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第242話 飛行機とベルリン(1)




 長かった冬が終わり、暦は春となった。


 模試や二学期の試験も終え、志望大学に対し学力に見劣りがないことを証明して見せた碧は、順調な心持ちのまま春休みを迎えた。


 穏やかでいられるのは、柏ヶ丘高校は二年から三年へ進級する際にクラス替えはない、ということも手伝っているだろう。二年からの文理選択ですでに学習内容は定められているからだ。おかげでくるみと学校でも一緒の授業を引き続き受けることができる。これは受験の士気に大きく関わってくることだ。


 そして——これは新学期を控える長い休みが始まってまだ二日目の、三月下旬のこと。


 ふたりの目標が、叶う日が来た。


『ただいまからイスタンブール行き七八七便のご搭乗手続きを開始します——』


 聞こえるのは、高く響くアナウンスと、キャリーバッグを転がす音。


 ところは、東京の玄関口である羽田空港。


 同棲を始めるにあたっての自分の父親への挨拶——言わんや、くるみとずっと前から約束していた〈一緒に海外旅行に行く〉がようやく達成する日が来たのだ。


「おねがいします」


 碧が慣れた様子で、パスポートとEチケットの控えを差し出す。


 一緒に二つのキャリーバッグも渡して、名前と座席番号の印刷された航空券を引き換えに受け取ると、チェックインカウンターを離れた。


「持ちこみの荷物はちゃんとこっちに移しているよね?」


「家を出る前に確認したからだいじょうぶ。あと、ありがとう荷物……」


「こんくらい良い良い。じゃあそのへん散歩でもしようか。空港限定のお土産とか見たいでしょ?」


「うん!」


 旅慣れていないくるみを連れていることもあり、時間にはかなり余裕を持って行動している。大きい荷物もなくなったので、くるみたっての希望もあって、搭乗口に行く前に空港を探検することに。


 碧の見送りとオーストラリアへの旅立ちも含め、人生で三回目だという空港にほのかに高揚している様子のくるみに温かな眼差しを注ぎながら、小さな手を優しく握り直す。


 くるみが座席まで持ちこむ荷物は小さなボストンに詰めているのだが、身嗜みのグッズやらで碧のよりやや重量がある。なので代わりに担いでやるのだが、親しき中にも礼儀ありと言わんばかりのお礼と共に、花咲くような笑みがふわりと綻ぶ。


 善行とも呼べぬ、こちらの自己満足ひとつでこの笑みが貰えるのなら、四六時中おぶってやってもいいと不埒なことを考えたのは内緒にしておいた。


「そういえば、あとで母さんが見送りに来てくれるってさ」


 お土産の販売しているフロアへ上るエスカレーターに乗ると、一段高いところにいるくるみが、色素の薄い瞳を瞬かせた。


「お母様が? お仕事たいへんなんじゃ?」


「ぜんぜん気は遣わなくていいよ。むしろあっちが『私も二人暮らしおめでとう言いたいわ』って今日、休みを取ってまで予定空けてきたんだから」


「碧くんはお母様に、すごく愛されているのね」


「百%くるみ狙いだと思うけどなぁ」


 母はほんわかした人間に見えて、部下を管理する編集長という仕事柄、結構シビアに人を見る。


 そんな彼女がくるみを気にいったのは、可愛らしさと人柄のよさ、そして素直さが高評価の決め手となったからに他ならない。


 本人は自覚してないのか、謙虚に首を振るのだが。


「そんなことは。お母様も一緒にドイツに来れたらよかったんだけどね」


「社会人は忙しいもんなぁ」


「残念……」


「でもいたらうるさくなるからいいよ、来なくて。だって『あらあらあらあら(ラブラブねえ二人とも)』とか言われたくないでしょ」


「それお母様の真似? ふ、ふふっ。似てる」


 壺にはまったらしいくるみが、手で口許を隠してしまう。


 そして、息子のお嫁さんにぜひ……と腹に一物抱えているようなので、マイペースに関係を構築したい碧からすれば、いないほうが助かるのだった。


 いつものように碧に鞄を奪われて手持ちぶさたなのか、くるみはひとしきりおかしそうに笑うと、つないでいないほうの手で、パーカーの紐をくるりくるりと指に巻きつける。


 ちなみにボトムスは、締めつけのないジョガーパンツだ。上と同じオールホワイトのセットアップ。十二時間以上乗る飛行機のなかで一夜を明かすので、なるべくゆったりリラックスし易い格好がいいという碧のアドバイスをしっかり真面目に聞いたゆえの服装。だけどまるでお忍びで海外旅行するアイドルかなにかのように決まっているのは、持ち前の美貌の凄まじさゆえか。


 何着ても可愛いんだから、そりゃあ母も着せ替え人形にさせたがるはず。うちにはよく母から『くるみちゃんに似合うと思って買った服♡』というだいぶ恥ずかしい品名で、宅配便の荷物が届くのだ。くるみが喜んでいるので、第三者の碧から文句は出ない。


 まあ、僕が一番着てほしいのは別にあるけれど……なんて浮かれた想念は時間がいくらあっても足りないので止め、小さくて繊細な手を握り直す。


 そうしてしばらく空港を散策し、忘れないうちに予約していたWi-Fi(外を歩くときに必要だからだ)を借りたり、円をユーロに両替したりして時間を潰す。


 そうしてあとは母が見送りに来るのを待つだけ、といったところでくるみがささやくように言った。


「外国、分からないことたくさんあるから、碧くんが教えてね」


「それは承知だけど……オーストラリアに来た時はどうしてたの? お兄さんと」


「手続きも案内もぜーんぶお任せしてたからどうだったのかよく分からない。それに碧くんに会いに行くことしか考えてなかったし、なるべく多くの初めてを碧くんとの旅行のために取っておきたかったから……」


