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第241話 自分の気持ち 誰かの気持ち(3)


 正直、まだ気持ちの整理がついたわけじゃなかった。


 その証拠に、ドアの前に戻り押し開けようと手をそえて一瞬、躊躇してしまう。


 扉に嵌めこまれた硝子には、重たい瞳をした自分が映っていたから。


 いくら何でも、こんな分かりやすい表情で戻るわけにいくまい。一度小さく深呼吸をし、迷いを振り払ってから静かに銅のベルをからんと鳴らす。


 二月の冬の寒さとは縁のない空間のそのおくで、大人しく待ってくれていたくるみが、華奢な肩にかかったつややかな栗毛をたわませながらゆっくりと振り返った。


「おかえりなさい」


 帰りをよほど、待ち焦がれていたらしい。


 陽だまりのように優しくて、あどけなくて、雪に跳ね返った光のようにちょっぴり眩しいくらいに透きとおった笑み。


 この数分間で何があったのか知らない純真な表情に、目を細めた。


 くるみがいつもどおりでいることが、ひどく有り難いことに思える。紬がまだ戻っていないことにも、助かった気持ちだった。


「うん。ただいま」


「凪咲さんにきちんと渡せた?」


「うん。渡せた」


 最低限の返事だけをした。


 とりあえずカウンターに戻り、フラスコやら豆缶の後片づけをする。仕事じまいのために手早く終わらせ、彼女のいる席に近寄ると、くるみは不思議そうにしていた。


「……あのさ」


 言わなければいけないことは確かにあるはず。


 なのに口を開いたとたん、彼女のコーヒーカップの底に残った模様だとか、喫茶の前を寄りそって歩くカップルのシルエットだとか、有線放送でながれる名作洋画のテーマソングだとか、どうでもいいことに気が散ってしまう。


 それがここに居ない凪咲の尊厳をさらに傷つけてしまうからなのか、今こんなに幸せそうにしているくるみの心を揺さぶってしまうからなのか。比重こそ違えど、多分どっちもだ。


「くるみはさ」


 自分を急かすように口を開きかけ、


「いや……やっぱ何でもない」


 すぐに引っこめた。


 常に誰かに想いを寄せられているくるみがお断りをするときはどうしているんだろうなんて、それと自分を照らしあわせたって、何もいいことはない。


 だけど一度は切り出しかけた事で、鎖が巻きついたようだった舌は、さっきよりはうまく言葉を紡いでくれそうだった。なるべく重たい話にならないよう、普段の調子で言う。


「実はちょっと報告があるんだけど」


 ——告白されたということ。それは当事者の二人以外の誰にでも手渡していい話では決してないが、とはいえ本命の恋人にまで隠すことでもないし、そもそも隠すという行為自体、ある種の後ろめたさを前提にしているものだ。くるみにしたら裏切りになるかもしれない事柄でもあるのだから、なおさら。


「……さっきなんだけど、ちょっと外で」


 だから正直に言おうとして、口を開いて——しかしそれが、こちらの袖をきゅっと指先で引いてきた彼女によって止められる。


「え。くるみ?」


 引っぱられ、成り行きで屈んだ碧の頬に、そっと口づけて柔らかな感覚を残してきたくるみ。恥ずかしがりやの彼女が自分から——というのは珍しい。それも聞き上手で、人の話を途中でさえぎることなど、決してしない彼女が。


 へなっと眉を下げたくるみは、はにかみながらそっと離れると、鞄から何かをおもむろに取り出した。


「碧くん。これ」


 小さな四角い木箱だった。それを、両手でそっと手渡してくる。


 凪咲とはまた違う、これまたいつもの彼女のトレードマークである染みこむような甘さを伴った柔和な笑みのまま、彼女はどこまでも深い優しさを瞳に宿していた。


「一緒にたべよ?」


 その発言の示すとおり、あるいはバレンタインという日が示すとおり、箱の中身はお菓子のようだった。


 わざわざこちらの言葉を止めてきたくるみの言動に小さな驚きを示しながら、差し出された箱を受け取った。


 さほど重さをかんじないその箱には、チョコレートカラーのリボンが斜めに掛けられており、ふたに透明のアクリルが嵌められている。


 中で、まるで大事に揃えられた宝石のコレクションのようにお行儀よくぴったりと並んでいたのは、様々なクッキーだった。


 一番上にはお品書きらしく、いろいろな種類のクッキーの名前が手書きで記されたリーフレットが挟まれており、その箱の名刺となっている。


 チョコチップのカントリークッキー、檸檬のアイシングがかかったラングドシャ、ショコラオランジュ風味のサブレ。お砂糖をまぶしたホワイトチョコのフロマージュクッキーに、木の実の香ばしいビスキュイ・アマンド、雪玉のようなブールドネージュ……。


