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第229話 Happy New Year(1)



 日本では、お正月は家族でまったりのんびり。あるいは新年のまっさらな日を厳かに過ごすものという文化が根づいている。


 ドイツにいた時はカウントダウンと打ち上げ花火でたいそう賑やかだったので、こういう日本らしい空気はひどく懐かしいものだったが——二年参りとなると案外そうでもないようだった。


「結構人すごいな。こんなに混んでる明治神宮は初めて見た」


「そっか。お前ずっと日本にいなかったもんな。テレビで中継されてるけど毎年こうだぞ」


 分厚いモッズコートを着こんだ湊斗が、さぞ慣れ切った様子で言う。


 気温はひどく低かった。空気は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、寒風に涙が勝手に滲んできて、肌も切れるんじゃないかと思うほどだ。


 どこか深い紺碧がかった夜空には、ライトアップやら都会の光やらさまざまな明かりが、天高く雲まで照らしている。月は隠れて見えないが、それでも十分明るい空だった。


 和佐(かずさ)とつばめは先に神社のほうまで行ったようで、とりあえず改札前まで来てくれた湊斗と会えたはいいが、駅前はどこもかしこも参拝客でごった返していた。あちこち人が歩いていて、視界が塞がれるほど。


 こうなると碧の心配はいよいよ高まってしまう。


 ——くるみ大丈夫かな。ちゃんと来れるといいけど……。


 今回赴いた明治神宮へは、碧ひとりで京王線と山手線を乗り継いでやってきた。


 というのも、くるみはお家柄の関係で、こういうシーンにはそれにふさわしい着物を身につけるのがお約束とのこと。なので一度自宅に戻って着替える必要があったのだ。


 それは全く問題ないし、碧もくるみの振袖を見れるのは嬉しいし待ち遠しい。ただの制服でも美女なくるみの晴れ姿なんか、見たいに決まっている。


 何より家訓関係なく、大好きな彼氏に可愛い格好を見せたい……といういじらしい想い自体が嬉しくて、くるみがそうしたいなら碧に否やがあるはずない。


 なので「外で待つよ」と言ったのだが「それは悪いし着つけに時間がかかるからさきに行ってて」と押し切られた。その後「集合の時間には間に合うから大丈夫」とのフォローもあったので、それに従うことにしたのだ。


 ちなみに碧は分厚いトレーナーに黒のダウンジャケットとマフラー。小さなショルダーバッグに貴重品だけを詰めている。ばっちり動きやすくあたたかい格好だ。


「そろそろ来る時間なはずだけど」


 帰りは湊斗の父が家まで車で送ってくれるらしいから心配は要らないとはいえ、問題は行きで、くるみひとりがただでさえ動きづらい着物で電車に乗るのはハードルが高い気がする。やはり一時間でも二時間でも待っていたほうがよかったか、あるいはいっそ今から迎えに——とぐるぐる迷っていると、スマホが鳴った。


〈到着したけれど碧くん見つからない……どこにいる?〉


 くるみからだ。すぐさま返信する。


〈改札の前にいたけどもしかしたら通りすぎたかな? 今近くに何が見える?〉


〈えっと……なんだか可愛いかんじの門がある〉


 写真が送られてくる。ここらで一番有名な『Takeshita Street』の文字が写っていた。


 明らかに間違えているのがそれで分かる。


〈それ違うほうから外に出てない? 出るのは表参道改札だよ〉


〈え〉


 迷子なのはともかくとして、何事もなくてよかった、と安堵のため息を吐いた。


 くるみよくも悪くも世情に疎いお嬢様というか……家事も勉強もできるくせして、我々が日常平気でこなす些事で、時々不思議になるようなうっかりをすることがある。


 今日は住み慣れた日本だからいいが、海外でそれをやられては問題だ。


 ——まあ今日は、いい練習になったということで。


〈迎えに行くからそこから動かないでね〉


 スマホをポケットに戻すのと、湊斗に言い残すのと、足を踏み出すのはほぼ同時だ。


「くるみさん迎えに行ってくるからそっちもさき行ってて」


「え? おう。なるべくゆっくり行くから追っかけてこいよー」


 浮き足立った参拝客のながれに逆らいながら、碧はくるみを探しに行った。


                *


「はぁっ……はあ。見つけた。……けどやっぱそういうの寄ってきちゃうよなあ」


 人と人の間隙を縫いながら、早足でもう一つの改札まで戻った碧は、若干息を切らしつつも、すぐにくるみを見つけられた。


 だがどうも彼女は見知らぬ男二人に絡まれている様子で。


 遠巻きにしたって、道を尋ねているとかじゃなく明らかにそういう系の連中なのは、あの大人しいくるみが迷惑そうなのを隠さず眉をひそめている時点でそうなのだが……距離が近づくにつれて、それが確信となる。