 空いた人差し指で、今度は垂らした横髪を弄りながら、一言一言拙い口調で碧への想いを語ってくれるのが、あまりに可愛すぎて。


 今すぐここでハグしたいのを、手を上げ下げして葛藤していると——


あらあらあらあら(可愛いわねえ)


 すぐそこから聞き覚えのありすぎる声がして、二人はがちんと金縛りにあった。


「あいかわらず仲睦まじくてよいことね。ふふふふ」


「え。母さん。もう来たの」


「時間がたつのを忘れるほどラブラブしてたってことかしら? もういい時間よ?」


「こ……琴乃さんおひさしぶりです」


「そんな他人みたいな呼びかたじゃなくてお母さんって呼んでいいのよくるみちゃん?」


 一体どこから見ていたんだ、と聞くのも恐ろしいが兎に角、見送りに来た母がいつもの日本たんぽぽの笑みを浮かべて立っていた。


 片手を頬におっとりと宛てがいながらも、目をほんわり細めつつ、真逆にのんびりした口調で母は言う。


「あなたたちいつも距離が近いから、遠くからでもすぐにわかっちゃうわ。あーうちの息子達だわって」


 なんだかばつが悪くなり、頬が赤らびたくるみと碧は手をつないだまま、五センチずつ距離を取る。


 それでも離れたのは合計で十センチなので、あまり意味はないのだが。


 初心な二人を眺めて、琴乃は底知れない笑みを浮かべる。


「そういえば、あなたたちがおつき合い始めてから会うのは初めてよね? キャンプの時からまるで恋人同士みたいだと思っていたけれど……こうして見ると今はふう——」


「それより見送りに来たんでしょ。他に何か言うべきことあるんじゃないの?」


 碧が咄嗟に口を挟んだので、既のところでそのさきは、くるみに聞かれずに済んだ。


 伊達に歳取ってない母は、それでも調子を崩されずにのんびり尋ねる。


「はいはい。ふたりとも忘れ物してない?  パスポートにお財布に両替したユーロに、それから——ほらほらくるみちゃん。ハンカチは持った?」


「あっ。はい。持ってますちゃんと」


 くるみはポケットから、自分とお揃いの小さなハンカチを慌てて取り出して見せた。


 いつも碧の世話を焼いてくるほうで、誰かに心配をされるのは慣れていないのか、母の優しい目にもちょっとたじろぎ気味だ。


「ふふ。よかった。碧もいつもお世話になりっぱなしなのだし、くるみちゃんは海外慣れていないんだから、きちんとこまめに様子を見て気に掛けてあげるのよ?」


「分かってる分かってるから」


「だって大事なことじゃない? それに——」


 碧とくるみをじっと見つめて、少し悪戯っぽくウインクする。


「くるみちゃんがうちの子と暮らすんだと思うと、色々言いたくなっちゃうのよねえ。親心として」


「えっ……?」


 意表を突かれたくるみは、母のおかしな発言のせいで混乱の魔法をかけられたらしく、まだ完全には理解していない様子で、頬を淡く染めている。


「そりゃ暮らすけれどまだ一年以上もさきの話だし。あんまくるみのこと困らすなよ」


 くるみが初心(うぶ)なのをいいことに、確実にからかいにきている母から気遣うように言い返すと、のれんに腕押しとはまさにこのこと——といった反応が戻ってくる。


「まあまあ。そんなに怒らないの。くるみちゃんは、ちゃんと分かってくれてると思うけど?」


 母はたんぽぽ畑に苦よもぎを寄せ植えしたような視線を向けて、柔らかく口角を上げる。


 ちなみに、苦よもぎの花言葉は〈冗談〉や〈からかい〉などである。


「ね。くるみちゃん?」


「……は……はい……」


 さしものくるみも母が何を言いたいのか察知したらしく、返事にデクレッシェンドをかけながら、恥じらいに瞳をすっかり伏せてしまった。


 しかしそのいじらしさが逆に母を喜ばせてしまったらしい。


「うふふふふ。そんな照れなくてもいいのよ? この子は見てのとおり、ちゃんとしてないところがいっぱいあるけど……」


 わざとらしくこちらをちらっと見る。


「私の旦那に似て、すっごく頼りになる子だから。ね?」


「それ、貶されてる気がするな」


「手放しの賞賛に決まってるじゃない。私の息子だもの」


 さらっと言ったあと、改めてくるみに向き直る。


「くるみちゃん。どうかよろしくおねがいしますね。こういう機会、人生に何度あるかも分からないし、そうでなくても一緒にいられる貴重な時間だから。大事にしてあげてね」


 それが、大学卒業後の息子の進路を分かっての発言だからだろう。


 くるみも表情に残った恥じらいの残滓を、なんとか柔らかな笑みで上書きして答えた。


「……はい。いい思い出をたくさんつくってきます」


「まあ。いいお返事!  そうしたらもう何も言うことはないわね。じゃあ、あとはお父さんにバトンタッチね」


 母はにっこり笑って腕時計を確認する。


「ほら。そろそろ行かないと、飛行機に遅れちゃうわよ」


「……最後までマイペースというか。じゃあ、母さん、行ってくるよ」


 荷物をよっと持ち直して、手を振った。


「いってらっしゃい。ドイツでもふたり仲良くね!」


 何だか名残惜しくて、ロビーに遠ざかる母を、二人は何度も振り返って、また手を振り返した。


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