第247話 秋矢家の祝福
そうして、三日目の日曜日。
父親も仕事が休みということで、予定では昼に改めてくるみの歓迎会が行われることになっていたのだが——。
「わあ。わらびにこごみにふきのとうが、こんなに沢山」
父が朝っぱらから車でどっかへ行ったかと思いきや、山菜を収穫して帰ってきた。
まだ土や泥をつけたまま籠いっぱいに積まれた、若くみずみずしい山の恵みを、くるみは好奇心たっぷりに覗きこんでいる。
「山菜ってドイツにも生えているんですね。知らなかったです」
「そうそう。日本では春の味覚として親しまれているけれど、採れるのは案外日本だけじゃないんだ。ドイツはそのへんの森に誰でも好きにはいることができて、しかもみんな山菜を採る文化がないから、競争率が低いんだよ」
でも、と父が困ったように笑った。
「山菜の料理といえば天ぷらとかそばなんだろうけれど、調味料もないし、私はあまり料理が得意じゃなくてね。だから、よければくるみさんも一緒に手伝ってくれるかな?」
「は、はい。ぜひ。私でよければ」
父はくるみが料理を得意としていることを前情報で知っている。だからこれは、彼女が客人として持てなされるばかりなのを却って気にしているのを察して、それに気を遣った結果の提案に違いない。
なぜ断言できるかと言うと、自分でも同じことをしていたと思うからだ。
「助かるよ。といっても半分は、碧が手放しで称賛するくるみさんの料理を、私も一度味わってみたかっただけなんだけどね」
「そんな……。たいしたことありません。人よりちょっぴり得意なだけです」
「碧から聞いているよ。くるみさんにどんなものを出してもらっているのか、たまに写真つきで」
「写真? ——あ。そういえば」
くるみは気づいたらしい。碧がスマホで時々、食卓の写真を撮っていたことを。
別に誰かに見せるためではなくただ記録として後々見返すためなのだが、父親にLINEで近況を聞かれた時は、説明が省けてちょうどいいとばかりに料理の写真をよく送っていたのだ。
「息子の誕生日にも豪華なランチつくってくれたんだよね? ありがとう。もしよければ滞在しているあいだも、キッチンは好きにしていいからね」
「それは嬉しいのでお言葉に甘えますが……碧くん!」
いったいどこまで話したんだ、という困惑きわまりし抗議の視線だ。
とりあえず、ぐっと親指を立てておく。
『違うそうじゃない』という目をされた。
なら責任を持って助け舟を出すしかあるまい。
「ところで」
碧はわざとらしく咳払いした。
「くるみの料理が天下一品なのは保証するけど……父さんって味の違いあんま分からないよな?」
父はかなりの貧乏舌——つまりは味音痴だ。
しかも本人はそのことを自覚していない。
「え? うーんどうかな。そんなことはないと思うけど……」
甘さにも辛さにも苦さにも味覚が鈍い。どんな現地料理でも「おいしいね」の一言で抵抗なく平らげてしまうので、バックパッカーとしてはある意味、かなり優秀な才ではある。
だがゆえに、計算され尽くした繊細な味つけがされたくるみの料理をやるのは、些か勿体ない。
碧がかつてくるみのだし巻き玉子に感動したのも、本人の腕のよさもあるが、前提として生まれてこのかた、保護者である父の「お腹いっぱいになればなんでもいい!」な大雑把すぎるスタイルに巻きこまれ続けていたからで。そこには勿論、食事に手間をかけたがらないドイツという国柄も、おおいに味方をしているのだった。
「あるある。父さんより味覚のセンスがない人間は見たことないもん」
「碧だって父さんの出したシリアルとか、おいしいってたべてたよな?」
「それ買ってきたやつまんまじゃん。牛乳いれただけじゃん」
「それは……うん……」
論破された父はしんなり黙ってしまった。
掌を衝立てにしたくるみが、ボリュームを絞ってこっそり訊ねてくる。
