第235話 学校のおしどり夫婦(2)
近頃、仕事では、昼夜問わずオーダーが立てこむことが多い。
住宅街の一番はずれにあったはずの喫茶〈AdrableCafe〉だけど、そのさらにおくまったところに古着屋やらうつわ屋やらが近頃、並ぶようになった。このへんでお茶と一緒に休めるところはここにしかない。さらに駅まで戻るのもびみょうにめんどうという立地のおかげで、買い物ついでの来客がふえていた。
もちろんそれだけじゃなく、夜は夜で別の忙しさがあるわけで。
「いやー今日も忙しかったなあ。お疲れ様」
「お疲れさま」
すすいだワイングラスの最後のひとつをかごに伏せ、タオルで手を拭いながら、碧は湊斗の労いに答えた。
客が皆帰ったと言うことで、扉の札は〈CLOSED〉に裏返し、有線放送ではいつものジャズピアノではなく、先週にリリースされたばかりのJ-POPを再生している。
床にモップをかけながら、客の忘れ物がないかを見回る彼は、疲れを表情に滲ませることなく、にこにこと目を細めた。
「結婚式の二次会ってどたばただけど、やっぱ誰かが幸せそうなの見るといいよなあ。俺まで貰い泣きしちゃいそうになったわ」
「だなー」
本来はマスターが切り盛りし、深夜まで明かりを灯しているこのバー。
だが今日は貸切の予約もあってこの時間からだとお客さんも来ないだろうということで、午後九時にはすでに早仕舞いをしていた。
ピークの時間は、のんびりしてたらグラスの調達が間にあわずに下手すると出すものがなくなることもあるので、時間との勝負。だけど閉めた後は、人心地つくくらいの余裕があるので、二人でどうでもいい話をしながら後片づけをしていく。
すっかり空になったビールの樽を裏に運ぼうと持ち上げると、湊斗が思い出したように心配そうな表情となって言った。
「にしてもやっぱお前って可愛がられるタイプだよな。ご年配に」
「そうか?」
「とぼけるなって。さっきの着物の、仲人っぽいおばさんにすっかり気にいられて、娘さん紹介されそうになってただろ」
「湊斗。明日の予約は?」
「えーっと……二月四日は夜に二件だけだけど」
「了解」
話を華麗にスルーをした碧に、湊斗は不服そうにしたが、いったんの私語は慎みつつ予約帳を開いて、律儀に答えてくれた。
ビールの樽を運んでフロアに戻ってくると、湊斗は、仕事にかまけてばかりの碧があまり気にくわないのか、また関係のない話を振ってくる。
「というか二月って、もうそんな時期なのか。気づけばバレンタインも秒読みだな」
「よかったじゃん湊斗。今年は貰えることが確定してて」
「いちおう去年までもつばめはくれてたけどな。その意図を正確に汲み取れなかった俺が悪かっただけで。……碧はどうすんの?」
「くるみさんをぐっと来させるアイデアのこと? それなら考えはあるけどさ」
「うーん。それもあるけど今のはそうじゃないというか……」
湊斗は拭ったワインオープナーを棚に仕舞う。
様子のおかしい湊斗を碧は胡乱げに眺めていたが、彼はやがて難しい表情のまま、言葉をひとつ選んだ。
「つまりさ、お前ってすっかり彼女大事ーってかんじだろ。むしろ、こっちが引くほどに他が視界にはいってすらないっていうか」
「今さら何を当たり前のことを。で、それが何?」
「他の女子からチョコとか貰ったらどうすんだって話だよ」
「……??」
「何言ってんだこいつみたいな目すんなよ」
別にありえることだろ、と湊斗は嘆息した。
「彼女さんとして心配なんじゃないの?」
「湊斗。ビールサーバー締めるけどいい?」
「おう頼む。……って人の話聞かんかい」
掃除のブラシを取ろうとしゃがむや否や、すとん、と手厳しい手刀打ちが振ってくる。
