第246話 アルバムは君の足跡(2)
「お姉ちゃんたちアルバム見てたの? そしたら……こっちも見たらどう?」
リビングでごろごろしていた妹に裏切られた。
「これ……うちのホームビデオ。お母さんが日本で撮った。お兄ちゃんの映像」
千萩はテレビボードの下に並んだ透明のディスクケースを取り出した。
ふっと埃を払って見せてきた表紙には、西暦で開始と終了の年月がペンで書かれている。収録されているビデオの、撮影された日時だろう。
きっかけはくるみが「アルバムの碧くん可愛かったなあ」とぽろっと喋ってしまったせい。おかげで静止画にとどまらず、動画という名の危ない橋を渡る羽目になりそうになったのだ。
勿論、拒否権はある。
「あのな千萩。くるみさんもそんなの見たくないと思うぞ。だよね? くるみ」
「お兄ちゃんはお姉ちゃんが押せばころっと落ちる。そこで例のおねだりをすべき」
くるみは祈りを捧げるシスターのように両手を組んで、控えめな上目遣いで、一言。
「碧くん。私は見たいな……駄目?」
「いいです……」
勝ち目が見えないので唯々諾々とばかりに速攻降伏すると、千萩とくるみがにこにこと目配せした。
どうやらこのふたりはいつのまにか同盟を結託していたらしい。
兄貴としては肩身が狭いが、そもそもくるみだって、どこでそんな破壊力のあるおねだりを覚えてきたんだと思う。他の人なら狙ってやっているに違いない、というような可愛らしい仕草と言動を自覚なく仕掛けてくるのがくるみの恐ろしいところだが、これに至ってはわざとだろう。今の会話からして千萩が吹きこんだに違いない。
ディスクのケースをはいっと渡してきた妹は、いそいそと上着を羽織った。
「……じゃあ千萩は今から、学校のともだちと約束があるから」
「え? どこ行くんだよ」
「アンナちゃんの家が、ヨークシャーテリアの赤ちゃんを譲ってもらったらしいから、見に行くの。お兄ちゃん鍵かけておいてね」
千萩が階段を降りる振動ののち、門から自転車を押し出す音もやがて聞こえなくなった。
取り計らったように二人きりにされるので、ため息と共に鍵をかけて、リビングに戻る。
くるみはわくわくと、期待の乗ったまなざしを見せてくれた。
「じゃあ……見るのはいいけど、この一枚だけね」
「他のはだめなの?」
「これだけでも結構な時間があるから、他のもながすと日が暮れる」
もちろん半分は言い訳だ。これぜんぶを見せられるなんてたまったもんじゃない。
気乗りしないなか、プレーヤーにDVDが吸いこまれ、映像が再生される。
ぱっと初めに映ったのは、初めての七五三だった。
袴を着た黒髪の幼い少年が、お寺の中門の前で千歳あめをぶんぶん振り回している。
さらにあちこちをねずみのようにちょこまか走り回るのだが、案の定親に叱られていた。
くるみは目を丸くしていた。
「写真じゃ分からなかったけれど、碧くんってこんなに腕白だったの」
「だから見せたくなかったんだよ……」
ひどく落ち着いた今の自分しか知らない人間からしたら、こんなやんちゃで自我まるだしの子供は想像もつかないだろう。
「可愛いのに?」
「女子の言う可愛いって、なんかあれじゃん。ほら……」
「言葉本来の意味じゃなくて、広義において好ましいもの全般に言う表現ってこと?」
「そうそれ」
「大丈夫。碧くんは本当の可愛いだから」
「それはそれとして彼氏としては、複雑なんですよいろいろと」
言葉の節々に愛情が滲んでいるのが分かるからいいが、そうでなければ頬の一つや二つをつねっていた。
シーンが切り替わり、次は年少時代の運動会。
徒競走ならぬ駆けっこで、いきようようと順調にトップを走っていた碧。
だったのだが——ゴールテープまであと三歩というところで、足が縺れて、べしゃっと転んだ。
おそらく撮影者である母の「あらあらあら」という笑い混じりの嘆きのなか、あっと言う間に他の子に追い抜かれ、泣きべそをかきながらびりっけつでゴール。
幼稚園の先生になぐさめられるのも虚しく、腕で目を擦りながらとてとてまっすぐカメラに向かって歩いてくる。
画面が一瞬ぐらりと揺れた——のは、カメラを父と交代したかららしい。ぐずぐず泣いているのを、今よりずっと若い母によしよしされる情けない自分がフレームインする。
「ふ。ふふ……」
くるみは肩をぷるぷる震わせていた。
げんなりした碧は、ソファに寄りかかったまま坐った目で彼女を見遣る。
「そんな笑わなくてもよくない?」
「というかっ……ふふふ。可愛いんですもの。この子が将来こんなに格好いい男の子になるなんて。今の碧くんを、昔の碧くんに見せてあげたいくらい」
「……そう」
とつぜん挟まれた賞賛に、ちょっと照れた碧はまんざらでもなくそれだけ返す。
湊斗には散々「楪さんには本当お前ちょろくなるよな」と言われてるが、言葉一つで続行を許してしまうのだから、本当に自分はくるみには甘いのだろう。
さて、続いての公開処刑は、家の外でのワンシーンのようだ。
マイバッグにお財布とメモを持たされた碧が、母に「ちゃんとお買い物できそう?」と問われている。大きく「うん」と返事をしてから家を飛び出していくのを、カメラが後ろからこっそり追いかける。
いわゆる〈初めてのおつかい〉というやつらしい。
おそらく撮影者は、バレないように他人になりすました父だろう。
独りきりで挑戦する自分を励ますためか、小さな碧はへんてこな歌を口遊みながら赴いたスーパーマーケットで見知らぬおじさんに挨拶。店員さんにメモを渡して買うものを揃えて、お財布ごと渡してお会計してもらう——まではよかったのだが。
その帰り、坂道で一休みした瞬間たゆんだマイバッグからじゃが芋をうっかり転がすというお約束をやらかしていた。——うん、我ながらぜったいやると思った。
「……! ……!」
くるみが笑いをこらえてソファをぽふんぽふんと叩いている。
ちょっとひどくない?