「でも、碧くんは味覚はちゃんとしているほうでしょう? 私の料理にも、いつも細かく感想言ってくれるし」
不思議そうにするのも、むりはないだろう。
「僕は子供時代のうちにいろんな国に連れていってもらってはいて、いい物を知ることは出来たから。上海とかバンコクとかローマとかごはんの有名な都市もたくさんあったし、味音痴になるのは免れた。父さんは……うん。大人になってからはもう手遅れだったんだろうな」
「そっかぁ。碧くんがちゃんとした味覚を身につけてくれてよかった」
「確かにそうでなくちゃ、くるみも料理しててはりあいがないもんな」
自分としても、感想を伝えられるだけのラインはクリアしててよかったと思う。
それが出来ていなかったら、くるみを口説き落として、家で料理してもらうまでに至らなかったろう。
「まあ父さんもこれで、味覚を鍛えるきっかけになるといいなってことで。シェフさんよろしくおねがいします。うち醤油だけはあるけど、味醂とかめんつゆとか和風の調味料はないから、そこはくるみの腕に委ねるよ」
「うーん。じゃあメインは洋の物かな。碧くんのご希望はいかほどで?」
「僕よりくるみのほうが知ってる料理多いだろうしお任せします……って、丸投げされても困るよな。野菜嫌いの千萩でもぱくぱく箸が進むようなメニューに出来たりする?」
もはや彼女の手に生み出せない料理はないんじゃないか、というくらいくるみはレパートリーに富んでいる。碧の家で料理するときも、煮たり焼いたりローストしたりと技法も自由自在で、体調やその時季旬の魚と野菜にあわせたメニューを組み立ててくれる。
なので、これくらいの注文は難問ですらないだろう、という信頼があった。
その期待に答えあぐねることなく、くるみは棚の調味料と並んだ山菜をふむ確認しつつ、ひいふうみいと指を折る。
「……そうね、とりあえず六品くらいは思いついたから大丈夫。任されました」
頼もしいことを言いつつ、可愛らしくびしっとした敬礼をするので、碧もしゃっと腕まくりをしてお手伝いの心構えを見せた。
*
そうして、和え物やらソテーやらパスタやら汁物やら、万国博覧会のようにさまざまに調理された山菜料理が卓上に並び、四人揃ったところでいただきますをした。
ほろ苦くも春の新芽らしい芳香が、優しい味つけによってうまく引き立てられている。
好き嫌いの多い千萩も、かつて見たことがないくらいおおはしゃぎだった。
「うん。おいしい。これなら二人で暮らしてもぜんぜん問題ないね」
「お姉ちゃん、お兄ちゃんはやめといて千萩にしておく気はない……?」
「勝手に人の彼女を口説くんじゃありません」
「千萩ちゃん。私と結婚したら毎朝だし巻き玉子焼いてあげるからね」
「僕のがなくなる……」
そんなこんなで、皆で口々に感想を言いつつ味わっていると父が言った。
「さて。改めてになるけれど、くるみさん。遠路はるばるうちまでようこそ。いつも息子のこと見ていてくれているようだけど、迷惑かけてはないかい?」
くるみが箸をおきながら、ゆるりと首を振る。
「いえ。迷惑だなんて……そんな」
「すでにそちらのご両親には、一緒に暮らす許可は貰っているんだろう? 私もOKは出しているんだし、二人はこれから支えあっていく仲なんだから、畏まらないで本音で喋ってもいいんだからね」
「あのさ。まるでくるみが僕のお世辞を言ってるみたいに言わないでよ」
「……お姉ちゃん、お世辞はいいんだよ?」
「おい千萩」
息子および兄としては聞き逃せない発言だ。
くるみは断じて違うと、髪をさっきよりはっきりと左右に揺らす。
「お世辞なんか言わないです。碧くんは優しくて誠実です。お手伝いもしてくれますし、日本じゃ知れないいろんなことを教えてくれます。……クールなのにたまに照れやさんなところも、すごく可愛いと思いますし」
——うん。嬉しいけど最後の一言はちょっと余計だったんじゃないかな?
