第243話 飛行機とベルリン(2)
ありふれた表現だが、家を出た時にはすでに旅は始まっている。
それはとくに、海外旅行においては顕著だと思う。
いよいよ飛行機に乗りこむと、まだ日本の大地を離れてもいないのに、言いようのない高揚にようやく旅の始まりが現実味を帯びるのだ。
「座席についたら、必要な荷物だけ出して。大きい鞄は上げちゃうから」
「うん」
航空券に印字されている座席を確認。手の届く碧が、荷物を代わりに上の棚に載せてやり、さきに座るように促す。
「窓側を予約してたから。くるみどうぞ」
「え。いいの?」
頷くと、瞳をぱあっと輝かせて、すっかり窓に張りついてしまった。
本当にはしゃいでいるときは幼さがよく滲み出る。普段は落ち着いているから余計に、高校生らしいあどけなさの残る眼差しと美貌でその喜びかたをされると、庇護欲をそそられて仕方がない。
あと、飛行機はすぐに走りだすわけじゃない。しばらくは離陸の順番待ちをするので、あんまりそっぽを向かれてはつまらない。
ただ窓にやきもち焼くのも大人気ないので、彼氏の余裕を発揮しつつ、座席のポケットに刺さっていた雑誌をぱらぱら捲って見守ることに。
ぽーん、と柔らかなメロディと共にシートベルトのランプが点灯する。
〈Good morning ladies and gentlemen, Welcome on board……〉
キャビンアテンダントによる挨拶のアナウンスが、英語で放送された。
機内安全のビデオが放送されて、さらにしばらく待つと、エンジンがいよいよという唸りを上げて機体が速力を上げる。
くるみが声を潜めながら、成績学年一位の優秀な語彙力はどこにいったんだと言いたくなる実況解説をしてくれる。
「走った!」
旅が始まるなかで一番わくわくする瞬間だと、碧も思う。
やがて機体はますます速度を獲得。
ふわりと体が浮くような、妙に重力がかかるような感覚のなか、みるみるうちに空港が遠ざかり豆粒のようになっていく。くるみは初めて外に出た子猫のように、光を帯びたきらきらした瞳で見つめていた。
民家や都会のビルがミニチュアのおもちゃのようになった頃、柔らかな亜麻色の髪をひるがえして興奮気味に語る。
「わあ……すごい。ふわって浮いた!」
「浮いたね」
「二回目なのにぜんぜん慣れない。すごい!」
「うん。すごいね」
思わずこちらまで童心を取り戻すような感動の表情は、ひどく和むものだ。
「遊園地のジェットコースターもこんなかんじなの?」
「え? どうだろう。飛行機は回転したり落っこちたりしないからなあ……たぶん」
「たぶん」
きゅっと袖が握られ、高揚によるきらきらが七十%まで萎んでしまう。
怖がらせるつもりは一切なかったので、ごめんごめんと謝罪した。
「今のは言葉の綾というか。大丈夫だよ落ちないから。あっほら、僕たちの街はあのへんじゃない?」
「……もう高度上がりすぎて、日本列島の地図を見ているみたい」
川はマーカーで引いた線のように細く、まっすぐ走ったり絡まって折れたりする道路はボールペンの線のようで、にょきにょき生えてるビルもどんぐりの背比べ。
さらに上昇を続けて、雲の遥か上空となると、日本そのものも見えなくなり、渡り鳥の一羽もいない寂しい空の世界となる。
だが遠くの海と空が曖昧に青くとけあう様子は何度見ても美しく、その後もくるみは窓の景色に釘づけだ。
やがてフライトが軌道に乗ると、シートベルトの点灯が消える。
さて、ここからは十時間をゆうに越える長い空の旅。
スリッパを出したり、貸し出しのブランケットを広げたり。座席を居心地のいいようにセットしたりしながらくるみがきょろきょろする。
「なんだか……思ったよりも狭いのね。この飛行機の座席」
「ってことは、前回はもしかしてビジネスクラスだった?」
