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第240話 自分の気持ち 誰かの気持ち(2)


 店を出れば、すぐに凪咲は見つかった。


 というのも建物の角を曲がってこちらに走ってくるシルエットがいたからだ。


 きっと彼女のほうも忘れ物に気づいて、丁度戻ってきたところだったのだろう。


「凪咲さん」


 碧は、手提げを揺らさぬように掲げた。


「これ忘れ物」


 鞄を揺らして走り寄ってきた凪咲は、こちらの手の届くところで止まると、肩を上下させながら息を整えた。


「だよねっ。改札通る前に気づいて、どこに忘れてきたんだろうって。よかったあ」


 それからどこか気まずそうに、こちらを見上げてくる。


「……見た?」


「見てないけど、大事なものなんだろうなってのは分かるから。ほら」

 碧がそれを突き出すと、凪咲はそれを、まるで自信のない成績表を返された時のように、どこか沈んだ様子で受け取った。


「?」


 その様子が気になったのが、どうやら伝わってしまったらしい。


 凪咲のほうから、躊躇いつつも事情を説明してくれる。


「これね。いちおう持ってはきたんだけど誰にも渡せなくて……余ったチョコなんだ」


「そっか……まぁ、そういうこともありますよね」


「まるで乙女心を知ってるみたいな相槌だ?」


「僕も去年くるみさんに渡そうかどうか、ぎりぎりまで迷ってたから。今では渡してよかったなって心から思うよ」


「——そっか」


 と、どこか上の空で頷きながら。凪咲はチョコレートの手提げを、コートに包まれた腕でそっと抱いた。


「前の彼氏のこと、秋矢くんには話したと思うけどね。あの人とは結局、別れちゃってさ。そしたら友達……さっきのあの子たちにすごく心配されちゃって」


 一度誰かと結んだはずの糸を解いた、あるいは切れてしまう。それも一度は愛した相手との糸を。それは——自分の知らない領分だ。


 想像は出来ても、どんな言葉をかけてやればいいか分からない。今、彼女が下手な励ましの言葉を必要としているのかどうかも、分からない。


 だから、口を噤んで続きを聞くことしかできなかった。


「気を遣わせたくないから、早く好きになれる人を探さなきゃって……今度はちゃんと好きになれる人を探そうって。この間やっと、隣のクラスに気になる格好いい人を見つけられたから、その人に渡すはずだったの」


 口許にはかろうじて笑みを浮かべながらも、凪咲は静かに嘆息する。


「でも……どうしても渡せなくて。きっと、焦ってばかりで気持ちがおいてけぼりだったからだと思う。みんなには『義理だけど渡せたよー』なんて、嘘吐いちゃった。悪いとは分かっていたんだけど」


「別に、嘘はそこまで悪いことじゃないと僕は思うよ」


 傾聴だけをするつもりだったのに気づけば、咄嗟に反論してしまっていた。


 多分それは、彼女を庇おうだとか優しくしようとか、そういうんじゃなくてただ、そればかりは違うとはっきり思ったからだと思う。


「それは、凪咲さんが立派な友達想いだってことの、裏返しだから。誇っていい、とまでは言わないけれど、自分で自分を肯定するくらいはしていいんじゃないかな。少なくとも僕はそう思う」