 味はチョコレート系統が多いようだけど、そのほかにもいろんな種類のものが詰め込まれていて、それぞれの味の説明からどんな銘柄の紅茶にあうかまで、丸みを帯びた綺麗な文字で綴られている。


 半ば呆け我を忘れたまま、それら文字を全て読み終えて、再びくるみを見る。


 こちらを見守るような表情はふわふわとして、凪いで、ささくれの一つも見られない。


「どうして?」


 と、碧は訊いた。もちろん、これをくれた理由を尋ねているのではない。


「碧くんとの、ずっと思い出に残るバレンタインにしたかったから」


 くるみは三日月のように、穏やかに目を細めたまま答えた。


 何となくその言葉が、今の自分にぴったりと嵌った気がした。分厚い雲の切れ目から、光が差した気がした。しばし瞑目して、誰に言うわけでもなく呟く。


「……そうだよな」


 文化祭の前に交わした言葉がまた、記憶の上澄みへ浮かび上がってくる。


『だから、碧くんはずっと私だけ見ていてね。……他の子に目移りなんか、しないでね』


 心配していたくるみに、約束をしたのだ。


 ——好きになって大事にするのは、今後ずっとくるみだけだよ。


 さっき何があったか、推測はできても、くるみはやはり知らない。だけどきっと何ヶ月も前に交わした約束があったから、今こうして碧を信じて、そのうえで何も聞かないという選択をしているのだと、ようやく気づいた。人生に一度しかない十七歳のバレンタインで、二人だけの貴重なひと時を過ごすことを一番に選んでくれているのだと。


 それに気づいたとたん、ようやく二人の間に、いつもの温かく甘い空気が戻ってきたように思えた。というか、自分が勝手に思い詰めていただけだが——とにかく涙が滲むほどほっとした碧は気持ちを切り替え、彼女からの愛情の結晶に掛け値なしの賞賛を送る。


「にしてもすげえというか……今回のもぜんぶ手づくりってことだよね?」


「勿論。味も碧くんの好みに寄せてるからね?」


「がんばったんだな。見て分かるよ。ありがとう」


「うん。碧くん喜ぶといいなって思いながら、いっぱいがんばっちゃった」


 よしよしと頭を撫でると、くるみは気持ちよさそうに目を細め、喉をか細く鳴らす。まるで、べたべたに懐いた猫をあやしているようだ。


「偉い偉い。もう上がりだから、着替えてきたら一緒にたべよっか。僕の今日の賄いは、それにあう紅茶だ」


「ここってお紅茶も出してるの?」


「まあいちおう。くるみほど銘柄に拘ってるわけじゃないけど。マスターは珈琲推しだから、それ以外のドリンクの注文来ると複雑そうにするんだよな」


「ふふ、おいしいもんね。私もちょっぴりコーヒー派になっちゃいそう。ここって豆の量り売りもしているみたいだし買って帰ろうかな」


 くるみは立ち上がり、空席が並んだカウンターに寄ると、そのおくを眺めた。


 棚に並んだ豆缶の下には、小さくグラムごとの価格が記載されている。うちの味を気にいったくれた人が「この豆はどこで買えるの?」と訊いてくることがあるらしく、そんなお客さんに販売するためだという。


 二人だけの空間、二人だけの時間。カフェタイムのラストオーダーの時間は過ぎていたから、表の札は〈CLOSED〉に裏返してきた。バータイムが始まるまで余裕があるので、バイトを終わればこの席をもうしばらく借りよう。


 この愛情たっぷりの缶詰を、晩ごはんの後に先延ばしにするのは待ちきれないから。


「あ。そうそう。僕からもいいかな」


 カウンターに戻る直前、くるみが一番気にしていたことを思い出した。


 むろん、こちらからの贈り物だ。


 ヘーゼルの瞳をぱちくりしつつもどこか期待をはらんだ様子のくるみに、碧は勿体ぶってこう言った。


「目ぇ瞑って」


 くるみはほんのりと赤みを頬に帯びさせると、妙に大人しくこくりと頷いた。


 言うとおりにふわりと睫毛を伏せて、そっと目を閉じる。


 ——あれ?


