聖堂。


 ホワイトグレーと、くすんだミントグリーンの気品ある取りあわせは、写真に撮っても逆に絵と間違えてしまうほど、カメラがない時代のヨーロッパの風格をそのまま残している。


 王族の住まう宮殿のようで迫力があり、事実ここは昔の王様の墓があるのだが、庭では木影で昼寝をしたり、ヨガをしたりする人もいて、市民の憩いの空間ともなっていた。


 ちなみにユーロを支払ってルーフトップまでの長い階段を登り切ると、ベルリンの街が一望できたりもする。今日の目的はあくまで散歩だが、今度またくるみを連れてくるのもいいだろう。


 少し歩くと、今度はゴシックへの回帰をしたような歴史ある建築様式の、フリードリヒス・ヴェルダー教会。ダークブラウンのれんがの壁は、さっきの聖堂と比べると、建物自体がこぢんまりしているのもあって、ひっそりと街に潜んでいるような落ち着きがある。


「ほら。島があるの見える?」


 柵に寄りながら、川の真ん中でふたつの橋をつなぐ中洲を指差す。


 そこにはクラシックな建物が、その存在の大きさを訴えている。


「あれは『博物館の島』っていうんだよ」


「聞いたことある。世界遺産よね? 確かヴィルヘルム三世が造ったっていう」


「おー。よく知ってるね。博識か」


「昔から本だけはよく読んでいたから。それがわたしの唯一の砦」


「くるみのそれが唯一って言うのなら僕はなんなのさ。何も誇れるものないんだけど」


「……ドイツ語をぺらぺらに喋ってる時点でいろいろ言いたいことはあるけれど、とりあえずは『もっと自分を高く見積りなさい』とだけ伝えさせてもらうわ」


 砦——という言葉に引っぱられた訳じゃないが、島にある博物館はその見た目としては、改めて見るとなるほど確かに、お城にも見える。


 だが近さで言えば、二段重ねのウェディングケーキのほうがぴったりだろう。


 白いクリームに立てるろうそくのような石柱が壁に均一に並び、四方八方を向いた彫像が、高みから街の人を見守っている。


「行ってみる? 博物館」


 まずは提案してみると、くるみは島のほうを、眇めた目でじっと瞠る。


「けれど、人があまり居ないような? 本当にやってるの?」


「……あれ。今日何曜日だっけ?」


 嫌な予感がして、ポケットから取り出したスマホを見る。


 今日は——月曜日。


「あーそっか。ちょうど定休日だ」


 日曜や祝日は法律上、どこもかしこも閉まっているのは承知していたが、月曜は博物館の系統が休みだということは、すっかり忘れていた。


 連れ出すのは明日にすればよかったか……なんて残念に思っているも、くるみはとくに何も気にせずけろっとした様子。諭すようにこちらを見上げてくる。


「今日の目的はあくまでお散歩だから。博物館のデートはまたにしよ?」


「でもせっかくの旅行なのに」


「……手をつなげて歩けてるから、今日のところはそれでいい」


 瞳を伏せながら何ともいじらしいことを言うので、返す言葉が見つからなかった。出たのはせいぜい「そっか」という面白みのない相槌だ。


 ——なんだかな。最近はどうも……


 くるみをもっと惚れさせて好きになってもらうのが密かな目標なのに、これじゃあ自分ばかり好きになっている気がする。


 勿論、彼女に愛され好いてもらっている自覚はあるが、愛情の重さを量れる魔法の天秤があったとしたら、きっと碧のほうは金塊を載せても持ち上がらないだろう。


「じゃあ、週末あたりにまた挑戦ということで」


「はーい」


 またお出かけできることが嬉しいのか、くるみは甘えるように身を寄せてくる。


 とりあえず、密着させた掌をやわやわと揉むことで、自分も同じ気持ちだと言うことはばっちり伝えておいた。


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