 凪咲ははっと目を見開き、どうしようもないほどにくしゃりと表情を歪め——


 それから照れたように目線を伏せ、何かを言いたそうにへにょりと眉も下げた。


「……そか」


 返ってきたそれだけの相槌に、碧はもうひとつだけとおまけの励ましを重ねる。


「そのチョコレートだってさ。渡そうと思えば今からでも間にあ……どうだろ」


「ちょっと。そこは嘘でも最後まで言い切ってよ!?」


 すぐさま突っこんで、それから凪咲はおかしそうに笑う。


 なので、きっともう大丈夫だろうと、碧も安堵の息を吐いた。


「渡せるといいですね」


「……うん」


 碧は片手をゆるく挙げた。


「じゃあ僕は仕事に戻るんでこれで」


 待たせているくるみのためにも早く戻ろう、とくるりと踵を返す。


 夕暮れに染まる上空を往く雲の速度が、やけに早い。


 歩きながら、そういえば、と思う。つい何日か前は朝からずっと重たい雨雪が降っていたのだが、夜にはすっかり止んでいたので、店に傘を忘れてしまっていた。


 やり忘れたことがあるとどうにも、喉に魚の小骨が引っかかったかんじがして落ち着かない。今日こそは仕事終わりに持って帰らないと。


 でも、くるみと一緒に歩く時は必ず手をつなぐ。じゃまになるのが分かっているなら今度にしようか。家にもう一本あるからまた雨が降ってしまっても、平気なはずだ——


「あ——」


 なんて他愛もないことを思い描きながら、そのまま引き返そうとしたところで。


「待ってっ!」


 だんっ。


 と一歩を踏み出す音が、ぼんやりと赤くくすんだ夕焼け空にやけに響いた。


 きっと遠くないところにあるのだろう、どこかの学校から午後六時の到来を告げるチャイムが鳴り、あたりでは街灯が明かりを一気に灯す。


 それはまるで、衝動に突き動かされたように。


 さきほどとは打ってかわって、妙に切羽詰まった呼びかけに、後ろから引き止められる。


「やっぱりこのチョコレート、渡すの……秋矢くんが手伝ってよ」


「手伝うって——」


 どうやって、と問う代わりに、もう一度凪咲のほうを振り返れば。




 一寸さきにチョコレートの箱が突きつけられていた。




 碧は、ぴたりと動きを止めて凪咲を視界にいれる。


 彼女は、手に持ったチョコレートごと腕をこちらに伸ばしていて。


「も……貰って!」


 掠れた声で叫ぶのが、この夕焼け空のように、やけにぼんやりと耳に届く。


 初めは、笑いどころだと思った。


 ——「また冗談ですか」と。「義理のわりに本気(まじ)っぽいのやめてくださいよ」と。「今はふたりきりしかいないのになんの真似ですか」と。


 そう笑い飛ばせればよかったのに……そう出来なかったのは、彼女の表情を見てしまったから。


 頬を真っ赤に染め、息を浅くして、瞳にちらつく後悔とか混乱とか、そういう風に見えるものをひたすらに押し隠しながら、それでもどこまでも真剣に……。


 百%の確率で〈義理〉だ、と勝手にカテゴライズさせることを許さない、表情の昂り。


 手は震えて、目はかたくなにこちらを見ようとしない。ただただ甘い箱をこちらに差し出したままだ。


 ならば、とその意図を、感情を、想いを——彼女の行動だけからたった一つへと識別するのはあまりに難しいことだったから、せめて言葉で確かめようと、どうにかして喉から音を絞り出す。


「どういうことですか?」


 問われた肩が、まるで親に叱られた子供のように、びくっと揺れた。


「っ。どうって……渡したくなって、手が勝手に動いたの」


「答えになってないですよ」


「私も思ってる! なんでこんなことしてるんだろうって思ってる! これがいけない事だってことはわたしが一番よく分かってるっ!!」


 その叫びにはやはり、冗談だと笑い飛ばすことを欠片も許さない、重みがあって。


 ——まさか、な。


 そんな言葉がよぎる。


 だが、凪咲がいつものトレードマークとも呼べる賑やかさを取り戻すことも、なくて。


 よく話す友達と呼ぶには遠くて、情なく突き放すにはやや近くなってしまった女の子からの、チョコレート。


 やがてこれが本当に、日常のさりげない一ページなんかじゃなく歴とした()()と呼ぶべきものだと分かったとたん、碧をじわじわと支配したのは高揚や喜びなんかじゃなく、困惑と混乱だった。