「お嬢さんすっごい美人。誰か待ってんの?」


「はい。なのでなにかのお誘いでしたらお断りします」


「でも待ってるのって友達でしょ? そしたらその子も一緒に行くのはどう?」


「彼氏です」


 くるみは愛想の欠片もなくばっさり切り捨てたが、相手もしつこい。


「それってお嬢さんみたいな子を放っていくような器の小さい彼氏ってこと? そんなのとより俺らと来たほうが、ずっといいと思うんだけどな」


 よく知りもしない相手からの罵りに、小さくため息を吐いた。


 でも今回は自分の判断がよくなかったので反論は出来ない。


 類稀なる美しい少女が着物で、しかも人待ちで心細げな表情で佇んでいるのだ。わざわざ振り返ってまで見ている人までいるほどで、だからこうなることも、初めから警戒しておくべきだった。


 でも自分がまっさきに拝むはずだった彼女の晴れ姿に、虫が寄ってくるのは正直おもしろくない。くるみも碧を待つ約束をしたから動けないのだろう。申し訳なさと同時に、自分の彼女にべたべたされたことで珍しく苛立ちを覚えながら近寄ろうとして——


「今なんと仰いましたか?」


 つい足が止まった。


「よく聞こえなかったので、もう一度伺ってもよろしいですか?」


「え? いや……だからその……」


「私の聞き間違えでなければ、私の知人に、言うに忍びない罵倒を仰られたと思うのですがあってますか? その結果『はい喜んで』と私が、のこのこあなたに着いていくと思われたのですか?」


 あくまで穏やかかつ鷹揚な口調で放たれる、けれども怜悧で凛とした問いかけが、彼らからへらへらとした余裕を奪った。


 くるみは、他人に対する隙のない控えめな笑みを浮かべている。


 だが抑揚なく同じトーンで紡がれる語調には義憤が、にこりと細められた瞳には剣呑な光がちらついているのが分かる。


「お言葉をひとつ訂正させていただくと、私は彼ほど器の広い人を知りませんよ。勿論あなたがたよりも」


 ——あ。これ。くるみめちゃくちゃ怒ってるな。


 正義や常識に対し高潔なまでに真っ当な価値観を持つ彼女は、もともとこの手のやからを忌み嫌う。そいつらがくるみの大事なもの——つまり自分の恋人を貶めたとすれば、もはや彼女に喧嘩を売ったようなものだ。


 だが、ひとつ気をつけねばならない。彼らが結果を考えずに人を悪し様に言うということは、そのまま短絡な行動を取りがちということで。


 予想どおり言葉に詰まった彼らが手を伸ばそうとする寸前で、くるみの肩にそっとふれて、自分のほうに引き寄せる。


 髪をまとめた花簪(はなかんざし)が、しゃらりと鳴った。


「ごめん。探したよ」


 よほど迷惑だったのだろう。体を引かれて驚いたくるみが、こちらを認めた瞬間ぱあっと歓喜を滲ませた。まるでさっきと別人のような様相に、彼らはぽかんと呆気にとられているが、本人はお構いなしどころか気にするそぶりも見せない。


