第238話 二度目のバレンタイン(2)
「紬さん。こちらのお客様のお会計おねがいします」
「はいただいま」
また一人と客を見送り、碧は皿を片づけながらふっと一息吐いた。
若者客も多く、バレンタインということで多忙が予想されるのと、湊斗が〈外せない大事な予定〉——まあ言ってしまえばつばめとのデートなのだが、それが理由に今日は居ないので、代わりに紬がカウンターに立っている。
クールな大学生女子の先輩である彼女もまた、立派な彼氏持ちなはずだが、彼女曰く「こんな日だからってわざわざチョコを渡すのは面倒だしそれよりお金を稼ぎたい」とのこと。
ずいぶんドライだなあと思いつつ、自分やくるみが恋人に感謝を伝える日と認識しているだけで、世論の多くはそんなものなのかもしれない。
「秋さんは、今日休み取らなくてよかったの?」
カウンターの下に、鍋や鉄板を仕舞っていると、紬が聞いてくる。
「彼女さんからチョコレート貰えるんでしょ?」
碧は手を動かしたまま答えた。
「クリスマスとイブの二日間はしっかり休ませてもらいましたし。あまり穴空けても申し訳ないんで」
「別に和佐さんは気にしないと思うけど。あのひと、ほら……ああだし」
彼女の言う、ああ、というのが人の幸せな話を蜜にして生きている人間だからということは、すぐに察せられた。
「夕方には上がるので大丈夫です。彼女を待たせるのは申し訳ないんですけどね。家で待ってるって言ってくれてますから」
「家で待ってる??」
「え。あーその……彼女の家です。終わったらちょっとだけ寄る約束で」
まさか合鍵を渡しているなんて言えるはずもない。
紬はというと、ふーんと白々しい相槌ののち、一言。
「……その彼女さんなんだけど、本当に実在するの?」
思わず振り返れば、訝る瞳がじとーっとこちらを見ているではないか。
「なんでそこ信じないんですか」
「だって、写真も結局見せてくれていないし」
「本人の許可がいるじゃないですか」
どうやら、くるみの可愛い写真を独り占めしたいがために、実在の証拠を早い段階で見せなかったことが裏目に出たらしい。
だが結局は、くるみにはここへの訪問の許可を出してしまっている。なので、くるみを紬に会わせる日はそう遠くないうちに到来しそうなのだが——目の前の先輩はまだ信じられない様子。ロダンの『考える人』の銅像のようにうつむき、推理を重ねている。
「可愛いけどあまり周りに言いたくない彼女。……まさか有名人?」
わりと鋭い。
「遠からず当たってなくもないですね」
「分かった。秋さんは落ち着いてるけど彼女さんは女番長とかで、ギャップに驚かれたくないんだ」
「急に遠くなりました。ってかいつの時代の話ですか……」
「あ。ほらお客様だよ」
お喋りしていると、ドアに嵌めた硝子からの光が、人影にさえぎられた。
からんころんと来客を告げる、聞き慣れた銅のベルの音に続いて——
「四人なんですけれど……お席は空いていますか?」
これまた聞き慣れた、おっとりとして耳に染みるように柔らかなメゾ・ソプラノが、春風のように耳をなでた。
思わずがばっと立ち上がりかけ、がつんと棚に額をぶつける。
その拍子にころころと転がり落ちてきたペッパーミルをキャッチし、ふらりと立ち上がれば、ぶつけたとこのひりつきが全く気にならないほどに目を奪ってくるのは、ふわりと光る亜麻色。
やはり声の主人——もとい訪問者はくるみだった。
立ちぼうけている碧の代わりに、紬が先に動く。
「いらっしゃいませ。カウンターとテーブルどちらになさいますか?」
「じゃあ……テーブルでおねがいいたします」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
案内されているすがら、くるみがこちらを見た。