 それらが、動悸をばくばくと加速させてくる。


 凪咲は鋭くうつむいたまま言う。


「本当は、こんなことするつもりじゃなかった。今日はまっすぐ帰って、友達から貰ったチョコたべながらドラマ観て学校の課題して。結局何も出来なかったけどその代わりに何事もない、平和な一日だったなーなんて振り返る予定だった!」


 自分でも戸惑っているのか、怒涛のいきおいで捲し立ててくる凪咲に釣られ、こちらもますます思考が乱されていく。


「もしかして本気だったんですか? あの時の……」


 あの〈私とつき合わない?〉発言。


 何のことかわざわざ言わずとも、彼女の記憶にもしっかり残っているはずで。


 その期待どおりに——だけど、碧が一番聞きたくなかったことを。


「別にっ。嘘はついていなかった! あの時は本当にちゃんと嘘だったっ!」


 嫌々をする子供のようにぶんぶんと首を振り、凪咲は息を切らして言う。


「でも……今はっ……」


 あれほど息も()かせなかった想いのつづら折りが、一度切れ、凪咲は躊躇するようにまた鋭くうつむく。


 その〈でも〉の続きが示すことの意味を、碧は推しはかってしまう。辿り着いた答えに、きゅっと口を結び、そっと瞳を伏せた。


 これ以上紡がれるのが、誰にもとへも届かずに不在票となるだけで報われないだけの言葉でも、一度口を衝いて出てしまえば、止まらない。


「わたしは、自分で嘘を……嘘にしちゃったの」


 おき手紙を残すように自嘲気味にささやいた凪咲が、ばっとこちらを見据えた。


 すうっと夕時の空気を吸い、吐く息と共に、感情のまま烈しく訴えかける。




「本当に私が好きなのは——秋矢くんだったからっ!」




 もう後戻りのつかない言葉を、聞いてしまう。


 衝動で言い放ったのか、一瞬後悔したように表情を歪めながら、それでも凪咲はどこまでも真剣にこちらを見る。衿のリボンをくしゃりと押さえていることが、今の彼女の心情を、余す事なく表しているようだった。


「秋矢くんの心にはもう、決まった人がいるのに。君はくるみちゃんを好きで、くるみちゃんは君を好きで。だからこそ、現実から目を逸らさないでいようって……()()()()()()、自分の気持ちなんか忘れて、ふたりの応援が出来るいい友人でいようって思ってた」


 俄かには信じられない目の前の現実から目を逸らすように、そっと視線を下げる。


 何か言わなければと、かろうじて口を開いた。


「……きっかけは、あったんですか」


「私が初めて話しかけた日のこと、秋矢くんは覚えてる?」


「夏休みの前……であってるよね」


「うん。じゃあその時に話したことは覚えてる?」


「え……」


 話したこと?


 凪咲には申し訳ないけど、他愛ないやり取りはあってもとくに記憶に残るような会話はなかったように思う。思い出せることとしては、くるみの事を何かしら聞かれたくらいだ。


「そうだよね」


 凪咲が、制服のスカートをきゅっと耐えるように握りしめ、寂しそうに小さく笑いながら答えた。


「別にその時に好きになったってわけじゃないけど、いいなっては思ってたんだ。秋矢くんの、誰にどう思われてもいいって腹の底から思っているところも、それでいて誰かのために……その子の隣に立つために努力できるところも、男の子としてじゃなくて一人の人間として。多分、事情を知らないクラスメイトのなかなら私が一番最初に気づいたんだろうなって自負してる」


「……」


 たははと、凪咲はわざとらしく朗らかに笑った。


「後はもうあれだよ。前に言ったよね。君が彼女さんを可愛がって大事にすればするほど女子の株があがるーって。秋矢くんとつき合うとあんなに大事にしてもらえるんだーって、宣伝して回ってるようなものだって」


