第239話 自分の気持ち 誰かの気持ち(1)
「じゃあうちらはこのへんで!」
話に花を咲かせると、どうも時間というものを忘れてしまうらしい。
くるみが追加でおかわりの注文をした、ホット——のはずだったコーヒーから、とうに湯気が立たなくなった頃になって、女子三人は立ち上がりいそいそと上着を羽織った。
皆押し並べて、さっきドアを潜ったときにはしていなかったほくほくと幸せそうな笑みを浮かべている。くるみからたっぷりお裾分けしてもらった幸福なんだろう。
「くるみちゃん惚気話ごちそーさまでした!」
「ごちそーさまでした!!!」
「よ、よく分からないけど……皆さんの糧になれたみたいなら私もよかった」
あれからたっぷり一時間も、くるみはインタビューさせられていた。
たとえば「初めてのキスはいつだったの?」だの「大人なかんじだった!?」だの、わりと本当に学校じゃ聞けないことがぽんぽん飛び交っていたが、くるみも押されつつ、ふたりだけの秘密にすべきことや話しづらいこと以外は答えていたので、最後には三人ともお腹いっぱいになったようだ。勿論、その二つの質問は断として……というかくるみが照れてしまって回答が出来なかったけれど。
……ちなみに碧は、なるべく聞くまいとしていたのに体じゅうが耳だった。
その結果どうなったかは、ご想像にお任せされたし。
「今日は私ばっかり喋っちゃったから、今度は皆さんのお話を聞かせてね」
くるみが眉を八の字にしつつも、ふわふわした空気で言った。
「あんまり甘〜い話は持ってないけどねえ」
「そうねー。もし今後注目するべきとしたら……やっぱり凪咲じゃない?」
やなちーと詩織に肩をぽんと叩かれ、凪咲がきょとんとしてから、ほんのり苦笑した。
「え? いいよぉ私は」
「凪咲も早くその人に告っちゃいなよー。青春短し恋せよ乙女! 昔の男のことなんか、さっさと忘れなきゃだめだぞ!」
「そんな心配しなくてもいいのに。私は私のペースでするんだから」
昔の男——ああ、そうか。そういうことか。
その短いワードが示す事実に辿り着き、碧はなんとも言えない気持ちとなる。
「でも、高校生でいられる時間はあっと言う間だよ。いいの? このまま卒業まであっと言う間なんだよ?」
その言葉に、虚を衝かれたようにはっとした凪咲が、ふとこちらを見た。
と思いきやすぐに、まるで何かを申し訳なく思うように、すぐ目を逸らしてしまう。
そして、たった今見せたセンチメンタルな陰りが気のせいだったんじゃないかと思うほど、普段どおりのからっとした様子で笑った。
「まーそうね! そのことについては二人に今度、相談させていただきますとも」
「それきたばっちこい!」
「うちらが助けになるんならなんぼでも聞くよ」
「じゃあ今日のところは帰ろっか」
外を見れば、太陽はくらりと遠い空に傾き、空は冬特有のぼんやりとした夕焼けにグレーの雲が尾を引いている。もうすっかり夜が近い。
もうすぐ和佐さんが降りてくる代わりに上がらせてもらえるから、そうしたらくるみを送り届けよう。勿論その前に、とっておきの贈り物も渡すつもりだ。彼女からも何かくれるだろうから、きっと一緒に受け取った感想を言いあうことになるだろう。もしかしたら帰り道もどこかに寄って、ちょっとしたデートにも出来るかもしれない。
くるみが来たのは計算外だったが、こちらとしては時間もできて渡りに船だった。
「皆さん、帰り気をつけてくださいね」
「うん。ありがと!」
「じゃあ二人ともまた学校でね!」
「くるみちゃんはいいバレンタインを♡」
「秋矢くんからどんな感想貰ったか、明日詳しく聞かせてね!」
好き勝手言ってくるみの頬の熱をぶりかえさせては、お会計を済ませて帰っていく彼女らを見送ってから、碧はテーブルに戻った。
賑やかな台風が去っていき、あたりは俄かにしんとしている。
彼女たちが来訪したときには他にもお客さんはいたが、今はくるみしかいない。紬は引き続き夜も働くので、今はバックヤードで休憩をしている。
あと一時間もすればバータイムが始まるという、一日のなかで一番空いている時間に差し掛かっており、お茶のラストオーダーももう間もなく。
