第237話 二度目のバレンタイン(1)
去年もそうだったけれど、今年もやはり教室は朝からそわそわ浮き足立っていた。
十四日——普段は始業のチャイムぎりぎりに来る人も、今日だけは余裕を持って登校していたり、靴箱をさりげなく二度見したりして。複雑なお年頃と呼ばれる我々高校生のそれぞれの心情がこうまで丸わかりになる日も珍しい、と思う。
女子の机や鞄のなかからは可愛い包みの箱が覗いていたり、なんならお昼には早速、義理だと分かる大量のミニチョコをクラスの全員に一つずつ配り始めている人もいた。
「お二人とも、よかったらどうぞ」
放課後になると、荷物をまとめてすぐに、くるみも詩織たちに小さな包みを渡した。
こんな日だからか、こちらから話しかけずともすぐには帰る予定がなかったらしい二人は、揃って目をぱちくりさせる。
「え。私たちにくれるの?」
「いつもお世話になっているから、感謝の印ということで。もちろん今日だから甘い物なんだけど……苦手じゃないのならぜひ貰っていただけると」
「わあ。クッキーだいすき! ありがとう!」
やなちーが目をきらきらさせて受け取ってくれた。
つばめは撮影があるので今日は学校を休んでいるが、もちろん彼女のぶんも持ってきていて、昼休みのうちに湊斗に、彼のぶんと一緒に託しておいた。
撮影のお仕事が終わり次第ふたりは今日デートするみたいで、くるみとしても友人が幸せになっていくのは心から嬉しいと思える。可愛い乙女な表情を見せるつばめを思い出し、くるみもまたほくほくした思いだった。
「ちょうど私達からも渡そうと思ってたんだー。はいっ!」
詩織が、持っていた横長の紙箱に手を突っこむ。
引き替えに差し出されたのは、クランチの粒々をたっぷりまとった輪っか。つまりミスタードーナツの看板商品だった。
こちらが目を丸くしているのを見てか、わざわざ説明をしてくれる詩織。
「これも名前にチョコレートってはいってるし。ここの近くのが八時開店でしょ? 朝にうちらふたりで買ったんだよ。うちのクラス全員のはさすがにむりだから、友達にあげるぶんだけね!」
「あ。ありがとう」
「エンゼルフレンチのがよかった?」
「ううん! ……私これがいい」
透けたペーパーに包まれた、魅惑のそれを見詰めると、詩織がふふっと目を細めた。
「くるみちゃんってもしかして、甘い物好きなの?」
「え?」
「今にこにこしてたから。好きなのかなあって」
きょとんとし、それから遅れてそっと口許を隠すが、やなちーと詩織もにこにこと陽だまりのように温かい目でこちらを見てくる。
一瞬だけ逡巡して、それから淡く笑みを浮かべて答えた。
「……うん! 甘いのは好き」
もう自分を隠さなくていいんだ、と思う。
優等生を気取らずとも、皆の理想の女の子を取り繕わなくとも。
くるみが一番大切に思う人たちからの愛情に、際限はないことを、もう知っているから。
自分で自分を、好きでいれているから……。
「私も好きだよゴールデンチョコレート。おいしいよね」
「ええ。あのつぶつぶがとくに。どうにかお家でもつくれないかなって調べたりしてるんだけど、これがなかなか難しくて……」
「分かるー! っていうか再現試そうとするのがすごいな?」
「そんな。趣味みたいなものだから」
くるみの振る舞える料理のレパートリーの多さは、もちろん上枝に教えてもらったものが基礎にあるが、碧やつばめと出かけて獲得した味覚も確実に手伝っている。
初めてのハンバーガーや、思い出の横浜で注文したピザ——そんな味もついつい家で再現できないか、ああでもないこうでもないと試行を重ねてしまうのは、もはやくるみにとっては自分で出来ることをふやすのが趣味だからと言っていい。
やなちーがしみじみ頷く。
「なんだかくるみちゃんって、話せば話すほど、私達と同じ女の子なんだなーってなってさ。どんどん親しみ深くなってってうちら嬉しいよ」
当たり前なことを不思議なことのように言う友人に、くるみはそのままでいられず、おもしろ可笑しく肩を揺らして笑った。
「だって、私もただの女の子ですもの」
「そのただの女の子でいるほうが可愛いんだから、世の中って分かんないよね」
「うんうん。私も、前より今のほうがずっとずっといいと思う」
そんな会話をしていると、後ろから名前を呼ばれる。