「……」


「でもそれはぜったいに、私のためじゃないから——忘れようって決めて、なのに忘れられなくて、この気持ちのことずっとずっと誰にも言えなかった」


 小さくも確かに響く凪咲の告白に、碧は黙りこくったまま。


 耳に残っている、いつかの湊斗の助言がよみがえった。


『他の女子からチョコとか貰ったら——』


 心構えくらいは、しているつもりだった。


 でもそれが、何度も話したことのある見知った相手からなんてのは、まるで考えが及んでいなかった。あり得たとしてもせいぜい、話したことのない後輩あたりの女子が、くるみの彼氏として有名になった自分に好奇心だけで近づいてくるだけだろうって。


 碧に浮気心が毛ほどもないことを知れば、その子もすぐ関心を失って引き下がり、誰も傷つかぬままに終わるだろうって。


 想像だにしていなかった。まさか教室でずっと自分達を見守ってくれた凪咲が、自分に好意を寄せていたということも。


 多分、あんなことがあったからこそ、気を許していたんだと思う。


 一度吐いた嘘が、嘘じゃなくなるなんてことはないと、身勝手に決めつけて高を括っていたんだ。


 人の気持ちのゆくえなんて自分では、ましてや他人にも掌握できるものじゃないのに。


 見ないふりをすればするほど、気になってしまう。好きじゃないと言い聞かせればするほど、気持ちは相反してしまう。だからあえて目を逸らさないようにして、それでも感情が大きくなるのを止めることはできなくて。


 凪咲の冗談を、この半年の日々が——本物にかえてしまっていた。


 だけど彼女はそれを自分一人で抱えて、一人で諦めようとしていた。空気を読むために。人間関係に波風を立てないために。碧を困らせないために……。


「だって、勝てっこないもん。私じゃ秋矢くんの隣にいられない。伝えたところで残念な結果になるのは分かっていた。だから……だからこんなことするつもりなかったのに」


 初詣のとき、凪咲が言ったことを思い出す。


『そろそろ現実見ないとだよ!』


 あれももしかすると、自分に言い聞かせるために放ったのだろうか。


 なのに二月十四日の魔法と、さっきの碧の何気ない一言が、彼女の気持ちを揺らしたばかりに今——その想いが、堰を切ってしまっている。


 聞きながら、碧は下ろした拳を白くなるまで握り続ける。


 彼女に差し伸べることはしない。出来ない。一本しかない右手を差し出そうと決めた相手は、とうの昔に決めている。凪咲がどんなに真剣に想いを伝えようとしてくれようとも、それに応えることは出来ないし、百の甘言を尽くして振り返らそうとしようとも、同じ言葉を返すことはできない。なぜなら凪咲はくるみではないから。


 そうして碧は、ただ静かに、初めから決まりきっていた答えを渡した。


「ごめん」


「っ——」


「悪いけど、それを受け取ることはできない。そのチョコレートは、凪咲さんが気になった人に渡すために持ってきたもので、僕が好きなのはくるみさんだ」


 なるべく優しく突き返そうと放った言葉が、自分にも刺さってくる。


 それは、戯れついてくる従姉のほたるを雑にあしらうのとはまるで違う、切なさとやるせなさだった。


 行く宛のなくなった手が、チョコレートの箱を掴んだまま、下ろされる。


「そうだよね。知ってた……分かってたよ。でも」


 引き絞るように凪咲が呟く。


「ずるいよ。秋矢くん。……秋矢くんがあの時『冗談だ』なんて言わなければ。私はもっと気持ちが大きくなる前に気づけて、見ないふりしないで済んで、きちんと打ち明けられて、それでもっと早く振られて……今度こそちゃんと次に進むことが出来たかもなのに」


 傷ついた瞳に、じんわりと涙が浮かんでいく。


「でも本当にずるいのは私のほうだ。言わないことを選んだのは私で、この感情も私のものだから、せめて卒業までは責任を持って隠しておくつもりだった。言ったら秋矢くんのこと困らせて迷惑になるのは解り切っていたのに、なのに伝えちゃって……ずるい私だ」