碧も、あとは戻ってきた紬と協力してカフェタイムの片づけをするのみだ。
もうほかの誰に聞かれるわけでもないので、いつもの砕けた口調でいいだろう。
「コーヒー温め直そうか?」
「ううん。苦くなっちゃうでしょ? このままで十分おいしいから大丈夫」
ふるふると首を振ってから、くるみは指を絡ませた両手をハンモックにし、頬杖をつく。
おっとりとした甘いヘーゼルの瞳をへにゃりと細めて、こちらを恋しげに見上げてくるのは、際限を知らぬほどに可愛らしい。
やっと二人きりになれたことに喜びを隠しきれない様子だ。
もちろん、それはこちらも同じこと。
「僕はもうすぐ上がるから。そしたら一緒に帰ろうか。もうちょっとだけ待てる?」
「私はゆっくりでも大丈夫だから。ここで碧くんのこと眺めて待ってるね」
「けど……急がなきゃ心配事が晴れないんじゃないか」
「?」
「今日は、お嬢さんのお待ちかねのものを渡さなきゃだからね。今年も貰えるかどうか、ずっとそわそわしてて落ち着かなかったんだよね」
「え。な……なんで」
「見ればわかる」
くるみは白い頬をうっすら赤くして、まごついた。
「だ……だってここ日本だもん。あくまで女の子が渡す日なんだもん」
「去年渡した僕が今年はあげなくなるほど、器が小さい人間に見えた?」
くるみは、ぶんぶんと首を振った。
勿論そんなことを一ミリも考えていないことは分かっている。
「風習とか関係なく渡したいと思ったから渡すんだよ。くるみもバレンタインデーだから渡すんじゃなくて、僕を好きでいてくれてるからくれるんでしょ?」
人に何かを贈ることを、物で相手の気持ちを釣ろうとするとか、ご機嫌取りだとか言う人もいるけれど、自分はそうは思わない。ただ、くるみの喜ぶところが見たいからで、もっと言えばそれを見た碧が幸せになるからだ。わがままかもしれないけれど、それをいけないこととは思わない。
だけど、本人がそこまで要らないと言うのならそれこそ、ただのご機嫌取りと一緒になってしまう。
今回はくるみがほしいと言ってくれて、それはこちらにとっても嬉しいことだった。
だから別に、期待する気持ちは隠すことじゃないと思う——そういうところがくるみの可愛いところでもあるんだけど。
「それはそうだけど……ううう。正論はともかく、見透かされてたのに関しては、やっぱりちょっと納得いかないわ」
「下手なんだよなあ隠し事が」
「ううう」
ほっぺたを押さえながら複雑そうに唸るくるみのことを、すぐにでも抱きすくめてお持ち帰りしたいところだが、今は兎に角、仕事中だ。片づけなければ帰れない。
氷のすっかり解けたグラスを三つ集めて、トレイに載せる。
そしてテーブルを離れたとき、その下——くるみの荷物がはいっているのとは別のかごに、何かが残っているのに気づく。
「これくるみのじゃないよね?」
小さな紙袋だった。
揺らさぬように持ち上げてみれば、重さはほとんどない。学校帰りは寄り道せずそのまま来たらしいから、どこかで買い物でもしてきたというわけでもなさそうで、テープもしていない隙間からはリボンが包まれた小さな箱が見えた。
今日という日を鑑みれば、チョコレートで間違いない。
だとすれば、今ここに忘れているというのは、結構な一大事じゃないだろうか?
「これ、誰のか覚えてる?」
「……確か、凪咲さんが持っていたものかも」
くるみが言ったのを受けて、どうすべきかを一瞬で考える。
ここを出てすでに五分ほど経ってしまっているので、彼女たちは駅に着くかどうかというところだが——物が物なので賭けに出ることに。
「ちょっと届けてくるよ。すぐ戻るから」
くるみは一瞬、寂しそうな目をした。
だが、それをまたいつもの桜の花のように淡く優しい笑みで包み隠すと、うんと頷く。
「待ってる」
碧も、何もすき好んで、折角来てくれたくるみを待たせたい訳じゃない。
——帰ったらたくさん構ってあげよう。
彼女らが電車に乗ってしまう前に間にあわせるべく、帆布の前掛けも解かぬまま、碧はドアを押し開けた。




