第245話 アルバムは君の足跡(1)
二日目は、時差ぼけのせいだろう。
暁を覚えない春眠を好きなだけ貪り尽くし、ようやく目覚めたのは、自動で現地時刻を表示してくれたスマホによると、間もなく正午という時刻だった。
寝ている間に蹴飛ばしたのか、踵の下にわだかまったブランケットを広げて折りたたむ。カーテンと窓を開けて、まだ厳しい冬の残滓がある春風と日差しを家のなかに取りこんだ。
やや気怠さが残るのはこんな時間まで寝すぎたせいか、この二年で慣れたいつものベッドと違うせいか。
「おはよ」
「……お兄ちゃんおはよ」
寝巻きのスウェットのままリビングに出てくると、千萩がソファでテレビを見ていた。
その隣にはくるみもちょこんとお行儀よく座っていて、再放送のドラマ——もちろん字幕なしの独語版だ——を物珍しそうに見いっている。
くるみは自分より少し早く目覚めることができたらしい。キッチンの洗いかごにはパン皿が二枚、まだ水気を纏って立ててある。
なら僕のことも呼んでくれてもよかったのに、なんて終わった午前を惜しみつつ、彼女ともおはようの挨拶を交わす。それから碧はグラスにミネラルウォーターを注いだ。
「千萩、学校は?」
「一昨日から春休み」
「あ、そっか」
まだ寝ぼけていたなと思いながら、水をごくごく呷り、すすいでからかごに伏せる。
歓迎は日曜日に持ち越しとなったことで、昨日はいつもの素朴な食事ののちに、バスタブないしシャワーを案内して、そのまま就寝となった。
うちはユニットバス。リフォームのおかげで洗い場はあるとはいえ、トイレとは一枚の硝子で仕切られている。
ちゃんと清潔にしているとは言え、日本育ちの女子は嫌かも知れないと危ぶまれたけど、文句は出なかったどころか「本物の海外の家!」といたく喜んでいたので、案外すんなり受け容れてくれたようだ。
「お兄ちゃんたちは、今日はなにか予定あるの?」
「ううん。一日ゆっくりしようと思ってた。春休みの宿題もあるし」
こんな時間に目覚めた時点で当たり前だが、今日はとくにやることはない。空路は西回りで時差の影響はそれほどとはいえ、長旅疲れが溜まっているのもある。
なので、到着から数日間は予定を入れず一日家でまったりしようと思っていた。
本当は早速くるみをあちこち連れて回っていろんなものを見せたいが、二週間も滞在するのだから焦っては勿体ない。碧にとっては住み慣れた家の中でさえ、くるみにとっては初めての驚きでいっぱいなのだから。
「日本の学生さん、たいへん……」
「千萩も一年後には、立派な日本の高校生さんなんだぞ」
「……やっぱりやめようかな」
「本気か。お兄ちゃんあんだけ勉強教えてやったのに本気なのか」
「じゃぱにーず・じょーく」
「その調子なら友達づくりのほうは大丈夫そうだな」
春休みの宿題は、くるみと一緒に進めようと約束している。
ふたりがテレビを観ているなら自分は持参した参考書でも向こうで解いているか、と廊下を引き返すと、誰かが後をついてくる気配がした。
振り返ると案の定、亜麻色の髪の少女がおずおずとこちらをうかがっている。
まだうちに来たばかりで、ぴったり腰を落ち着けるところが定まらないというか、そわそわと寛げていない様子だ。
それでもリラックスしようと努めたつもりなのか、ヘアピンで上げた前髪と、めくれて見える丸みを帯びた白い額が愛おしい。
「ドラマは見なくていいの?」
「……碧くんと一緒にいたいから」
「そっか。……じゃあ、こっちおいでよ」
いじらしい発言にぐっときたものの、何でもない風をよそおって、くるみを招きいれた。
椅子代わりになりそうな家具はベッドくらいしかないが、それに座らせるのも何となく気が引けた。お尻をいためないように一番ふかふかしてそうなクッションを貸す。
「好きに寛いでいいからね」