 そんなくるみをさりげなく庇いながら、碧はなるべく穏便になるように言った。


「この子は僕の連れで彼女です。お兄さん達は、僕が彼女を余計に待たせてしまったところを見兼ねて心配してくれたんですよね?」


「え? ああ……まあ」


 と困惑もそのまま曖昧に頷くので、これで手打ちとした。


 近くには駅員も、交通誘導のために来た警察官もいるし、騒ぎにならないならそれだけむこうも助かるはずだ。


「では僕たちはこれで。ほら、行こうか」


「はい」


 手を握れば、くるみはそんな彼らはもう一切気にかけずに、蜂蜜のように糖度の高い、いつもの甘い甘い笑みに戻る。


 とろけるほどに可憐で柔和な表情を、碧だけに見せてくれる。


 その尊い笑みの残光に灼かれたか、言葉も出ぬまま追い縋ることもできず、惚けたようにぽつねんとする彼らから離れたところで——立ち止まった碧は大きく息を吐いた。


「遅れてごめん。会えてよかった。大丈夫? 何もされてないよね?」


 矢継ぎ早に問う碧に、くるみは申し訳なさそうに瞳を伏せた。


「ごめんはこっちの台詞。ありがとう迎えに来てくれて。碧くんに迷惑、かけちゃった」


「うん。それはぜんぜんいいんだけど……でもあんまり人を煽るようなこと言うのはよくないよ。ただでさえ着物で目立つのにわざわざ危ない目に首突っこむような真似は……」


「あう。……聞いてたの」


「ばっちりね。くるみが怒ってるの、僕もしかしたら初めて見たかも」


「うん。怒るに決まってる」


 くるみは静かにきっぱり伝えると。


「……碧くんのこと大切だもん」


 ぽつりと、それでいてはっきり届く音量で呟いた。


 それで喜んでしまうのはさすがに暢気すぎるかもだが——あの温厚なくるみが碧のためにここまでご立腹することに、言葉にできない喜びを抱いてしまうのは、どうしても止められなかった。


 止められなくて——それでつい、言ってしまう。


「それはそうとさ。僕は別に、誰かに何か言われるのには慣れてるんだよ。理解されづらい人間だっていう自覚はあるしさ。くるみの彼氏となるとなおさら素晴らしい人間が出てくるだろうって、ああいうやつらも思うわけで。だから、あんまり気にしないでほしいんだ。僕もくるみが大切だから、必要以上に嫌な目にはあってほしくない」


 常に怜悧で感情を乱さないくるみが、状況を考えずああまで言い返したのは、ひとえに碧への想いが大きいがゆえだろう。


 だからこそ嬉し恥ずかしさもあってあまり叱れないのだが——そこで、きゅっとダウンジャケットの裾が握られた。


 思わず見て、ぎょっとしたのは、くるみが肩を震わせながら泣きそうな表情になっていたからだ。


「え……く。くるみさん」


「慣れてるなんて言わないで」


 きっぱりと烈しい語調にはっとして見詰めれば、ヘーゼルの瞳がそこに潜む感情を、雄弁に語っている。その目は揺らぐことはあっても涙を零すことはない。服を掴んでいた拳ゆるりと解け、降ろされた小さな白い拳は堅く握られている。