父親はほほえましげに両肘をテーブルについて、温かなまなざしをくるみに送った。
「そっか。くるみさんは碧のことが、本当に大好きなんだね」
ぽんっと湯気が出るのを、リアルに見てしまった。
「! っ……そっそれは……そうですけど……っ」
心情を見事に実況されたくるみは、うつむき気味に。
そのまま黙ってしまったので、よほど恥ずかしかったのだろう。
母のからかいは、学生の初々しい恋をついつい突っついてしまうから、で説明がつく。けど、根っからの人格者である父のこれには全く他意がなく、本当にただ見たまま感想を述べただけなのでたちが悪い。
でもだからこそか、くるみも今回は言われるばかりじゃないようだ。
「…………はい、好きです。どんな碧くんだって」
小さく紡がれた愛の言葉が、空気を震わせる。
「大好きです。だからこうしてご挨拶に伺わせていただきました。……お父様の大事な碧くんと一緒に暮らす前に、私の気持ちを知っていただきたくて、日本から来たのです」
くるみが真摯に澄み渡った目で真っ直ぐと、面映そうにこちらを見てくることで、ありありと伝わってきている。
——くるみ。
そう名前を呼ぼうとしたのに、愛おしくて愛おしくて喉が鳴らない。
衝き上げてくる情動を持て余したまま、ただ彼女を見つめ返していると、父が言う。
「ありがとう。うちの息子を好きになってくれて」
それからふっと相好を崩し、優しいまなざしはこちらに注がれる。
「……碧は話したんだね。琥珀くんのこと」
「!」
思わぬ話を切りこまれて、はっと目を見開く。
琥珀のこと——自分の人生をまるきりかえてしまったあの日の出来事は、もとは碧と父くらいしか知らない、限られた話だ。
そして今は、この先を歩むパートナーのくるみも知る話でもある。
だが勿論そんなふたりの内情を、いちいち親に報告などはしていない。そもそも彼女が出来たことを父が知ったのも、同棲の話をしたときが初なのだから。
「分かるの?」
「見れば分かるよ。親だからね」
理屈っぽく聞こえて、全くもって感覚頼りなことを父は言う。
「一年前に会った時よりもよく笑うようになっているからね。それにあれだけ夢一直線だった碧が日本の大学に決めたのも、くるみさんと一緒に暮らそうと思ったのも、そのへんの話をして織りこみ済みだからかなって」
「おお……すごいな」
ぜんぶ当たっていて、思わず戦慄した。
父の、息子に対する理解の解像度は、高いと言わざるを得ない。
「そもそも碧は、自分の将来を預けられるくらい大切な人にしか自分の秘密は開示しないだろう? それが親友に絡む話なら、なおさら」
「そんなに秘密主義ってわけでもないけど……まあ」
生い立ちを隠すことをやめた今となっては、学校では碧の海外育ちという経歴を知る者は、ちらほらいる。
というか、全校生徒の前で流暢なドイツ語を喋ってしまったのだから、今となっては周知の事実と言ってもいい。
ただそれでも——正式な過去のことをくるみだけに話したのは、彼女が自分の心の拠りどころで、一番大切な存在で、何より信頼できる人だから、というのが全てだった。
「日本の高校に行くように勧めたのは、碧に日本を知らないまま大人になってほしくないからだった。もちろんそれでも、一人暮らしさせるのはやっぱり心配だったよ。琥珀くんのことで傷ついていることを知っていたから。……彼は今もこの街にいるんだろう?」
「……うん」
短く返し、うつむいた。
琥珀との間には、まだやり残したことがある。
——今度は、僕のほうからあいつに会いにいきたい。
記憶を失ってもなお琥珀は、こちらの学祭にわざわざ来日するまでに、碧のことをずっとずっと考えてくれていた。
忘れていても覚えていても彼は彼だ——なんて知った風なことを言っておいて、今の琥珀の物語る世界の残酷さから目を逸らしていた怖がりな自分のことを、ずっと。
だから会いたい。叶うのならばもう一度……友達としていろんなことを話したい。
会えなかった期間にあった、いろいろなことを。
事故に遭ったあとの彼を『あの日の後の琥珀』ではなく、自分の知るただ唯一の『琥珀』として、知って理解して、叶うならまた一から親友になりたい。
僕にもしこの三年間でやり残したことがあるとすれば、それは————
〈琥珀との思い出づくりをやり直すこと〉
凪咲のおかげであのとき導き出せた答えを思いながら、碧は静かに、けれどはっきりと言った。
「会いに行くよ。あいつも今は春休みだと思うし。連絡してみる」