碧だ、と認めたとたんに、ぱっと花を散らしたように一気に頬が赤くなるも、すぐにそわそわと落ち着かない様子を見せるというリアクションに、ある程度は予想がつく。
というか一人で来たならまだしも、友達と一緒なら十中八九、お連れの彼女達にそそのかされたに違いないのだ。
——と言いつつ『会いたかった』って気持ちも純度百%で、あるんだろうけど。
くるみがどれほど碧を大切に想い、深く愛してくれているかなんて、当事者である自分が一番よく分かっている。だから今日やってきたのはきっと、バレンタインを一秒でも多く、碧と一緒の空間にいたいからなのだ。なんて健気で、可愛らしいことだろう……それを思うと、オンモードにも関わらず、もにょりと口許がにやけてしまう。
そのおかげで、カウンターまでメニューを取りに来た紬が、こちらを見て瞬きを一つ。
さらっとした視線がさりげなくちらりとくるみを掠め、それから碧に戻される。
「あの子達、知り合い?」
「ええ……まあ」
「あのロングヘアで、髪の明るい子が彼女さん?」
「まあ」
「へえ?」
すんと澄ました表情を崩さない紬。
短い問答ののち、こちらにトレイを押しつけて、すたすたとテーブルに歩いていく。
「荷物はこちらのかごにどうぞ。コートお預かりしましょうか?」
「あっいえ。大丈夫ですのでお気遣いなく」
「こちらメニューになります。詳しいご説明は……」
彼女の眼差しは、女子四人のそれを引き連れながら、ちらりとこちらへ。
「あちらの彼がいたしますので」
どうやら手番が回されたらしい。いやがおうでも。
「それではごゆっくり」
何事もなかった風に戻ってくる先輩と、バトンタッチするようにすれ違う瞬間、彼女がさらりと言った。
「すごいね。近くで見たらまるで妖精さんかお人形さんみたい。すっごい可愛い」
「あ。だから今近寄っていったんですか。近くで見たくて?」
よくよく見れば、いつもはクールなはずの表情が、若干弛んでいることに気がつく。
「秋さんが写真見せてくれないから。……私、可愛いもの好きなの」
「へー意外」
「意外って言うな。別にゆるキャラのグッズを買い集めたって、私の勝手でしょう」
けふんと咳払いと一緒に、ほら行け、と腰を押されるがままテーブルについた。
お冷とおしぼりを配ってる間も、くるみは頬を染めたままこちらを見たり見なかったり。淡いライトブラウンに透きとおった瞳をぐるりと回して、なんとか言葉を見つけようとして、やっぱり見つからないかんじだ。
視線がそわそわ自ら迷子になりにいっているご様子なので、耳の横で小さく手を振り、迷子のそれをわざと引き寄せる。
ぱちっと目があったタイミングで、碧はのほほんと笑った。
「来ちゃったわけですか」
「き。……来ちゃったわけです」
くるみは気恥ずかしそうに、ただでさえ華奢な体をさらに小さくする。
なんというか、仕事のさなかに写真でも記憶でもない本物のくるみが現れるというのは、まるで砂漠で清らかな泉を見つけたような気持ちだった。
この後やらなければいけないこととか、お客への気遣いですりへったあれこれに、くるみをたった一目見ただけで、久しぶりに降った恵みの雨のようにみるみると沁みていく。たった何時間か前に会ったばかりなのに。
「まさか、一秒でも早く僕に会いたくて来たとか?」
会いたかったのは自分のくせにそう尋ねれば、くるみは華奢な肩のうえで一度波打った髪をさらさらと零して、おかしそうにふふっと息を押し出した。
「知ってて聞いてる?」
「そうだといいなと思って聞きました」
「分かってたくせにね?」
優しく瞳を細めてからくるみはようやく、ふんわりと淡いはにかみを織り交ぜた、柔和な花笑みを咲かせてくれた。
「バレンタインの贈り物……早く渡したい気持ちが勝っちゃって。本当は、お家で大人しく待ってようかなって思ったんだけど」
「何で? 来ていいよって言ったってことは来ていいよってことなんだよ」