 と、碧は渡すものをカウンターの下の私物棚から取り出そうとして、手を止めた。


 桜貝のように可憐なくちびるが、ほのかな緊張できゅっと小さく引き結ばれ……「まだかな?」というくすぐったい期待が睫毛の揺れにまで滲んでいる。何か違うものの訪れを待つように。


 ——これもしかして……


 〈僕からも〉というのをどうも、口づけのお返しのことだと思いこんでいるらしい——と気づいた瞬間、可愛さの爆発に呻きそうになってしまった。


 女の子のこの手の間違いを訂正するのはあんまりなのだろうが、可愛いあまりにIQが著しく下がった碧は、その考えに至る前に咄嗟に言ってしまう。


「ええと……キス(そっち)じゃなくて。渡すものがあるって話で」


 数秒の沈黙。ばちっと目を開けたくるみを色づかせる照れゆえのほのかな桃染が、羞恥と気まずさによる真っ赤な紅潮へ。


「あ。あ。あおくんのばか」


 はにかむような、なんとも言えない愛くるしい上目遣いでこちらを睨んでくるのは呆気なく予想がついたのに、碧はそれまでににやけを仕舞いこむことが出来なかった。


「ごめんごめん……これを渡したくて」


 気を取り直して、今日の本命を渡す。


 白い封筒なので一見するとバレンタインらしくはないが、中身はくるみにとって、ちゃんと価値があるものだ。もっと言えば、碧にとってはよく見慣れているが、くるみにとっては物珍しいもの。


「これなに?」


「見てのおたのしみだ。開けてごらん」


 細いゆびさきがおずおず封を剥がし、折りたたまれた紙をそうっと引き出した。


「……あ」


 くるみは左手で口許を隠した。まるで思いがけず誰かに名前を呼ばれたような表情で。


 それから、確かめるように呟く。


「飛行機の……eチケット?」


「ほとんどは友晴さんの力があってこそだけどね」


 むろん、自分のバイト代だけで買える代物ではない。


 まず昨年の楪家訪問の後のことに話が遡るが——碧の家にくるみを連れていくという計画はもちろんくるみのご両親も納得の上で、父の友晴は保護者として、娘の航空券を当たり前のように全額支払おうとしてきた。


 そこで碧はまず、くるみがここ半年このためにがんばってお小遣いを貯めていたこと、それから自分も出来れば力になりたいということを友晴に話した。


 彼にも思うところがあるのだろう。初めは、親として子供に出させるわけには——と渋ったものの、きっかけは自分。最後には碧もすこし手伝うかたちで落ち着いたのだった。


 春休みにと約束していたとはいえ、このくらいの日に行きたいねというざっくりとした会話以外は、詳細を詰めた話はまだ何もしていなかった。


 というより出来なかったのだ。学年末試験も近いということで、二人で連日話しあう時間は取りづらかったので、企画できるところは慣れてる碧が裏で進めていた。


 くるみのゆらゆら揺れる眼差しは、紙に印字されたフライト情報を追っている。


「三月の二十一日……これって」


「出発日」


 期末試験を挟んで、今からおよそ一ヶ月とちょっと後の日づけ。春休みが始まって間もない頃だ。ただじっと待とうとすれば長いけれど、慌ただしい日常を送っていればすぐにやってくる期間。


 それはずっと前から交わしていた、海外旅行の約束の実現。


 茫漠と、まだ遠く先だと思っていた約束が〈現実〉になって今ここにある。


 くるみが夢見るように潤んだ光を宿した瞳をこちらに向けた。


 本当に? と問う瞳だ。


「僕の頬つねってみる?」


「な。なんで碧くんの。そこは私のじゃ」


「だって百%の現実だから」


 結局くるみがこちらの頬を抓ってくることはなく、だけど本当に予想だにしなかったのか、すっかり動揺し切った様子で口をはくはく開閉させる。


「わ、私ずっとお小遣い、貯めてて。これを買うために。だからこんな」


「友晴さんが、お小遣いは二人暮らし始まった時のためにとっておきなさいって。チケットは、春休みの日程が発表されてすぐにもう予約してた。もちろんうちの家族にも連絡済み」