と言っても、そのへん父親により勝手に搬入された荷物だらけだけど。
掃除は行き届いているようで埃っぽさはないものの、やはり最低限の家具がないというだけで物寂しい空間だ。ただそのおかげで、くるみの華やかさが引き立っている。
「くるみはどっか行ってみたいところある?」
二人とも落ち着いたところで、まずは今後の予定を立ててみることに。
始まったばかりの二週間のスケジュールは空白のまま。
これから如何ようにも好きに塗って、埋めていくことができる。
「って言っても、何があるかとかはあんま分かんないか」
「……私は碧くんと一緒なら、どこでだって最高のデートになると思ってるわ」
「すぐそうやって可愛いこと言う……」
「かっ。かわ」
くるみは眉を下げた。
「でも嘘じゃないからね?」
「分かってるよ。とりあえずいきなり大きな目的地は決めないで、近所の街とか散歩してみようか」
やりたいことはいっぱいある。
育った故郷としてくるみを案内して、父親に二人暮らしの正式な挨拶をして、ここでの友達とも会って、もちろん海外旅行の一番たのしいことをいろいろ教えて……。
同時に受験勉強もスタートさせなければならず、やることは山積み。くるみは千萩とも仲を深めたいだろうし、春休みじゃ時間はぜんぜん足りないくらいだ。
「くるみも見知らぬ街を探索とかしてみたいでしょ?」
「信号のデザインとか、ポストのかたちとか見てみたいなって思ってた」
「目のつけどころが素朴なのがくるみらしいというか」
雑誌に載るような派手なロケーションに行かずとも、街の散策にも大きな旅の醍醐味を見出しているらしい。なんというか、とても彼女らしい嗜好だなぁと碧はほのぼのした。
「そうだ。出かけるならさ」
碧が思い出したように言った。
「ついでに一つおねがいがあるんだけどいい?」
「おねがい? あの碧くんが私におねがい事……!?」
「そこはかとなくワクワクしてるのには突っこまないけど。千萩、高校受験のためにここ最近ずっとがんばっててさ。折角だし何かやる気の出るもの買ってやろうと思ってたから、一緒に選んでくれると嬉しい。くるみってそういうセンスもあるし」
「ふふ。妹想いのいいお兄ちゃんね」
「別にそんなんじゃないよ」
気恥ずかしくてつい否定するが、くるみはますます優しく目を細めて、たのしそうに喉を鳴らす。
「褒めてるんだから素直に『そうだよ』って言えばいいのに。けど、そういうことならおやすいごようだわ。ちなみにその日は何時にお出かけする予定?」
「んー……くるみも折角だし、どっかカフェとか寄ってみたいよね? したら午前中の、お昼前くらいに家出よっか」
「了解。それなら髪とか服とか、今日の夜のうちにどうするか考えなきゃ」
「別にそのままで十分可愛いんじゃ?」
「……もう。私は外にいく時はちゃんとしたよそ行きの格好で出たい派なの。碧くんも、隣を歩く彼女は可愛いほうがいいでしょう?」
「お洒落をしてようがなんだろうが、僕の彼女は世界一可愛い」
「も……もう」
ぽすんぽすんと、細い肩で和やかな体当たりをされた。
「まあ、分からなくもないけどね。乙女心だもんな」
本当はたとえくるみが寝ぐせつけて半目でぽけーっとしたとて、というかゆるゆるだからこそ、普段のしっかり者のくるみとのギャップがあって余計に可愛い存在だと即座に断言できるくらいには、自分のなかでくるみの魅力は揺るぎない。……のだが、それを言えばただでさえ照れた彼女がますます赤くなってしまいそうだから黙っておいた。
「じゃあ次のお出かけは決まって、とりあえず今日はお家でのんびりってことで。なにか見たいものある?」
ただ座っているのも退屈だろう、と尋ねてみると、宙をふわふわしていたくるみの視線が、小さな本棚に定められた。