「ええ。父は『初めて乗るなら記念に折角だからファーストにしなさい』って言ってたけど。お金も勿体ないし断ったわ。兄には、どうしても直角の椅子じゃ辛いからって説得されて一緒にビジネスにしたんだけど」
「……おお。やっぱすごいな楪家の会話」
彼女の父兄の、庶民から遠い感覚に戦慄していると、どちらかといえば自分たちと近いまともな金銭感覚の持ち主であるくるみはこちらの気持ちに同情してくれたか、やや苦笑を見せながら聞いた。
「私は今のところここでも大丈夫そう。碧くんはどうなの?」
「ビジネスクラスなんか考えたこともないな。こういう狭い席でも爆睡できるタイプだし」
「家のリビングでも、椅子に座ったまま時々寝てるものね。私が『風邪ひくからベッド行きなさい』って言わないと、寝言一ついわないくらいに。もうぐっすりと」
「アイマスクと耳栓をするともう、誰かに揺すられないとおきなくなります」
「ここだと目覚ましかけられないから、必要なら私が後でおこしてあげるね」
ゆったりお喋りするなどして離陸して一時間ほどすると、ごうごうと高速で風切る音にも耳が慣れ、食事のメニューが配られた。
くるみも予習の成果と日頃からの優秀な成績のおかげもあって、こういう時の定番でもある『Beaf or Fish?』の会話のみならず、ドリンクのオーダーも動揺ひとつなく難なくクリアし、運ばれてきたハンバーグと魚のフライをそれぞれ頂く。
その後、暇つぶしの基本はお喋りだ。
たとえばこんな会話をした。
「ねえ碧くん?」
「ん?」
「くるみって十回言ってみて」
「ピザじゃなくて?」
「うん」
「くるみくるみくるみくるみくるみ————はい十回」
「…………」
「照れるのかよ。そして引っかけは何もないんですか」
とくに有意義さを伴うお喋りとはお世辞とも言えないが、やっぱり好きな人と一緒に他愛もないことを話せるのは、嬉しい。くるみも飛行機の狭っくるしい座席ひとつに「碧くんとこんなに近い」なんてはしゃいではツーショットの写真をたくさん撮ったり、名前を呼ばれて気恥ずかしそうにしたり。ころころした表情が愛おしくて可愛くて、十数時間はあっという間に過ぎそうだ。
その後はイヤホンで日本未上映の映画——もちろん字幕なしの英語バージョンしかないのでリスニングの力が試される——を再生。海外暮らししていた男と、高校英語ならばっちこいな学年首席の才女なので、ここもふたりとも問題なく観賞できていた。時々出てくるスラングは、訳してあげれば問題ない。
やがて日が暮れると機内は明かりが絞られ、ブランケットに包まったくるみは糸が切れたように、こちらに寄りかかりながら眠り始めた。
*
そうして十数時間かけて、とうとうブランデンブルク国際空港に到着した。
ロビーの窓から臨める空はちょうど、夕暮れ時。体の感覚で言えばとっくに真夜中だけど、時差のせいで一日が妙に長い。
さらに乗り継ぎやら座りっぱなしやらで体が岩のようにがちごちになっていたので、伸びをしてほぐしているのだが、そのあいだもくるみの高揚は止むことがなかった。まるで初めて遊園地に来た子供を眺める親の気持ちである。
「ここが碧くんの育った街……」
「っていってもここは郊外にある空港だから。家はもうちょっと街に近いほうだよ」
市内へは、車かエアポート・エクスプレスで三十分ほど。
今回はありがたいことに、父が車で迎えに来てくれることになっていた。
案内板やらインフォメーションやらをくるみはきょろきょろ見渡す。
「本当に日本語がひとつも見当たらない。ドイツ語の勉強しておいてよかった」
「もうわりと読めるんだもんな。これはお株を奪われたかなぁ」
ぶんぶん首を振られた。
「まだ分かりやすい単語しか読めないし、会話もまだぜんぜん出来ないもの。碧くんが分かりやすい単語だけでゆっくり喋ってくれたなら理解できるくらい。だから引き続き、案内はお任せしました」
「はい。任されました」
いつもとはあべこべなやり取りをし、二人してふふっと笑う。