 空気を揺らす音が、湿り気を帯びていく。


「今日はね、和やかな空気でさよならしなくちゃいけなかったの。そしたら秋矢くんはくるみちゃんとこの後、甘いバレンタインの思い出を残して。私は明日学校で『ふたりとも昨日はどうだった?』なんて訊いて、そしたら秋矢くんは『それは秘密だ』なんて笑って。ホワイトデーには、デートの約束をしている秋矢くん達を私はちょっぴり囃し立てて見送る。そのまま、世界はいつもどおり廻っていくの」


 震える告白が、こちらの心を叩いてくる。


「だから……」


 その瞳の潤いをかろうじて零すことなく、縋るように言う。


「だから、おねがい。明日からも……ううん。この後からもいつもどおりの秋矢くんでいて。今日のことはぜんぶ、忘れて?」


 それを聞き届けたうえで、しかし首肯することはできなかった。


 碧は引き裂かれるような思いのまま、首を横に振る。


「むりだよ。この話を聞く前には戻れない。凪咲さんが僕への気持ちを忘れられなかったのと同じように、凪咲さんが手渡してくれたことを忘れることはできない。だけど、気持ちを貰うこともできない」


「……そんな。そんなの」


 最後はほとんど声になっていなかった。


 ——優しさの定義とはなんだろう、と思う。


 自分が振った以上、今の彼女に何を言っても、偽善者による戯言(たわごと)にしかならない。


 本当に相手の望むことを叶えてやるのが優しさか、自分の思う親切を貫くことが優しさか。どちらに転んでも結局は傷つけることになるのなら、その人の取れる最善とはいったい何なのだろう?


 一つだけ、分かることがある。まがい物の下手な優しさと言われればそれまでだが、折角打ち明けてくれたことをなかった事にして明日へと戻って仕舞えば、凪咲が独りで抱えて傷つき続けたこれまでの日々が、またリピートされるだけだということ。


 ならば彼女の告白を受けいれることは出来ずとも、自分も彼女の気持ちを知って……忘れずに心の何処かに鍵をかけておくことは、告白してくれた事に対する最低限の礼儀と誠実さと優しさじゃないだろうか。


 何処かで聞いた誰かの持論にこんなものがある。誰にでも優しくするのは、誰にも優しくしないことと同じだ、と。


 それを踏まえて言うのならば、一人の幸せだけを考えることが行動指針の自分にとってはまるで関係ない話だ。


 だけどそれが、目の前で傷ついた人を、たとえそれが誰であれ突き放す理由にはならないと思う——少なくとも僕は。


「僕は、あんま空気を読んだりしないからさ」


 哀しみに曇った表情のまま、凪咲がこちらを見る。


「凪咲さんが空気を読むことをやめてその気持ちを伝えてくれたことは、迷惑だとかは欠片も思ってない。むしろ、似た者同士だなって思ってるくらいだ」


「……そういう優しいこと、言っちゃうんだ」


「言うよ。凪咲さんが自己嫌悪せずにすむなら」


 凪咲はがんばって口角を持ち上げた。


「やっぱりずるいね秋矢くんは」


「今さら気づいた?」


 碧は、静かに言う。


「ありがとう。僕のことを好きになってくれて」


 凪咲は、すんと洟をすすり、ぐしぐしと目許を擦ってから踵を返した。


「最後に一つだけ訊いてもいい?」


 そのままぽつりと問う。

「もしも私が今よりずっと可愛くて、賢くて優しくて何でも出来て、嘘をつかない正直者でもっともっと魅力があったら……秋矢くんのこと、振り向かせることは出来てた?」


「……凪咲さん」


「ごめんね。聞いてみただけ」


「……。うん。また学校で」


 これ以上重ねて言うべきか迷ったことを振り払い、いつもどおりを振る舞いながら、日常へ帰ろうと碧もまた踵を返す。


 さきに一歩踏み出し、凪咲のほうより淡くぼんやりと伸びてくる長い影から、碧は遠ざかっていく。しばらくしてそれからやっと、凪咲のローファーが重たげに引き摺られる音がこちらに届いた。



 そこに織り交ぜられた小さな嗚咽には、聞こえないふりをした。


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