「くるみ」
振り返ると、デイパックを担いで帰り支度を済ませた碧が、立っていた。
「話してるところごめんね。僕、今からバイトあるから行ってくるよ」
「あ……そっか。今日もお仕事」
〈バイト〉と聞けば思い出すのは、働いているところに遊びに行くという話。
だが、それはあれきり中断となっている。
とはいえお蔵いりにはなっていないはずだけど……彼からの提案を待たずして今日こっちからぐいぐいと「もう行ってもいい? まだ駄目?」と聞くのも、とある事情から躊躇われるので、くるみは碧を見上げるに留める。
じ、と自分より高いところにある涼しげな黒瞳を見上げていると、こちらの思惑には気づいていない様子の彼は不思議そうにしながら、柔らかくまなざしを和らげて髪をぽんぽん撫でてきた。
……それだけで心拍数が上がって思考のあらかたが吹っ飛んでしまう自分は、彼にとってさぞかし、転がしがいのある彼女なんだろうと思う。
「いちおう和佐さんには事前に言ってて、夜になる前には上がれると思うけれど……じゃあまた後で」
「うん。了解」
碧が離れて名残惜しくなりつつも、平常時のリズムに戻った鼓動をどこか遠くに確かめ、ちらっと自分の机にあるトートバッグを横目で見て目算を立てる。
——帰ってくるまでは、碧くんのお家で待ってよう。そしてその時に渡そう。
勿論、バレンタインデーということで、渡すものはしっかり持ってきていて鞄のなかに潜ませている。だけど平日で学校があったのもあり今日一日よきチャンスがなく、結局帰ってから渡そうというところに落ち着いていた。
あれから考えに考えたお菓子だ。あげたときのリアクションは一秒でも早く見たいとはいえ、バイトがあるとなると終わるまで待たなければならない。
けれどそれはしかたがないことだ。せめて疲れて返ってきた碧を、このお菓子で甘く癒してあげられればいいなと思う。
「行ってらっしゃい。がんばってね」
「うん。…………」
そのままさよならをする展開かと思いきや、碧はいっこうに去らずに、こちらをまじまじと見詰めてくる。
「何?」
「や。なんだか雪ん子みたいだなーって」
「わ……私ゆきんこじゃないわ。というか雪ん子ってどういうこと? 誉め言葉なの?」
「可愛いってことだよ。ちょっと試しに『私は雪ん子ちゃんです』って言ってみて」
「? 私は雪ん子ちゃんです? ……??」
「っふふ。ほら可愛い。じゃあ行ってくるよ」
教室に残っているクラスメイトたちから呆けた表情で見られていることに気づき、ばつが悪いくるみはじわじわと赤くなるのだが、碧は一切気にしていないようで、何事もなかったように去っていく。
隣でくつくつと笑いをこらえていたやなちーが、息継ぎの後に言った。
「秋矢くんってバイトしてたんだね?」
「宮町にある喫茶で。湊斗さんのお父様が経営されてるところなの」
「へー! 葉山くんの家ってカフェだったんだ!」
「ちょっと待って」
詩織が右手で制しながら、左手でくるみのトートバッグを指差した。
「じゃあそれ渡すの、バイトが終わるまで待つってこと?」
「はい。碧くんにはきっちりお仕事を優先していただきたいから」
「そっかあ。確かに、学校じゃあんまりいちゃいちゃできないもんねえ」
「べ。別にいちゃいちゃしたいからって訳では!」
あらぬ想像にストップをかけるべく訂正をかけていると、やなちーが首を傾げる。
「したら秋矢くんがバイトしてるところに乗りこんで渡しに行ったらいいんじゃない? 学校からそんなに遠くないんでしょ?」
「それは……その……」
くるみは見事に言い淀んだ。
制服のスカートの上で、手をもじもじと組み替える様子を見て、とたんに二人が関心を示してくる。
「え? 何なに?」
「……その。実は海外では、二月十四日は男の子からプレゼントを渡す日っていうのが慣習として広く知られていて」
「うんうん」
「秋矢くん帰国子女だったもんね」
「そう……そうなの。だから、今日約束もしてないのにバイトしてるところに急に訪問したら、まるで私からバレンタインの贈り物を、せがんでいるみたいかなって……」
遊びに行くこと自体は別に悪いことではない。お仕事をがんばる彼の姿を間近で見られればすごく嬉しいし、その時にチョコレートを渡せるなら一石二鳥だ。
——でも。でも……!