窓から差しこむのどかな日差しが何もないフローリングへ伸び、その本棚まで届いている。ぜんぶで三段あるそこには、当時のままに本がまばらに並んでいた。
「碧くんがドイツで暮らしていた時の蔵書……とか? 私さっきから気になってたの」
「期待しているところ悪いけれど、そんなすごいものはないよ? 日本から取り寄せた本が大半だし。あとは語学習得のために買った教本と原語の小説が何冊かと、学校の教科書くらいじゃないかな」
そんな説明をくるみはふんふんと曖昧に聞きながら、棚のすみっこに並べられた、やけに大きくて分厚い本を見つめている。
「これはなに?」
「ん? 何だろう」
ぱっと見で覚えがなかったので、何冊か並んでいるうちの一番左を手に取る。
中に何かたくさんの紙が挟まっているらしく、本はまるで寒さを凌ぐシベリアの先住民族みたいに、やや末広がりに着ぶくれている。その正体は表紙を見ればすぐに分かった。
何となく何処からか警鐘が聞こえる、気がする。
「僕の昔のアルバムだ。…………仕舞っていい?」
ぷるぷると首が振られる。
「見たいの?」
こくこくと頷かれた。
というわけでアルバムは為す術なくくるみの手に渡ったのだが——
「わあ。可愛い」
物心つく前のあれやこれやが出てきて、碧は思わず目を覆った。
おしゃぶりを咥えている一歳くらいの子供が、カーペットの上を四つん這いではいはいしている。横に手書きでメモされた日時は千萩の生年月日より前だ。つまり、この見慣れない赤子は自分なのだった。
どんな写真が貼られているか分からないので、断るべきだったが、後の祭りで。
「あんま見ないでよ……」
「今度は碧くんに私のアルバム見せてあげるから」
「好きなだけどうぞ」
とんでもないカードを切られては、掌返しするしかなかった。幼い時のくるみなんか、さぞ天使のように可愛らしいに違いない。
「あ。見て見て。これも碧くん?」
細い指がページを捲れば、次は若干成長した自分が現れる。メモによると二歳らしい。
「そうみたいだね……」
「この時のこと覚えてる?」
「写真残ってることまで覚えてたら、とっくにこのアルバムを焚書してこの世から葬ってました」
さっきより髪もしっかり生え揃った子供は、ちんまりとキッズチェアにお座りして、生まれたてのようにきらきらした目でぬいぐるみを抱えている。今の自分には逆立ちしたって出来ないピュアそのものな表情だ。
さらに女物のよだれかけだったり猫の着ぐるみを着せられていたりと目も当てられない。
許可を出したとはいえ、いつまでこの拷問が続くんだろう……と碧は気が遠くなった。
「可愛いー……」
くるみは飛行機に乗っていた時並みに、いやそれ以上に写真に釘づけになっている。
「碧くん。よく女の子に間違われてたでしょう?」
「うんとは言いたくないけれど……うん」
「ふふ。やっぱり!」
くるみは言い当てて嬉しそうだが、こっちは何も嬉しくはない。
さっきの女物のよだれかけも、見ているうちにじわじわ思い出したのだが……聞くところによると、母の友人から女の子と間違えられてプレゼントされたらしいのだ。
今となっては大の男に成長した碧にしたら笑い事じゃない。
麦わら帽子をかぶりながらショベルを片手に砂浜でお城を建てているシーンやら、葡萄狩りで口のまわりを紫にしているシーンやらがわんさか出てきて、ようやく一冊目が終了。
ぱたん、と空気を押し出してアルバムが閉じられ、これでおしまいかと思いきや、くるみはまだ止めるつもりはないらしい。また別の一冊に手が伸ばされた。
「こっちは学校の卒業アルバム?」
「えー。まだ見るの?」
「だってここじゃないと出来ないことの一つでしょう?」
「しょうがないなあ……」
碧は、くるみからの押しには断れなかった。
「ドイツは卒業アルバムがないんだよ。だからそれは卒業というか、毎年学校が販売してる写真のアルバムかな」