「碧くんのご実家に遊びに行けるまで……本当に、もうあと一歩ってこと?」


「そういうこと。お父さんに感謝だ」


 くるみは一杯いっぱいになった様子で、ふるふると髪を波打たせる。父にだけじゃなく碧にも感謝を、ということだろうが、まだ気持ちに言葉がついてきていないようだ。


「驚いたけれど……そっか……やっと。やっと行けるんだ」


「諸々決まったついでに、このあと必要なものの買い出しに行こうか。フライトの時間も長くなるからいろいろ揃えておいたほうがいいものとかも教えるよ」


 くるみがこくりと頷く。ゆらりと落とされた右手から碧はそっとチケットの控えを受け取り、代わりに自分の指を絡めて握り、語りかけるように優しく言う。


「たのしかったな。今日」


 その握った二つの手の上へ、くるみが左手をさらに包むように重ねてきた。


「お友達といろんなお話出来て、碧くんのバイトしてる格好いいところも見れて、旅行のことも決まって……すごく、すごーくいい一日だった!」


 碧が笑い、くるみがはしゃぐように笑みを輝かせる。二人の間で結んだ手をまるで空高くにタッチするように、わーっと高く掲げた。



 一つの幸せの裏には、哀しいことも寂しいこともたくさんある世の中だけど、誰かにどう想われることを自分で決められないとしても。

 行動と言葉は選べるのだから、せめて自分を信じてくれた彼女に恥じない自分で在りたい。このさき何度でも信じてもらえる自分で在りたい。



 きっとこれからも、物語はどこまでも、続いていくはずだから。


                *


 てっきり眠れぬ夜を迎えるものだと思ったけれど、シャワーを済ませてベッドに沈みこめば、バイトの疲れもありくたくたがどっと押し寄せてきた。案外あっさりと眠りに落ちてしまったあたり、自分もそこまで優しい人間じゃないなと、苦い微睡の縁で思った。


 いつもどおりくるみと待ちあわせして一緒に登校した翌朝。


 やや気怠くも、なるべくいつもどおりに教室の扉を開ければ、凪咲は友達とお喋りをしてあっけらかんと笑っていた。


 驚いて立ち尽くしているこちらに気づくと、ゆさゆさと手を振ってくる。


「あ。秋矢くんたちだ。オハヨー」


「……おはよう」


 昨日までとかわらぬ明るい挨拶。いったい何を言われるかと身構えていたので、碧はやや肩透かしのような気持ちになってしまっていた。


 碧が最後に見た凪咲は涙を浮かべていて、それがかなりの衝撃だったものだから、つい今の今まで、彼女はいまだに引きずり落ちこんだままでいるものだと、勝手に思いこんでいたのだ。


「私は机に行ってるね」


 くるみが言い残し、それから凪咲にぺこりと会釈をしてから離れていってしまった。


 大丈夫なのか分からず引き止めようとしたのだが、すぐに凪咲がお喋りを切り上げて、たったかと机の間を縫ってきた。


 ここでの会話が聞こえない距離で、昨日は学校に来なかったつばめをはじめ他の子と穏やかな表情で挨拶を交わしているくるみを見て、凪咲は心底申し訳なさそうに眉を下げる。


「あの、ごめ……」


「ごめんねとかは要らないですからね。僕も彼女も気にしてないし」


 先読みして制止した碧に凪咲はぽかんと口を開き、それからちょっぴり困ったように、くしゃっとした笑みを浮かべた。


「なんか気にしてないって言われると逆に複雑だけど!」


「気にしてるって言ったら言ったでそっちが気にするくせに」


「まーそうだけど! じゃあ言うべきは、代わりに『ありがとう』だね」


「え?」


 お礼を言われる覚えがなく、思わず聞き返す。


「だから、バイトしてるところに急に押しかけちゃって」


「ああ……うん」


「なんてね。他にもいろいろあるけどここで言ってもしょうがないしさ」


 心配事の大抵は杞憂のまま終了する、と世間では言われている。


 その格言どおり、彼女がすっかり立ち直っていることにはほっと安堵したが、そもそも彼女の〈現在(いま)〉に自分が何か思うこと自体、間違っているような気がする。


 今こうして朗らかさを取り戻しているのは、きっと彼女が一人にしろ友達と一緒にしろ、昨夜家に帰ってから考えを巡らせて、きっとひとしきりまた泣いて、こちらの突きつけた回答を呑みこんだ結果なのだから。