バレンタインといえば女の子がチョコレートをあげる日。
でも海外では二月十四日はむしろ、男の子が女の子にプレゼントを渡す慣習の方が有名だったりするし、くるみもそれを去年の出来事から身をもって熟知している。
だからもしくるみがバイト中の碧に、呼ばれてもいないのに押しかけて会いに行って渡したら、なんだか「私はあげたけど碧くんからはくれないの?」みたいな圧をかけてるかんじになってしまいかねない!
訳をぎこちなく言い終えたくるみに、二人はきょとんと目配せ。
「はい! ぜんぜん気にしないで行っていいと思います!」
がばっとやなちーが挙手した。
それから詩織も真剣な目で説得を始めてくる。
「いいの? バレンタインだからって、秋矢くん目当てに来ている他のお客さんにこっそりお気持ちを渡されてるのかもしれないんだよ?」
え、とくるみは息を零した。
「他のお客さんに……?」
詩織はこくりと頷く。
「だって、この学校じゃ二人はそりゃあ有名な彼氏彼女さんだけど、バイト先じゃそうじゃないってことでしょ?」
その言葉が耳にじわじわと染みるや否や、自分の彼氏が他の女子に口説き落とされかけている悪夢のような図が、嫌でも思い浮かんでしまった。
「そっ。それは困ります!」
「じゃあ行くべきだよ! チョコレートを渡しに行くのだって立派な目的! 彼女なんだからいついかなる時も会いに行ったって誰にも文句をいわれる筋あいはないと思います!」
「ていうか……」
そわ——とふたりが何か含みありげにアイコンタクトする。
「ね!」
「私たちも行ってみたい!」
「行きたい行きたい! みんなで葉山くんのお店で女子トークしようよ」
くるみは思わず聞き返してしまう。
「え……? もしかして今から?」
「だってくるみちゃんだけにインタビューするより彼氏もいたほうがいいでしょ?」
「確かに! そのほうが甘〜い話聞き出せそうだし!」
「あっあのお二人とも趣旨がずれているというか、それより彼氏さんがいるのならそちらと一緒にいたほうがいいんじゃ……?」
と、気圧されつつ尋ねてはみるものの、スイッチがONになったふたりは、すっかり聞こえていない様子。
その状況にさらに追い打ちをかけるように、さらなる嵐がもう一人。
「なーんの話してたのっ!」
やなちーと詩織の間に、ひとりの女子が結ったポニーテールを揺らして、ひょこっと現れたのだ。
「あ。凪ちゃんだ」
我に返った詩織が、肩に寄りかかってくる凪咲をいなしつつ、尋ねる。
「あんた気になってる人にチョコレート渡しに行くんじゃなかった?」
彼女はというと、その問いかけに大仰に頬を抑えて、もじもじとする。
「行ってきたよ? 行ったんだけど……つい『義理なんだからね!』って言っちゃって」
「あらま」
「まー渡してきただけ偉いでしょ。一歩踏み出したってことだもん」
交わされるのは、正しくバレンタインらしい会話。
だが、くるみは凪咲のそのあたりの事情に明るくないので、様子をうかがうに留める。
やがて詩織が、仕切り直しとばかりに、ごほんと咳払いをした。
「で、何を話していたかっていうと————」
それから短く、たった今くるみを押しに押した提案の経緯を話し。
「え! なにそれ行きたい行きたい!!」
かくして半ば断れない空気のまま、いつもと違う四人による、碧の働くカフェへの訪問が決まったのだった。