笑われっぱなしでこっちがむっすり黙りっぱなしなことに気づいてか、目尻に浮いた涙をかろうじて指で拭いながら、くるみがテレビを指差す。
「あっほら。今度はみんなで家族旅行みたい」
しぶしぶ見ると、雲ひとつない青空のもとに青々とした初夏の牧場が映っていた。
この頃になるともう千萩も生まれているらしく、ベビーカーを父が押して、母がビデオを回している。
ポニーに跨ってお散歩したり、うさぎとふれあったり、アルパカに水菜をあげたりと、碧はいたくはしゃぎ回っている。それを両親はおっとり見守っていて。
何もかもが順調な旅行を見て「そういえば」と碧は気がついた。
どこかの研究結果によると、人間というものは、幸せなことより嫌な出来事のほうを長く覚えてしまいがちらしい。そして碧は、この日のことはなぜか記憶に残っている。
それらから推論される答え。思うにものすごく嫌な思い出があったはずだが——
くるみが困ったように笑った。
「確かこのあとは山羊におどかされて、ソフトクリーム落としちゃうんでしょう?」
「……え? なんでくるみがそれ知ってるの?」
聞き捨てならない発言に咄嗟に聞き返せば、くるみがぴたりと動かなくなった。
「あ」
テレビに目をやる。
映像のなかの自分も、くるみの予言どおり買ったばかりのアイスをコーンごと落として泣いていた。しかも前日の雨で出来た水たまりに尻もちまでついて、泥んこまみれ。
いったんビデオを一時停止して、しらー……っとした目で彼女を見る。
ぷいっと気まずそうに目が逸らされた。
「くるみさん」
「はっ。はい。何でしょうか」
「誰から聞いたのかな?」
「え。えーと……誰だったかしら」
曖昧に笑みを浮かべて、ぜったいにこちらを見ようとしないくるみは、あくまで秘密にするつもりのようだ。まあ母か千萩のどちらかだろうが、もしかしたら口止めをされているのかもしれない。ということはまたもや碧に内緒で結託をして、ある事ない事吹きこまれているということだ。
「へー? ふーん? 言わないんだ?」
と、怪しく口角を持ち上げながら碧は、ソファから身をするりと床へすべらせると、獲物を追い詰める虎のようにじっくりくるみににじり寄る。
「え……あっ碧くん? 何する気?」
くるみはあくまで笑んだままだが、表情からは少しずつ余裕が失われて、代わりに焦りが追加される。床にぺたんと座ったまま上体だけが後退って、肩がこつんとテーブルにぶつかった。
碧は逃げ惑うウサギのようなその様子を意味ありげに観察しながら、隙を見て腕を引き、自分の胡座のうえに抱き寄せる。呆気なく捕らわれたくるみが、何かを察したようにこちらを見上げた。
「あおくんちょっと待って——これには深い理由がっ」
「とか言いつつ、初めっから分かってて動画見ていたのはずるいんじゃないかなあ?」
指の腹ですーっと、優しくお腹をなぞりあげる。
それだけで、ひゃっと可愛らしい息を洩らしながら、くるみは大きく体を揺らした。
「ほら誰から何を聞いたのか。早く言わなくていいの?」
「だ。だって。言ったら碧くんが見せてくれないと思ってっ……」
「言い訳する悪い子にはこうだ」
そのまま横っ腹にて本格派のこちょこちょを開始すると、くるみはたちまち耳まで真っ赤になって、切れ切れにか細い息を洩らした。
「ひゃあっ……ま。待ってく……っ」
もちろんくすぐりが苦手なのは周知の事実なので、ソフトタッチでかなり手心は加えているのだが、それでも耐え難いらしく声を上擦らせるくるみ。
体を捩り、時折びくっと震わせながら、くすぐりの波が去るのを健気に耐えている様子なので、恋人同士ただの戯れあいのつもりでもこっちが悪者のような気がしてきた。
これでも決着がつかないかと、動かすゆびさきを、なめらかな曲線を描く細い腰まですべらせれば、くるみがやっと根を上げた。
「っふ……ふふっ碧く……待って——こうさん! 降参しまっ……ふふふ!」
最後まで言えていないが、可哀想なのとリアクションがちょっと後ろめたいのもあり、すぐ解放してやる。くるみは細い息を整えたあと、潤びた涙目でこちらを睨んできた。