それから隣にいる少女を、そっと見る。
「……くるみも、ついてきてくれると嬉しい」
すぐに、散る前の桜のような淡くも美しい笑みが、はらりと返される。
「碧くんが望むなら、どこにだって」
心づよい言葉に、温かい光がまたひとつ灯った気がした。
自分が今の自分でいられるのは、間違いなくくるみのおかげだ。
隣でこうして支えてくれるから——どんな時だって、前を見ていられる。
くるみがいるから、守るべき大切な存在ができたから。
誰かに与えられた借り物の夢に傾倒するばかりじゃない、人生の本当の指針を見つけることができた。
父は明るくにこやかに目を細める。
「よかったよ。君たちなら今後もこうして、支えあっていけそうだね」
それから、碧とくるみを順番に目でなぞる。
「ふたりは喧嘩をしたことはあるかい?」
「喧嘩……いえ。碧くんとは普段から細かに対話を重ねていますし、仮に意見がすれ違うシーンがあったとしても、互いに冷静に耳を傾け、自分の悪いところを認め改善することができる関係でいられると思っています」
「同じく」
くるみの発言に、碧も頷く。
「そうか。ならもうふたりで話しているかも知れないけれど、一緒にいる時間が長くなれば、嫌なところも見えてくるものだ。それは仲の善し悪し関係なく、どんなカップルにも等しく訪れるもので、大事なのはそれをどう乗りこえるかだと思っている」
父の言うとおりだ。
家族の数だけ常識はあるし、物の価値観も金銭感覚も、もしかするとこれまで係った人間のカテゴリーさえ違う。
自分以外の人間と暮らすということは、どれだけ相手に譲歩できるかのラインを探る必要がある、ということ。現時点まで一緒にいてくるみの嫌なところに目がついたことはほとんどないので、その点では碧と彼女の感覚はかなり似たほうと言える。
とても幸福なことだろう。
父は余裕ある大人の口調で、なだらかに語る。
「今後もし喧嘩をすることがあっても、思い遣りを忘れないで、きちんと話しあって解決するんだよ。そうすれば私たち夫婦のように、どんなに離れていても互いを尊重できる、そんな関係になれるかもしれないからね」
ひやかしじゃないから、素直に頷けた。
「うん。……分かってる」
いずれは本当にそうなれたら、どんなにいいだろう。
際限なく、いつまでも仲睦まじく、互いの価値観を重んじ、暮らしていけたら。
ただ碧の信念を貫くとなると日本を離れる時期が遠くない将来に待っている。ゆえに、今すぐに確固たる約束をすることはできないし、理想ばかりで現実味を帯びてすらいないが、いずれ……いずれ時が来たら、きちんと言いたい。
世界一幸福な愛の言葉を————。
くるみもそうなりたいと思ってくれているだろうか、と思わず彼女をうかがう。
彼女はぷるぷると、肩を震わせていた。
「くるみ?」
〈夫婦のように〉と、言われたのが間違いなく取っ掛かりだろう。ぶり返した羞恥で爆発寸前といった風情に瞳を潤ませながら、同じくこちらを見上げる。
ぱち、と視線が交錯。そのまま、見詰めあう——と呼べるだけの秒数をキープできずにそっと瞳を伏せてしまうので、やはり相当に恥ずかしいようだった。
いじらしいリアクションを見てしまったせいで、こちらも彼女に帯びた熱が伝染ったようにわずかな火照りを覚えたが、なんとか優しく提案をする。
「……時期が近づいたら、一緒にルールとか決めておこうか」
くるみがこくんと頷くのを確認していると、一連のながれをにこにこ見ていた千萩が椅子から立ち上がり、キッチンから何か持ってきた。
「Vati……Bier」
「おーありがとう千萩。ふたりの将来をお祝いってことかい?」
テーブルの角できゅぽんと開栓をした父は、いつになく表情が分かりやすい。
親心子知らず、と日本じゃ言うようにその思索の何もかもを知るのは難しいが、一緒に生きたいと思える大事な相手が息子にできたことは、父にとってはそれなりに嬉しいことに分類されるらしい。
しゅわしゅわと泡立つビールを瓶の半分ほど注ぎ、残りをこちらに渡してくる。
「この銘柄あんまり苦くないやつだけど、碧も半分いる?」
「まだ昼なんだけど?」
「昼だからだよ。明日には響かないし」
その誘いがくるみにも掛かる。
「くるみさんは?」
「え?」
お酒の話ということで、蚊帳の外を決めこんでいたくるみは目を瞬かせた。
「ドイツじゃ、高校生でもお酒がOKなんだよ。法律はその国々、郷にはいっては郷に従えって言うからね。せっかくだし挑戦してみるかい?」