緑の冊子を開くと、ドイツに移住してからの学校の写真が並んでいた。
これは、日本で言う中学生あたりだろう。さきほどの写真よりも一気に時が飛んだらしく、大きく成長していた。
どの写真も、誰かしらの友人と一緒に写っている。
交友関係を築くのに足踏みをしないから、友達はかなり多かったほうだ。
ただ、この時にはすでに幼い頃のむじゃきなかんじはなく、表情にやや愁いのようなものが滲んでいて、我ながら複雑というか自己憐憫というか、何とも言い難い気持ちになる。
それに気づいているだろうくるみは、とくにふれることなく言う。
「学校なのに制服じゃないんだ」
「だいたいの国は学校でも私服なんだよ。日本が珍しい」
「そっかあ。……あ。この服」
何かに気づいたように、指を差す。
「もしかして、前に私に貸してくれたパーカーと同じ?」
「え? あー言われてみれば確かに」
黒いパーカーを着て、街角でルカと悪ふざけしている写真が残っていた。
何やってるんだかと思うが、残念なことに当時のことは何も記憶にない。
でもくるみとのことは一瞬一瞬が、はっきり刻まれている。確かに、彼女に一度貸したパーカーはこれで間違いないはず。
「大雨降って、うちに泊まった時のだよね。去年の夏だからまだつき合う前のことか」
ついでに、ぶかぶかの袖を垂らしてはしゃいでいたあどけないくるみを思い出し、
耳を熱くさせながらそっと目を逸らす。
「でも最近はあんまり着ていないね?」
「体が大きくなって着れなくなってきたんだよね」
「私にはぶかぶかだったのに」
「男と女はそりゃ、体格違うもん。よかったら日本帰ったらあげようか? もう着ないし」
「え」
冗談半分で言うと、ばっと腕が掴まれた。
一度投げた発言は撤回させないとばかりに、真剣な表情でこちらを見上げてくる。
「じゃあ貰う!」
「ど……どうぞ」
「返してって言ってももう返品は受けつけないけどいいの?」
「う、うん。そんなアウトレットセールみたいな。まあお好きにしてもらっていいけど。服一枚でそこまで喜ぶことなの?」
碧が言いづらいことをさらっと尋ねると、くるみが赤くなって身じろぎした。
「……だって碧くんの……その、匂いが」
「え」
「ううん! あとサイズも男の人だなあってなるし」
「ここに本物いるのになぁ」
「そっそれはちょっと致死量すぎるっていうか!」
「致死量」
「碧くんそのものはちょっと私にはドキドキしすぎて、落ち着かない時があるってこと!」
「乙女心は難解だなあ」
でも逆に考えてみれば、碧もくるみが抱き締めてきて、彼女特有のあの甘く女の子らしい清潔な匂いに包まれたら興奮しないほうがむりだと言いたい。
だから、やっぱり少しは理解できた。
「……でも本当に。お父様も仰っていたけれど、こうしてみると碧くんずいぶん立派になったね」
子供を優しくあやす母のような、こそばゆい視線が、こちらのあたまをなでた。
こうして昔の自分と見比べられるのもやや気恥ずかしいが、実際に白い手まで伸びてきて、もふもふと宥めるように髪を梳ってくる。
手つきが妙に繊細なのは、さっきの子供時代のアルバムが自分の未熟さを暴露したせいか。ヘーゼルの瞳のおくには愛おしさがぎゅっと詰めこまれていて、気恥ずかしさとこのまま身を預けたい感覚が同居する。
「ふふ。いい子いい子」
「どうして笑ってるのさ」
「碧くんがこうして大きくなってくれたことが私にとって、嬉しいだけ」
「なぜ親目線」
「ふふ……なんでかな?」
優しい声がとろりと蜜のようにとろけて、耳に染みていく。
「甘えていいよ」
「……うん」
お言葉に甘え、華奢なのに包みこむような温もりのある体を抱き寄せる。
くらくらと立ち昇る昨夜のシャンプーの残り香と、首筋に香る甘くて清楚な匂いをいっぱいに嗅ぎ取った。