「あ……あおくんのばか。いじわる。こんなのってあんまりだと思う」
昇った血を反映して真っ赤に染まり切った頬が、健全な男子高校生の目にはなんだかすごく悪い。
「なら最初から言えばよかったじゃん……」
「だってだって。聞いていたシーンが動画に収められてるなんて思わなかったし。それに、私が喋っちゃったせいで、ルカさんと碧くんが喧嘩して友情が揺らいだらと思うと、私どうすればいいのか分からないじゃない」
「ルカ? 犯人はあいつか!」
そういえば母親がこっちに来た時、その時のことを笑い話としていろんな人に喋っていた記憶が、遥か古にあるような、ないような。
勝手なことをした母およびルカに情状酌量の余地はないから、二人とも今度会ったらただじゃ済まないことにして。
何はともあれ、このまま黙って引き下がるわけにはいかない。
「僕も、なんだか昔のくるみが懐かしくなってきちゃったなあ」
遠回しに、腕を組んで見せた。
やや拗ねた風なくるみが、つんと眦を吊り上げながら、警戒心を隠すことなく聞き返す。
「私のホームビデオも見せなさいってこと? ……碧くんがくすぐるから嫌」
「ううん。僕は映像じゃなくて、本物のくるみがいい」
「どういうことなの?」
「出会ったころみたいな、ツンツンしてるくるみが見たい」
「え?」
きょとんとするくるみに、大真面目に碧は提案する。
「当時は気づかなかったけれどさ、あれ実ははりねずみみたいでむっちゃ可愛いのではと思ってる。だからその説を、今立証したい」
くるみは初め、結構刺々しかった。
妖精姫が投げかける淡い笑みは、本人曰く〈鎧〉でありだ。
だとすれば、刺々しい言動は、くるみの世界に一歩踏みこんできた碧にしか見せないひとときの隙のようなもので。
今でこそ同一人物とは思えないくらいすっかり碧大好きっ子になっているが、だからこそ、前者がときに懐かしく、そして振り返れば猛烈に愛おしく思える。
しかし力説も及ばず、返事はけんもほろろだ。
「そんなの嫌。しません」
「でも降参したんでしょ?」
「……」
言い返せなくなってきたくるみが、黙って頬に風船をふくらますので、碧は「ごめん」と笑った。
「ただ懐かしいなって思って。僕が見せたんだからくるみも見せてようやく対等でしょ」
押しに押されて困り切ったように眉を下げたくるみは、打つ手なしのため息をついた。
「もう。本当にちょっとだけ、なんだからね」
お許しが出たのでわくわくと見守る碧。何を言おうかしばし考えつつ沈思していたくるみは、ようやく定まったのか、余命宣告する時のような深刻な表情で捲し立てた。
「えっと……あ、あおくんてば」
「はい」
「こんなにやんちゃなんて……えと……信じられない? そう、信じられないわ」
「はい」
「ほんとに参っちゃう。えっとえっと。ばか……あほ?」
「なんか下手になってない?」
思わず突っこめば、くるみもそれは自覚があるのか、言い終えるに従っておたおたしていたのが余計に加速した。
「下手なんて言われても、分かんないもん」
「……そうだよね。ごめんね。困らせること言った」
細やかな仕返しとしてはもう十分だろう。
今度はくすぐるつもりではなく、懐抱するつもりでくるみを優しく腕で包んだ。そのまま一糸の縺れも絡まりもない亜麻色の絹束に掌をすべらせる。
「なでてご機嫌取りしてる。……まんまと取られてるからべつにいいけど」
「自覚してるの笑う。じゃあ大人しく機嫌取られていてください」
「次いじわるしたら碧くんのお父様に相談して、ホームビデオ全巻借りちゃうからね」
「ごめんごめん。それはよしてください」
そのまま頬のなめらかなラインを指の関節でなでる。
「……昔のも可愛いけどやっぱり僕、寂しがりやで甘えんぼな今のくるみが一番いいな」
ぽつりと小さく笑むと、くるみも蜂蜜とクリームを綯い交ぜにしたようにとろけきった眼差しをこちらに注ぎ、幸せそうな笑みを咲かせた。




