第244話 飛行機とベルリン(3)
しばらく車を北に走らせ、建物をちらほら見かけるようになったあたりにある街角が、ドイツでの碧の家だ。
クリームソーダみたいに淡い黄昏に染まる街で、アカシアの街路樹の手前で停車すると、父はさきにトランクから荷物を下ろし始めた。
外をうかがうと、一年生の冬休み振りとはいえやはり懐かしい。カラフルに塗られた集合住宅が立ち並んだうちの三番目。優しいオレンジの外壁をした建物の三階に我が家はある。
ここは昔のヴィンテージの建物をリフォームしたものなので、ところどころに古さが残っている。確か浅く見積もっても築百年はあったはずだ。
碧も車のドアを開けて、くるみに手を貸しつつ歩道へ降り立つ。
人が暮らし、生きている街の風にようやく初めてさらされ、くるみは遠くを見透すようにあちらこちらの建物を見詰めていた。
今彼女が何を考えているか、碧は十年前の自分と照らしあわせながら想像する。
「こういうところは初めてかい?」
キャリーの持ち手を伸ばしながら、父が穏やかに訊く。
「はい。なんだか映画みたいだなって思いまして」
「あはは。移住した初日の碧と同じようなこと言ってるな」
「そりゃ日本で暮らしてたら、こんな家なかなか見れないもん」
くるみの見上げた視線のさきを追う。
アーチを描く窓に、洒落た柵のちんまりしたベランダ。そこにはパンジーの鉢植えが吊り下がっている。いかにもヨーロピアンな風情の建築様式である。
海外旅行をしたって大抵は、寝泊まりするのはホテル。現地で暮らす人間の家に上がることなんか、人生でそうそうあるものじゃないだろう。
「階段狭いから気をつけてね」
エレベーターはないので、くるみのキャリーは父が代わりに持ってやり、お礼を言いつつ借りてきた猫のようにかしこまっている彼女の後を、碧が着いていく。猫の額のようなフロアに辿り着くと、ふたつあるうちの表札もない右の扉に鍵を差しこみドアを開けた。
とたんにばたばた慌ただしい足音がして……
「Willkommen Schwester!」
と、くるみより一回り小さい女の子が、彼女に飛びついてきた。
「わっ千萩ちゃん。えっと……Das ist schon eine Weile her?」
「お姉ちゃん……ドイツ語上手なってる!」
「千萩ちゃんも上手。日本の高校で国語のテスト一番になれちゃうね」
「やったー!」
再会してすぐのスキンシップには戸惑いつつも、くるみも嬉しそうで、あやすように千萩の髪を撫でつける。
父が宥めるように言った。
「ほら千萩。お姉ちゃんは長旅でお疲れなんだからあんまりべたべたしないこと」
碧も妹を覗きこんで笑う。
「千萩、半年ひさしぶり。お兄ちゃんには挨拶はないのか?」
「Ich stehe ständig in Kontakt mit Ihnen.(お兄ちゃんとはしょっちゅう連絡してるもん)Haben Sie die neueste Ausgabe des Buches erhalten, um das ich gebeten hatte?(頼んでいた本の最新刊、買ってきてくれた?)」
「おっと。そんなこともあったようななかったような」
千萩のつぶらな瞳がむっとする。
「嘘だよ嘘。ちゃんと買ってきたから心配するな」
「Wirklich!?」
「それよりお客様の案内がさきだよ。千萩はこれをリビングに持ってって。それと、あとでお姉ちゃんにルームツアーをしてくれるかな?」
「Verstanden」
父のクラッチバッグを受け取った千萩がリビングにてとてと戻っていき、残ったくるみが躊躇いがちに尋ねる。
「……あの、靴はそのままがこの国の常識でしょうか?」
「あ。今スリッパ出すよ。靴を脱ぐかどうかはもう家によるってかんじかな。昔に比べて今じゃだいぶ脱ぐ家が多いけれど。靴箱はそこにあるからね。狭いけどゆっくりしてね」
「いえそんな。おじゃまします」
律儀にぺこりと会釈をしてから、くるみが靴を脱いで家に上がる。
「まずは荷解きしなきゃね。空き部屋あるから案内するよ」
「ありがとうございます」
彼女に続いて足を踏みいれたところ、通りすがりにちらっと見えたリビングは、模様替えをしたのか、前回の訪問とはやや違っていた。
モザイクタイルのテーブルにこぢんまりしたソファは昔のまま。それらのほとんどは日本からの持ちこみでなく、現地の古物市で買い揃えたものだ。古い木の食器棚だけは、ご近所さんから譲ってもらった。なぜ持ってこなかったかというと、船舶での運搬をするより現地で買ったほうがはるかに安上がりだからだ。
懐かしいなと思う間も与えず、父はすたこらさっさと廊下の突き当たりへ。
宛てがわれたのは、余ったベッドルームだ。
母やほたるが遊びに来た時など、主に来客のための空間で、普段は物おきになっていたはずなのだが、それらは綺麗さっぱり撤去されている。
「ここはくるみさんが好きにしていいよ。掃除はしておいたけれど、気づいたことがあったら何でも言ってね。じゃあ私は晩ごはんの支度をしてくるから。……と言っても、パンを焼いてサラダを盛りつけるだけだけど」
「私もお手伝いします」
「ありがとう。でも疲れてるだろうし気持ちだけ貰っておくよ。荷物も片さないとだし、しばらくゆっくりしてからいらっしゃい。碧もね」
「うん」
やはり父親の前では聞き分けのいい子でいようとしていたらしく、彼が戻っていくのを見届けてから、くるみがへにゃりと相好を崩した。
「碧くん。同じ家で二週間いっしょだね」
「父さんと千萩も一緒だけどな」
照れ隠しにわざと要らんことを言ったつもりだったが、くるみは気にせずに、淡い笑みと共に頷く。
「うん……それが嬉しい。家族に交ぜていただけたみたいで」
「そっか。でもきっと父さんも千萩も、それと同じこと思ってるはずだよ。だから本物の実家みたいに思ってくれていいから——」
「碧くんは?」
上目遣いでくるみがささやく。
「碧くんは私のことそういうふうに、思ってくれてる?」
「あはは。一年間も一緒にいて今さら? 家族みたいに大事だなんてそんなのとっくの昔から思って……ってなになに」
くるみがべちんべちんと腕に罪と罰をお見舞いしてくるので、困惑ながらに見ると、彼女はなぜか真っ赤になっていた。
くすぐったい程度なので子供を見守るつもりでされるがままにしていると、やがて猛攻を終えたくるみは、扉の後ろにさっと逃げ、身を潜ませながらこちらをうかがう。
「私から訊いておいてなんだけどこの回答は予想しなかったわ」
「え?」
「……週明けにでもルカさんの家に行って、碧くんをこういうふうにした責任をとってもらわないと」
「なんであいつが責任?」
「ストレートの投げかたしか教えなかった監督の責任、です」
拗ねたような甘えたような響きでそう言うなり、くるみは照れた表情を隠すためか、ぱたむと扉と閉じてしまう。
残された碧は、ひとり首を傾げるのだった。
ちなみに物おきの荷物はぜんぶ、碧のところに押しつけられていた。




