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第233話 まっさらな日(2)


 そして、夜明け前のこと。


 マンションの前に送り届けてもらったふたりは少し短い睡眠をとり、六時にかけたアラームで目が覚めると、チョコとピーナツバターを塗ったトーストを焼いてサンドイッチにして包んだものと、熱い紅茶を詰めた水筒を持って、近所の小高い丘へと来ていた。


 初日の出を拝むためだ。


 東の空に、光はまだ涸れている。西の空に、星がまだ瞬いている。


 去年と今年が手を結ぶ境目を迎えて、けれどまだ一日が始まる前のような、どっちつかずの曖昧な時間。


 ぶろろ……かたん、と新聞配達のバイクの音が遠くから聞こえては途切れて、街のあちこちが目を覚ます気配がした。


 一日のなかで一番寒い時間なだけあって、息をするのも億劫なほど。太陽こそ昇っていないものの、すでにおぼろげな赤と紫を帯びた雲が空に明るみはじめているのを見てから、高台にある花壇の縁に並んで座る。


 少し離れたところにも、きっと自分たちと同じ目的であろうひとがぽつりぽつり東の方角を見ていて、ここのロケーションのよさを裏づけているようだった。


「さすがに眠いね」


 バッグをがさごそしながら、碧が遠吠えのような大きなあくびをしていたからだろう。


 くるみも眠気の残滓のせいか、普段よりピントのずれた空気で、やんわり言及してくる。


「なんだかんだ五時間しか寝れてないもんな」


「……ふぁ」


 こちらのが伝染したようで、くるみも鷹揚に手で隠しつつ小さなあくびをする。


 混じり気のないまっさらな空気に、隙間から白い息が、ふわ——ととけていった。


 視線が交じりあうと、恥ずかしいのをごまかすようにふふっと目尻を下げる。


「二度寝って本来はよくないもの扱いされてるわ。……でも今日だけは」


「昼まではぐっすり眠っちゃうか。寝正月って言うし」


「アラームもかけなくてもいい……?」


「もちろん大賛成」


 掃除に料理にと、あらゆる家事を行ったのだ。


 三が日まるまるぐうたらしても、お釣りが来るだけの労働はすでにしている。


 初日の出を見に来たのに、それを拝む前にすでに帰って寝ることを考えているのは、本来の目的を見失っている気がしなくもないが——何をするかより誰といるかが大事な、実にふたりらしい会話だ。