その後は入国審査をし、コンベアで運ばれてくるキャリーを受け取る。
こうなるともうすっかり自由。エントランスを出て、ひさしぶりに外のきれいな空気——日本とはどこか違う懐かしい外国の空気を深呼吸してから、父が迎えに来てくれている車寄せへ。
他の送迎車やタクシーが延々と連なるなか、その最後尾に父の愛車は見つかった。
「父さん」
ドアをこんこん叩いて呼びかけると、こちらに気がついた父は窓を下げる。
おくに父の懐かしい目を見て、あぁ帰ってきたんだなぁと、ようやく実感が湧いた。
「おー碧。久しぶりだね。遠いところはるばるご苦労様」
「うん。トランクに荷物積んでくる」
そう言い残して窓を離れると、父が運転席から降りる音が聞こえる。
持ち上げた荷物がふわっと重さを失くしたと思えば、父が手を貸してくれていた。
全て積み終えると、丸眼鏡のむこうの静かな目が、すぐそこで仕事がなく居たたまれなさそうだったくるみを見つける。
「こんにちは。くるみさんだね。初めまして。碧の父です」
二人して第一の挨拶は、さすが折り目正しく。
「初めまして。お誘いくださりありがとうございます。今日からしばらくの間、お世話になります。それと碧くんには、いつもお世話になっています」
「謙遜しなくてもいいんだよ。くるみさんがお世話するほうっていうのは聞いているから」
「父さん」
「まあ二人とも上手くやってたそうだし。二人で協力してるって僕は思ってるからね」
にこにこ朗らかに笑う父を見て、ぱちくりヘーゼルの瞳を瞬かせている。
この様子から察するに、琴乃のような人間を想像していたら、全く違ったのが出てきて予想外……といったところか。
父は、世界中を旅していたバックパッカーという経歴のほかは至ってふつうの常識人。実はこう見えて貿易会社勤めで、ドイツに移住したのも仕事の都合だ。
母がいる時とは違い、今回の旅行は和やかな日々になりそうだなと思った。
「ごめんね。僕もさっき仕事を終えたばかりだから、くるみさんを歓迎するにも、まだなにも準備できていないんだよ」
後ろの席にふたりで乗りこむ。ウィンカーを出し、ギアを切り替えて発車してから、バックミラーに映る父が申し訳なさそうに言った。
「いえ……とんでもないです。その、こうしてご挨拶させていただけただけでありがたいことですので、どうかお構いなく。……」
くるみは緊張で、なかなか言葉が出てこないようだった。
でも、碧の家族と打ち解けたい、仲よくなりたいという思いだけは、言葉の節々から滲み出ていて、碧はとても温かい気持ちになる。
「いやいや。せっかく挨拶に来てくれたんだからおもてなしはしないと。明日の土曜日はちょっと用事があるのと、明後日なら僕は仕事が休みだから、その日のお昼に改めて歓迎でもいいかな? 料理は出来ないからちょっといいものを買ってきて。くるみさんはどんなものが好きなのかい?」
「え? 好きと言われると……。でも苦手なものはないです」
「本当かい? なら何でもいろいろ買ってこれるね。千萩も家でくるみさんの到着を今か今かと待っているから、ぜひ会ったら可愛がってあげてくれると嬉しいな」
「は……はい! 千萩ちゃんと会うの、私もすごくたのしみにしてました」
「よかった。妹と喋るためにドイツ語覚えてくれたんだって聞いて、すごく嬉しかったんだ。あの子人見知りだけど、くるみさんには殊の外懐いてたって妻が言っていてね——」
さすが、自分に血を分けた人間というか。人と打ち解けるのは、父は大得意だ。
枯れ木に灰を撒いたように、みるみる話に花が咲いていく。
くるみのかたくなだった表情がほろりと解れていく。
自分がくるみの両親に挨拶しに行った時とは違い、こっちは全く問題なさそうだな、と碧は頬を弛めて、車窓の外を眺めた。
名前十回のシーンが個人的お気に入りです。
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