「そ……それはこちらの事情というか」
なぜかくるみはまごついた。
気になるものの、それはいったんおいといて、話はにこにこしている女子たちに。
「この三人は?」
「あっうちらのことは気にしないで! ただこの子の恋話を聞きに来ただけだから!」
「……それってつまり僕の話でもあるのでは?」
「ちっ。気づかれたか」
「まあまあ。耳栓でもして仕事してもらってればいいから!」
「むりがありません?」
「いいのいいの! ところでメニューの説明してくれるんでしょ?」
彼女たちもしぶとく、すぐに折れるつもりはない模様で。
こうなるとやはり仕事をこなさねばならないこちらが譲るしかないのだった。
「はいはい。ご注文は何にいたしますか? ホットコーヒー? カフェラテ? おすすめはオリジナルブレンドだけど、今日はバレンタインだしこっちに限定メニューもあるよ。甘さの調節もOKです」
くるみがくりくりした大粒の目を、さらに丸くする。
「他のお客様にもそういう風に訊いているの?」
「もちろん」
「嘘ですよ」
「紬さん」
「彼、彼女さんが来て喜んでるんですよ」
カウンターにいる紬からさらっと暴かれてしまった。
口を開けたり閉めたりしていると、テーブルからせらせらと華やかな笑いがあがる。いくらなんでもあんまりだ。
ひとしきり肩を揺らしたのち、くるみがメニューに人差し指を載せる。
「じゃあ私は……ジンジャーエールをください」
「本気?」
「ふふ、冗談です。店員さんおすすめの、オリジナルブレンドのホットをください」
くるみもいつもの調子を取り戻したらしい。
こちらの様子を眺め、組んだ両手で頬杖をついて、愛おしげに目を細めながら。
悪戯っぽさ半分、はにかみ半分で、可愛らしく小首を傾げている。
いろいろと、何も言えなかった。
「うちらはどうする?」
「同じのにしとこっか。ただしこの後は熱くなりそうだからアイスを三つで!」
「かしこまりました。くる……ホットのお客様。コーヒーカップはお好みのある?」
碧はカウンターの前に鎮座している、午後の日差しをたっぷり取りこむ硝子のケースを手で示す。
うちはオーナーたる和佐の道楽として、あるいはこの喫茶ならではの売りとして、カップは相当いい物を——それこそロイヤルドルトンやらリモージュやらを取り揃えているのだが、ここに並ぶ十客ばかりは、そのなかでも彼の趣味のよさを証明する上物だ。
「もしあれば、お好きなブランドのカップに注ぐけど。どうします?」
「わあ……どれも格調高くてすてき。和佐さんはお目が高いというか……さぞご趣味がいいんでしょうね」
価値を知ってか知らずか、くるみはうっとりとした輝きを帯びた瞳でショーケースを眺める。やがて鷹揚に腕を伸ばすと、そのなかで一番星のように光るひとつを指差した。
「あの上段の、真ん中のが気にいりました」
「セーブルの百年物ですね」
働き始めてから、銘柄やその誕生年まで全て覚えている。硝子戸を引いてカップとソーサーのセットを慎重に取り出した。
それは、一級品が揃うショーケースでもとりわけ高価な、フランスの名窯生まれのカップだ。しんとした白磁に絵の具で繊細な柄の金彩が施されており、眺めているだけでもベルサイユの宮廷の高貴な風が吹いてくるよう。
……ちなみに、湊斗の父はアンティークショップでこれを見つけて買う決断をしたとき、手が震えたそうだ。
碧も、値段を聞いたとき三回聞き直したのはここだけの話。
かといって自分まで手を震わせて破ってしまっては大事件なので、文字どおり壊れ物を扱う手つきでそーっと持ち運び、カウンターにことりと置く。
連れてこられたセーブルを紬が見て、それからこっちを見てぼそっと一言。
「よく言うよね。いつもなら常連さんからリクエストがないと出さないのに」
「折角来てくれたんだから、ちょっとくらいひいきさせてくださいよ」