 当の本人が明るく振る舞っていると言うのに、こちらはそこまでギアを上げきれずになあなあなテンションで居ると、凪咲が何の脈絡もなく言った。


「あのね。私、初詣のおみくじの結果なんて気にしてないから!」


「ん? おみくじ?」


「えーそれも覚えてないの? 英語ぺらぺらなのに?」


「それとこれとは違うんですけど」


 なんて言われてもさすがに、日常のちょっとした会話までは覚えていない。


 人の記憶力を頼りにするのは大概にしてほしい、と思いつつ、ここで認めるのも癪なのでむりにでも思い出そうとする。


「ちょっと待って。えーと……あー分かった。恋愛運がどーのこーのっていう」


「そう! 神様だとかなんだとか、誰かの気持ちとか関係ないって話。私は私で勝手に幸せになるから。そういう夢中になれることを探すの。いいでしょ?」


「いいと思うよ。じゃあ昨日出来損ねたミッションの再挑戦からだな」


「えっそれは……間にあうかなぁ」


「間にあう間にあう」


「他人事だからっててきとー言いすぎ!」


 凪咲は明るく振る舞って、こちらにもいつもどおりで在ることを許してくれている。そうじゃなきゃ、出来ない会話だ。


 それと、と妙にすっきりした風情で凪咲は言った。


「秋矢くんが思うほど私、落ちこんだりはしてないよ。この制服を着れるのはもうあと一年しかないけれど、高校の私にひとつ後悔を残さずに済んだんだから、私は結果がどうあれ今でよかったって思ってる。言いたいのはそれだけ!」


 以上! と締めくくるまで好きなだけ捲し立て、びしっと敬礼をしては去っていく。


 と思いきや最後にこちらを振り返り、


「まぁ……そういう事だから。お幸せに!」


 とびきりのスマイルを残していった。


 それを見送った碧は、しばしその場に立ち尽くした。気持ちの整理がついてからは、いろいろ思うことをあれど表情に出さぬまま、自分の席にデイパックをおく。


 〈高校の私に後悔を残さずに済んだんだから〉


 すごいよな、とシンプルに思った。


 自分が彼女と同じ状況だとしてもそれは、首を捻っても転がり出てこなかった言葉。


 始まったばかりの一日を象徴する、雲一つないすこんとした青空を窓から眺めた。


 もしも、と考えてみる。


 自分に当てはめて、想像してみる。


 僕にもしこの三年間でやり残したことがあるとすれば、それは————


「おはよう碧ー。なに笑ってんの?」


 聞き慣れた声に、取り留めのない思索を中断する。


 くるみがいつもの仲間を連れてきたらしい。振り返れば、湊斗とつばめも一緒になって、すぐそこに立っていた。


「や。僕のまわりには尊敬できる人がたくさんいるって思ってさ」


「それ私のこと!?」


「なわけないじゃないですか」


「死んだ目でばっさり切り落とさないで虚しくなるから!」


 くるみが、ふふっとおかしそうに喉を鳴らす。


「大丈夫だいじょうぶ。碧くんは照れてるだけだから」


「そーなの? 本当にー?」


「つばめは尊敬ってか、それよりも大事な女友達って枠だもんな」


 くるみと湊斗がすかさずフォローを挟み、碧がその親切に乗っかる。


「あなたの回答がベストアンサーに選ばれました」


「おお! さすがカテゴリマスター!」


「ただの学生です」


 たった一夕の出来事。


 それが嘘のように今、賑やかな日常が自分のまわりに戻っている。だけど……




 ——ごめん。凪咲さん。と、教室の近くて遠いところにいる彼女へ、呟いた。

 昨日貰った言葉はやっぱり忘れられず、いつまでもずっと記憶の片隅に残っている気がするから。




お読みいただきありがとうございます。

次回からドイツ旅行(実家帰省)編にいきます!


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