 そこでようやく、今のくるみの表情が怒りに由来するものだと分かった。


 憤りの対象が碧そのものでなく、碧にそう言わしめた昔の誰かだということも。


「言わないでほしい。碧くんは誰かにそういう言われかたをしていい人間じゃないから。慣れちゃだめなの。……私の大切な人だから、慣れないでほしい」


「あ——」


 今度は遅まきながら、自分の謙遜が聞き手にとってよくないものだったと理解する。


 くるみが他人に憤怒してまで守ろうとしたものを、碧は自分でぞんざいに扱ったのだ。


「そうだよね……ごめん。くるみの気持ちを考えられていなかった」


 拳はまだ解けず、繊細な風采がずいっと迫る。


「ちっとも分かってないじゃない。私の気持ちじゃなくて自分の気持ち。いい?」


「は……はい。僕の気持ちを、考えられてませんでした」


「碧くんはそれでいいの。そういうのがいいの。分かった?」


「はい分かりました」


「いい子。だからこの話はおしまい」


 重みのある絹の袂を揺らして、ぽんっと手を打って終了させたくるみは、表情に柔らかなものを戻す。


 碧は未だに虚を衝かれたまま、それをぼんやりと目に映して思う。


 自分をこうも守ろうとしてくれる存在は、親以外はかつて世界の何処にもいなかった。


 碧は琥珀を、親しい人を、平和な暮らしを守ろうと志して、けれど逆はなくて。


 でも今目の前にいる少女は……愛しい彼女は、碧を第一に考えて優先し、時に喜び時に愁い、涙して怒ってくれる。文字どおり、掛け替えのない存在で。


 その事実が今、沁み渡るほどに嬉しかった。


 碧がもう一度だけうんと頷くと、くるみもこちらの手を宝物を扱うように、優しく大切に包む。碧もそれ同じくらい優しく握り返す。


 機嫌を直してくれたかと思いきや——。


「ところで碧くん」


「え?」


「彼女が振袖着てきたときはどんなことをするとよいでしょうか」


「……よく見て感想を伝える?」


 いつも碧がやってることだ。


 ただ、さっきから事情が事情なだけに、じっくり鑑賞する余裕がなかった。


 くるみはほんのりと赤くなりながら上目遣いでこちらをじっと見る。熱っぽいまなざしに、鼓動がどくどくと早くなる。


「今日はしてくれないと思った」


「そんなことっ……は。ないけど」


「じゃあ今してくれる? 碧くんに見せびらかすために着たから」


 いつになく直球なことを言うと、くるみはとてとてと動き、いつもより狭い歩調で碧から少し離れたところに立つ。


「っ——」


 ようやくまともに最愛の彼女の晴れ姿を目に映し、矛盾したような言葉遣いだが、碧は何度目か分からぬ一目惚れをした。


 彼女が着つけていたのは、正絹で織られた京友禅の振袖というのもだった。


 正直着物なんてぜんぜん馴染みがないし分からないのだが、出版社勤めの母が前に見せてくれた雑誌に載っていたのが、妙に印象に残っていたのだ。


 早咲きの桜を思わせる淡い桃染(ももぞめ)の長着にあしらわれたのは、いくつも重ねた瑞雲と、牡丹と椿の柄。


 金箔で彩られた帯を締め、全体としては格式高く華やぎがある。なのに持ち主の上品さを損なわず、楚々とした気品あるデザインを両立している。


 新春の明るいイメージをそのまま体現したようなその女の子らしい色あいは、くるみが醸す儚げで可憐な空気に、これ以上なく似合った。


 亜麻色のロングヘアは、横髪を残して編み込まれており、結い上げられた上では花簪(はなかんざし)の揺れものが(あるじ)の美しさをいっそう引き立てている。


 まさしく正統派の和服美人。


 改めてあまりの綺麗さに言葉を失っていると、くるみが不安げにこちらをうかがった。


「どうかな? ちょっとはり切りすぎた……?」


 悄然としてしまうくるみに、碧は慌ててフォローする。


「いやっ違う! その、くるみがあんまり振袖似合っているから、見惚れちゃって……。それに振袖の着つけまで出来るなんて、僕の彼女は本当すごいなって尊敬もあるし。ほんと何でも着こなすんだなってびっくりした。いつもより大人っぽくてすごく可愛いよ」


 そこはさすが淑女の鑑と言ったところか。


 今着ている振袖も、借り物ではなく自前のだと、事前に話していた。


「さすがに振袖だから、ひとりで着つけるのは手が足りなくて。ちょっと、じゃなくてすごく苦労したけれど。そっか……可愛いなら、よかった」


 くるみは恥じらうように瞳を伏せ、果実のようなくちびるを弛ませながら、ゆびさきをもじもじと摺り合わせる。そんなちょっとした仕草すら、今のくるみがやると嫌になるほどつやっぽい。


「今日は混んでいるから、また他の人に声かけられないように離さないでくれる? ……私は碧くんのくるみなもので」


 その愛らしさといじらしさに心の表面がむず痒くなりながら、碧も彼女の華奢な手にそっと指を絡ませる。


「勿論。何なら誰にも拐われないように、年が明けるまでお姫様抱っこしてようか?」


「……本当? じゃあおねがいしてもいい?」


 これ見よがしにくるみが悪戯っぽく見上げてくるので、調子よく冗談のつもりで言った碧は冷や汗を垂らす。


「……本気なんですかくるみ様」


「男子の一言金鉄の如し。なのではなくて?」


「……その、年越し一分前になったらでいい?」


 碧の逃げの一手に、くるみはくすくすと鈴を転がすように笑った。


 動くたびに、銀鎖で表現された枝垂れがゆらりゆらりと揺れ、七宝焼きのような白梅の花がしゃらりとかすかに鳴る。それがなんとも言えず清楚でおくゆかしい。


「ふふ。冗談。振袖って結構重いんだから。碧くんが抱き上げるには、まだちょっと早いかもね?」


「いけるし……」


 彼女はもとより羽のように、とは言わずともかろやかなほうだ。それをひょいと抱え上げることができるくらいに最近は力もついてきた。まぁ、何十分も持続できるかで言えばまた別問題なんだけど。


 くるみが喜ぶなら横抱きの特訓でもしようかな、なんて除夜の鐘でも祓いきれない煩悩をぽわぽわと浮かべていると、くるみがきゅっと碧の腕を優しく引いた。


「ほら、みんなのところに急ごう。早く行かないと今年が終わっちゃう」


「湊斗たちはさきに神社のほう行ったってさ。人多いからはぐれないようにしないと。着物だと動きづらいだろうしエスコートして差し上げましょうか? お嬢様」


「? さっきのはエスコートじゃなかったの?」


 やはり、彼女のほうが一枚上手のまま、年を越すことになりそうだ。


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