「嫌です。お断りです」
「碧じゃなくてくるみさんに聞いてるんだけどなあ」
本人の代わりに即答し、父を苦笑させる。
くるみは以前、数粒のウイスキーチョコだけで酔ったことがある。
あの時は本当に参った。酔ったくるみは、もはや危険物と言っても差し支えないだろう。法律が許しているとはいえ、あの反則技を次から次へと出してくる甘えんぼさんが爆誕することを考えると、とてもじゃないが酒はお勧めできるものではない。酒はのんでも呑まれるな、だ。
けれど——法律が許すからこそ、くるみがチャレンジしたいと言うのであれば、碧はその初めての挑戦をそばで見守る。何より本人の意思が大事だと思うから。
くるみは眉を八の字に下げながら躊躇いがちに問う。
「……本当にいいんでしょうか? 日本に帰ってから警察に掴まったりしませんか?」
「あ。それはぜったいないから大丈夫」
仮にそうなら今頃碧も刑務所のなかなのだ。
父が補足する。
「酔うんじゃないかってところも、心配しなくても味見くらいなら酔うことはないしぜんぜん平気だよ。これは度数も低いし僕も保護者としてちゃんと監督してるから。もちろんむりにとは言わないからね」
むむっと唸っているのは、本気で逡巡しているのだろう。どうも長年染みついた常識と自律心がストップを掛けているらしい。
でも旺盛な好奇心は、日本で生きていればあと三年は早いお酒の味を知りたがっているように見えたので、碧も後押しする。
「悪いことしてる気持ちになるなら、そうじゃないってことの証明のために僕も一緒につきあうよ?」
「……いいの?」
「うんうん」
それで、決心がついたようだ。
まるで世紀の大泥棒になることを誓うように答える。
「……こういうのも外国でしか味わえないことですもんね。じゃあ、ほんのちょっとだけいいですか? あっあの、本当にちょこっとだけで大丈夫ですので」
かくして雀の涙のような量を注がれたグラスが、ふたりの前に出された。
「じゃあ改めて」
「かんぱーい!」
からん、ちりんと、ジョッキが控えめに鳴る。
碧はくるみのリアクションが見たいので、自分のには手をつけずに隣に目をやる。
おちょこ並みに少量のビールを、まるで戦に赴く少女戦士のような勇ましい表情で見下ろしていたくるみは、やがて覚悟を決めて一口舐めるように口に含み——それから戦慄した。
「どうかな?」
「……うう」
「駄目みたいだね」
もう感想を聞くまでもなく、表情と涙目がむりだと訴えていた。
くるみは好き嫌いがほとんどなく、辛みも苦味も常識の範疇なら大丈夫なのだが、大人の階段を登るのには早かったらしい。
漢方薬のように時間をかけて呑み下して、まだほのかに眉根を寄せながら言う。
「思ったよりは苦くなかったんですが、びりびりして……これが大人の味なんです?」
「やっぱ駄目か」
「そうだね。大人にとってはその喉ごしがいいんだけどね」
好みかどうかで言えば、やはり回答は芳しくなかったようだ。
というかそもそも彼女は炭酸が苦手だったはず。だからビールも駄目だったのだろう。
——二人とも成人したら、うちで一緒にお酒開けようと思ってたけど……
度数で言えばハードルは高いが、次のときはワインのほうがいいかもしれない。
父が水の注がれたグラスを差し出す。
「まだ未成年だから、お酒の味を覚えるのはゆっくりでいいよ」
「口直しはジュースにしとこうか?」
確かりんご味が冷えていたはずだ。まだ十三歳の千萩も、お酒は駄目だからジュースを注いでいる。
碧が立ち上がりダイニングを離れようとするも、その間にもくるみはもう一口だけちびりとビールを舐めては、目をぎゅむっと閉じてふるりと肩を竦めていた。
「むりしないでいいんだからね?」
心配になって尋ねると、くるみはいつもより幼稚で苦い表情のままこちらを見る。
ヘーゼルの瞳はつやを帯びて潤んでいて、そこだけがやけに色っぽい。
「……だって」
「はいはい?」
「碧くんが知ってるお酒の味、わたしも一緒に知りたかったから……」
きょとんとして、数秒立ち尽くした碧。
すたすた早足で引き返すと、柔らかな亜麻色の髪をわしゃわしゃとなでた。
「……Verbergen der eigenen Verlegenheit (照れ隠し)」
「Sag das nicht.(言うな)」
妹がぼそっとドイツ語で言うので思わず言い返してしまったのだが、何を言っているのか分かるくるみには筒抜けで、苦味が抜けたようにほんのり嬉しそうにしていた。