こいつの心配しすぎるところのも玉に瑕だな、と思うけど、何も言わないうちは湊斗が解放してくれなさそうなので、そのままぽすぽすと地味に響く手刀をいなして返答をする。
「……。僕はくるみを哀しませる行動はとってないとはっきり断言できるし、もし知らずのうちにしてしまっていたら謝るし。だから湊斗が考えているようなことにはならないよ。だからまあ……断ることにはなるのは前提として、それを僕が事前にどうこうできるものじゃないから、考えてもしょうもないんじゃないかって思う」
自分はなにも、人の感情に鈍いわけじゃない。
日本語が伝わらない世界でははじめ、他人の些細な表情を見逃さず、身振り手振りだけを武器に生きてきたのだ。
まだ覚えきれていない拙い言語で話している時は、相手の口と眉の角度、視線を見る。
そこから、読み取る。今の発言で喜んでもらえたなだとか、今のは正確に伝わらずに困らせてしまったな、だとかを。
ゆえに、むしろ他人よりもきっと——その身に降りかかる好意も、悪意もそれなりに察することができる。
これまでの〈十七年間〉の見聞が生んだ揺るがぬ自信が、ある。
だから、湊斗の言っていることが、からかいや嘘じゃないことも分かる。
くるみの隣に立つためにがんばろうと決意してから、学校での自分の印象が前のとは全くの別物になりつつあることも、知っている。
それを理解したうえで——『だからなんだ』と、思うのだ。
たとえ自分が、学校の人に好かれるようになったからといって。
〈おしどり夫婦〉……くるみの彼氏として相応しい人間として認められたからといって。
誰かの想いで、自分のなかの大事ななにかや、選んだ気持ちや、下した判断まで、別物になってしまうわけじゃない。
碧がこれから歩んでいく道の隣には、唯一愛したかけがえのない存在がいる。
くるみとは、どんな瞬間だって一緒だ。どんな困難だって、二人で乗り越えてきた。
海外に行っている時も、距離はできても心はきっとすぐそばにいて。
大好きなくるみを、碧は生涯をかけて幸せにするつもりで、自分の人生の今後はくるみに売約済みで、他の誰かになびくなどありえないわけで。
だから、まだ見ぬ他人との成就し得ない〈もしも〉など考える必要もない。
躊躇はおろか考えることすらも、しない。それだけだ。
あいかわらずな眼差しのままの湊斗に、碧は手を動かしながら言葉を継ぐ。
「僕ってこう見えてさ、すげえ一途なんだよ」
「うん……知ってるけど。こう見えてってか、見たまんまっていうか」
「だからさ。そう思ってもらうのは嬉しいけれど、僕とくるみが相思相愛ってことは学校じゃ誰もが知ってることだと思うし。それを分かったうえでの行動なら、なおさら……答えられない」
「んー……まあ。そうだよな」
今の説明で納得したのかどうなのか、湊斗は曖昧に頷いた。
「とにかくさ。それは偶然これまでそういう目にあったことがないってだけで、お前が誰かの初恋泥棒になりかねないってことだけは覚えておけよ」
「そこで『うん』っていったらひどい自信家になると思うけど……うん」
湊斗は呆れたようにふっと笑ってから、それきり仕事に戻ってしまう。
見送ってから——それに、と碧は一人で考えた。
去年。文化祭が近づいたとある日に交わした言葉を思い出す。
くるみは言った。
『碧くんはずっと私だけ見ていてね。……他の子に目移りなんか、しないでね』
当たり前だろう、と当時の自分は思った。
勿論、今もそう思う。
優柔不断な真似などぜったいにしないし、そうでなくても、くるみを泣かせない、傷つけない——これは碧の根底となる、行動指針の一つで。
いつだって陽だまりのように温かな笑みを注いでくれていた彼女のことを、碧を信じて見守っててくれるくるみのことを、碧は他のどんな事柄より優先する。
そう思えるのは、くるみだけだ。




