第236話 学校のおしどり夫婦(3)
同じ空の下、おそらくは同時刻。
長い髪をくるりと結い上げ、カモミールの甘い香りのバスソルトで白く染まる湯船に肩まで浸かりながら、くるみはスマホの検索結果をなぞっていた。
親友のつばめからの頂き物だが、やはり彼女はセンスがいい。香りのよさで、心までやんわり解れていく——碧と一緒の時間のお供に♡ という一言だけは、聞かなかったことにしているけれど。
「さて。今年のバレンタイン……何がいいかな」
どこかわくわくを帯びた呟きは、くぐもった響きとなり、広々したバスルームに立ちこめる湯気へとけていく。それはくるみが、思い描く品々を受け取ったときの彼の表情を想像しているからに他ならない。
二月の上旬。つまり間もなく控えているのは、女の子が恋情を伝えあう日。
SNSの画面には、広い世界の誰かが愛しい相手へ甘い想いと丹精をこめてつくったチョコレートがお行儀よく並んでは、くるみのゆびさきの動きと共に、上へ上へと流れていく。
——碧くんは、私のあげたものなら大抵は喜んでくれる。
気持ちは同じだしよく分かる。くるみも、碧がくれるものなら掛け値なしになんだって嬉しいからだ。
でもその愛情に胡座をかかずにきちんといい物で勝負したいというのも、乙女心。だからこそ、彼の本当の好みに刺さるものを渡せればいいのだが……。
——いっそのことそのまま、何がほしいか聞いちゃうべき?
と最後の手段を講じようとしたところで、ぴろんとスマホが着信を告げる。
他の人とは一人だけ違う音。碧からの連絡だ。
〈今バイト終わったよ〉
カフェタイムのみなら夕方すぎに帰れるため一緒に晩ごはんを出来るのだが、バータイムありの二十二時まで働く日は、くるみは彼の家で待ってあげることはできないので、こうして家でLINEで連絡を取りあっている。
——来年一緒に暮らし始めたら、もっとたくさん『おかえり』って言ってあげられるんだろうな。
卒業後のことをほくほくと待ち遠しく思いながら、手早く文字を打ち、紙飛行機のマークをそっとなでる。
〈お疲れさま。忙しかった?〉
〈結構ね。バレンタイン近いから、夜まではデザート系の限定メニューが出てる。最近は若いお客さんもふえてきてるしね〉
〈もしかして碧くんの淹れるコーヒーがおいしすぎて人気者に?〉
〈え? ふつうに違うと思うよ……〉
〈どうしよう? 碧くんが海外に行くのやめてすっかりカフェの店員さんになったら〉
〈ぜんぜんまさかなんだけど〉
〈和佐さんは『碧くんはお客様に好かれてる』って仰っていたのに〉
〈それは言葉の綾といいますか……〉
〈私も碧くんのファンのお客様と、碧くんのよさを語りたい!〉
〈ファンって諸説ありすぎるし冗談はよしてください〉
冗談じゃないのにな、とくるみは文字には打たずに、頬をぷくーっとふくらませた。
碧はなんと言うか……独特の生き様が滲み出たような空気や、何より佇まいが、格好いいもあるけど、とにかく綺麗なのだ。
だからくるみが言ったように、いずれ近所でこの街一番のすてきな店員さんだと評判となっても何もおかしくない。
——兎に角がんばってるみたいだし、明日会ったら誉め誉めの刑に処さないと。
なんてことを考えているうちに、ぴろんとトークが更新される。
〈そういえばくるみは来ないの?〉
湿度でやや曇りの出てきた文字を目で追って、きょとんとする。
〈来ないって何処に?〉
どういうことか分からず、くるみは素直に聞き返す。
何の話か、宛ては全くないでもない。でもまずは、本人が何を言いたいかを最後まで聞き届けるべきだろう。
兎に角、抱えたハテナをそのまま記号にして送ると、しゅぽっと続きを受信。
〈仕事してるとこ見てみたいって前にくるみ言ってたでしょ?〉
——!!
数秒の金縛りの後、しゅばばばっとかつてない速さで文字を打ちこんでいく。
〈それって行ってもいいってこと!?〉
〈他にもお客さんはいるしあくまで仕事中だからずっと構うのは難しいけれど……それでもいいならご招待しますとも〉
——ということは……
——やっとやっと! バイトをしている格好いい碧くんが見れる!?
もはや天にも昇る思いだった。
碧が何だかんだ来ても問題ないと思っていたとは知らなかったのだが、それはともかく。
降ってわいた、というかようやく取りつけることができた許可に、急上昇の喜びと幸福をなみなみと覚えながら、くるみは普段は淑やかな空気にぱあっと賑やかな花びらを散らす。
——どうしよう。すごーくたのしみ! 今月中には行けるかな?
自分以外に誰もいないバスルームで、うふふふとにやけながら、スマホで口許を隠した。
とはいえ、あんまり感情を昂らせては、さすがに湯船で逆上せてしまう。
返事はここを出てから、と思い立ちあがろうとしたところで、また手のなかが震えた。
〈まあこの話はまた後日落ち着いたらしよっか。もう家に着くからさ〉
今日正式な約束ができなかったことをちょっぴり残念に思いながら、了解のスタンプを送った。
しっかりと万全なスキンケアとヘアケアを施して寝巻きに着替えたくるみは、ベッドにちょこんと腰掛ける。
結局、何を渡すかはまだ決まりきっておらず、まずはその問題から片づけなければならない。なので去年はどんなふうに選んだか、記憶の上澄みをすくってみることに。
一年前のことははっきり覚えている。碧の好みにそぐうものを渡したいと、ドイツのケーキを調べたのだ。でも海外育ちの碧にとってはその日は男からプレゼントを渡す日だと、白で統一したきれいなブーケをくれて。
きっと男子高校生には、買うのも恥ずかしかっただろうに……。
そもそも、あげるはずの日にまさか貰えるなんて想像だにするはずない。花束を突きつけられたときの狼狽と羞恥とほのかな嬉しさは、記憶にはっきり刻まれていて、今思い出しただけで頬にみるみる赤くなってしまうほど。
湯上がりで火照りが落ち着いたはずなのに再燃してしまった両の頬を両掌で抑えつつ、ふとある想念が浮かび上がる。
——あれ。ということは……
はた、と動きを止めた。
——ぜんぜん考えてなかったけれど、もしかして今年もバレンタインに、碧くんは何かプレゼントをくれるのかもしれないということ?
と、それを考えてすぐにぶんぶんと首を振って、さらさらに整えた髪を揺らした。
約束もしていないのに人に何かを期待するというのは、貞淑さに欠けるものだ。勝手に物ほしがっているなんて彼に知られたら、それこそ恥ずかしい。
でも——と、棚に下げたドライフラワーを、熱のこもった眼差しで見る。
ひらひらのネグリジェの裾を握って、それから恥じらうように揺れる瞳を伏せた。
「……つき合ってからの初めての、バレンタインだもん」
やはり、碧からの愛情のかたちを夢見るのは、どうしてもやめられそうになかった。