「くるみは寒くない?」


「厚着したつもりだけど、この気温だとさすがに、寒くないとは言えなさそう」


 黒い羊毛のセーターと白のダッフルコートのうえから、くるみは自分の体を寒さから守るように腕を回してさする。


 帽子やもこもこの襟巻きといった小物も欠かさず、お洒落にも余念がないが、どうしても、冷えた外気に晒された耳や鼻はほんのりと赤くなっている。


「上着、貸す。一枚余計に持ってきたから肩に羽織りなよ」


 せめてもとデイパックから取り出そうとしたところで、その腕にくるみがしがみついた。


 ふありと、白桃と茉莉花の混じりあった甘い香りが焦れったく立ち昇る。


「ううん。上着はいらない」


「寒いんじゃないの?」


「体温高めなこの人に分けてもらうからいい」


 人の気配がほぼないからか、外では珍しく大胆にくっついてくる。


 まるで子供が親に甘え縋るようなあどけない仕草は、本人にとっては大真面目なもののつもりらしいが、碧にとっては可愛すぎて心がざわつくものだった。


 彼女の意図しないところでハートを狙い撃ちされながらも、呻きをかろうじて呑みこみ、さらなる提案をする。


「でももっとあったかいほうがいいと思わない?」


「え?」


「陽が昇るまでこうしておこうか?」


 碧は着ていた上着のジッパーを降ろして前を開け、そのままダウンジャケットでくるみを包むように抱き寄せた。


「ほら。あったかい」


 耳へと帯びた赤みはもう、寒さのせいだけじゃないようだ。


 烟る睫毛を寝かせつつ、くるみはきゅっと唇を一文字に結ぶ。


「……碧くん、はじめはあんなに初心(うぶ)っぽかったのに」


「しかたないでしょ」


 自分からしておいて、碧も少しだけ照れたように言う。


「恋人できたの初めてだったんだから」


「じゃあこうしたら喜ぶっていうのも私で学んだの?」


「むしろくるみの喜ぶことしか、僕の辞典には載ってないよ。他の女子の好みなんかは何も知らないし」


「ふふ。そっか」


 回答が納得いくものだったのか、くるみは気持ちが充足したように喉を鳴らして、自ら摺り寄ってくる。


 ぴったりくっついて温もりを共有しつつ、スマホの時計を見ると、現時刻は六時半。


 東京の初日の出は、高度にもよるがおおよそ七時前だ。


 それまではまだ余裕があるので、水筒からまだ熱い紅茶をコップに注ぎ、拵えてきたサンドイッチの包みをひざの上に出した。


 やはり糖分は大事なもので、ピーナッツバターの濃厚な甘さが舌に染みたそばから、思考がどんどん冴えていく。寒さでみるみる紅茶は湯気が立たなくなり、猫舌の彼女にも優しい温度になっていた。


 碧としてはくるみとくっついた時点でもう体も心も芯からぽかぽかなので、紅茶はちょっとぬるいくらいが丁度いい。


 さらに言えば、くるみといるだけでむしょうに甘い気持ちになるから、チョコレートとピーナツバターだってもう少し砂糖控えめでもいいくらいだ。


 自分のぶんのサンドイッチがさきになくなったので、余った時間はくるみを眺めていることに。甘味を大事に大事に味わっている彼女は、こちらに気づいていない。


 まだ眠そうだなとか、本当に琥珀の宝石のように綺麗な目をしているなとか、目尻のほうの睫毛はくるんってしてるんだとか、サンドイッチ持ってるとリスみたいだなとか、くっついているのをいいことに好き勝手に鑑賞に徹していると——


「あ」


 やがて彼女の白い頬を、清らかな暁光が、澄んだオレンジに照らした。


 白んだ東の空が、本当の夜の終わりを告げたらしい。


 遠くに密集する建物のかげから、ちかっと。


 真っ赤な太陽が昇っては、あまねく世界を染めていく。


 きれいはきれい。だが正直なんでもない日の夜明けとそうかわらない。なんなら初めて飛行機から見た雲のうえの夕焼け空のほうが、ずっと記憶に深く刻まれている。


「……二度明けたね」


 さした感想も出てこずそう言うと、くるみは小さく苦笑した。


「実は私、あんまり初日の出にありがたみを見出せたことがなくて。というかそのせいで、きちんとこうして拝むのも初めてで。他の三百六十四日の夜明けと何が違うんだろうって思ってたの」


「現実主義だね。僕も同じく」


 勝手に期待されて待ち望まれた太陽からしたら、いい迷惑だろう。


 けれども隣にくるみがいるのであれば——やっぱりそれは美しいと思えた。


 一年のはじまりの日だからじゃなくて、愛する彼女が居てくれるから。こうして肩を寄せあって、一緒に夜明けの空を迎えること自体が愛おしい。だって、今日と同じ時間は二度と訪れないものだから。


 真っ赤に燃えるようだった陽は、すぐに黄金に透き徹る。


 すぐ隣には、澄んだ光のなかに碧だけの妖精がいる。


 ——何年たっても、今日のことはずっと忘れたくないな。


 遠い感慨に耽っていると、でも、とくるみが続けた。


「今日のはわざわざ見に来た価値があったかもしれないわ。だって——」


「僕が隣にいるから?」


「あ。それ私の台詞なのに」


 彼女も同じことを考えてくれていたことが手に取るように分かって、それがむしょうに嬉しくて、答えを先に当ててしまう。


「だって僕もくるみがいるから、ただの夜明けでも、きれいな夜明けに見えてるよ」


「……あおくんのロマンチスト」


 同じ台詞を言おうとしてただろうに、逆に言われるのは照れてしまうらしいくるみは、もぞもぞと額を押し当ててくる。それが可愛くて思わず笑うと、体の揺れで察知したらしい彼女は照れ隠しに、ますます額をすりすりしてきた。


 それ以上の言葉は要らず、尋ねるように頬をつつく。


 視線と息が絡みあい——ご来光のもと、どちらからともなく距離を詰め、交わしたキスは、ほんのり紅茶とお砂糖の味がした。


                *


 三が日すぎれば、正月の清らかな空気もあっという間に雑多な日常に上塗りされた。


 最寄りのスーパーマーケットでは、ワゴンに売れ残った鏡もちやらおせちの具材やらが積まれたかと思いきや、学校は平常運転を再開。慌ただしく日々の授業や課題に追われているうちに、二月はあっという間に秒読みとなり……


 やがては、そわそわが渦巻くあの季節がやってきた。


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