戸棚から下ろした缶を開き、スプーンできっちりと珈琲豆を計って、ミルにざらざらと注いでいく。これはいつもどおり。
硝子のポットから熱湯を注いで、カップを十分に温めておく。この一手間を掛けることでおいしさが全く違うのだ、と湊斗が教えてくれた。その間に豆をがりがりと丁度いい粗さへと挽いていく。これもいつもどおり。
だけど最後の攪拌だけは、それはもうとびきりていねいに行った。
もちろん誰に出す一杯も手を抜いたことはないが、それでも気持ちとしてはいつもよりずっとずっと、慎重にカップに注いでいく。折角遊びに来てくれた恋人に、おいしいと思ってもらえるように気持ちをこめて。
華やかで複雑で芳醇な香りが、空気までもローストしていく。紬もその間に三人のアイスコーヒーを出してくれていたようで、からん……と氷が涼しげに鳴るのが聞こえた。
重たいトレイを左手だけで支えながら、碧はカウンターを出る。
「お待たせしました。オリジナルブレンドです」
くるみはやけにそわそわして嬉しそうだが、碧はそれに気後れすることなく、テーブルに冷たいグラスを三つとミルクと角砂糖のポットを並べていく。
ホットコーヒーは、くるみの持ちやすいほうを考えて、カップの持ち手があるほうを左に、手前のスプーンは柄を右に。そして頼まれていない一皿は、コーヒーの隣に。
「こちらもどうぞ」
「……キャロットケーキ? あの、私これの注文は」
「来てくれたお礼に。僕からの奢り」
ことり、と並べた一枚皿には、擦りおろした人参に生姜やシナモンといった体の温まるスパイスで焼き上げた、冬限定のデザート。それをくるみは惚けたように見つめる。
たっぷり眺め終えると、それからふふっと喉をかすかに鳴らして、この世の幸福の全てをかき集めたかのように甘くとろける笑みを零した。——僕の大好きな笑い方だ。
「ありがとうございます。店員さん」
茶目っ気たっぷりのお礼に、碧もつられて、つい二人きりのときのように口許を綻ばせてしまいながら会釈。
「どうぞごゆっくり」
「えーいいないいなー!」
「ご注文いただければいくらでもお持ちしますよ。有償ですが」
「ですよねー!!」
ずいぶん賑やかな友達ができたものだな、とほのぼのしつつ、一礼して離れる。
とはいえ、やはり気になるのでカウンターからこっそり見守るのだが、くるみは角砂糖やミルクには手をつけない。
まずはそのままを味わうということだろう。
机にそっと載せたカップを大事そうに両手で包みこみ、口に持っていった。
長い睫毛と瞳をゆっくりと伏せて、ふうふうとお上品に息を吹きかけてる間、碧はその焦れったさに固唾を吞むわけだが——やがてカップはくらりと傾き、時間をかけてうっとりと味わったくるみが、一言。
「……すごくおいしい」
本気で驚いた表情で、揺れるダークブラックを眺めていた。
彼女は紅茶好きとはいえ、朝は眠気覚ましにコーヒーもあり派とのことで、バイトを始めてからは貴重なお泊まりのたび、家で何度か淹れてやっている。おいしさに気づいた碧が、ドリップコーヒーを買い揃えるようになったからだ。
とはいえ、純喫茶などでしか見ないサイフォンで抽出した本格派のとは別物。くるみもここに来たことは何度かあるとはいえ、ブラックを注文するのは初めて。それであの反応だったというわけだった。
ほっとしつつ、湿ったクロスをかごに放り投げ、次のお客のために〈AdrableCafe〉のロゴがはいったオリジナルのコースターを取り出していると、視界にひらひらと白いものが閃く。
ぱち、と目があえば、おっとりと細まった瞳にいろんな幸福の感情を一緒くたに交ぜて、くるみが言葉じゃないところで感想を伝えようとしている。
別のテーブルに来ているご年配の常連さんが、妙に口角を上げながら、追加のオーダーをした。
「私もアイスコーヒーいただこうかしら」




