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第226話 恋人との年の瀬(1)



 十二月三十一日。


 みんな大好きなクリスマスが終われば、日本の街も掌を返すのが早いもので、ツリーは門松へ早替わり。翌日にはもうすっかり年末らしい空気がただよい始めた。


 そして今日は一年が終わる最後のラストデイ——大晦日だ。


 一年の終わりの風物詩と言ったら、人は何を思い浮かべるだろう。一獲千金の宝くじに紅白歌合戦、あるいは大掃除?


 碧はあまり日本のそういう常識に馴染みがない。もちろん海外暮らしが長かったからだが、それが災いしたためにとある小さな事件が、大晦日になっておきていた。


 だが——まずはそれを語るよりさきに、前説が必要だろう。




 年の瀬は大抵、実家に帰ったり家族で炬燵にこもったり、例年の習慣に従って同じ過ごし方をする人が多いかもしれないが、碧とくるみに至っては少々違った。


「年末年始、実家に帰らなくていいの?」


 我が校のスノーホワイトことくるみ、改め碧の恋人から電話があったのは、三日前——二十八日の午前。


『うん。行きたい大学があるなら、しっかり勉強に充てなさいって母が。帰ってくるのは、二日の夕方ですって。さっき新幹線に乗ったから今うちは私だけなの』


 以前よりずいぶんと子心の物分かりがよくなったものだ……と、碧は驚かされた。


 何よりくるみのいつもどおりの甘く涼やかな声が、けれどもいつもよりはずんでいて。ほのかな喜びが伝わってくることに、碧は喜びを抱かずにはいられなかった。


「そっか。上枝さんは?」


『三が日まではお休みみたい。今日が最後のお勤めで、必要であればその前にちょっとした料理をして残してくれるっては仰ってたけど』


「なるほど……」


 しばし考えこんで、思い浮かんだアイデアをそのまま電話口に告げる。


「そしたらくるみ、うち来る?」


『え?』


 意表を突かれたような様子に、補足の言葉を連ねる。


「家でひとりきりってのは寂しそうだなって。お正月終わるまでうちにいればいいよ」


『けど……その。いいの?』


「恋人同士が一緒に寝泊まりするのに理由っている?」


『い……要らないけど! じゃあ……お、お言葉に甘えて』


 まだお泊まりはあまり慣れていない恋人の、どこかぎこちなく上擦った返事に、碧は自分を棚に上げてふふっと笑った。


 スマホのむこうからはむっと怪訝そうな返事が来る。


『どうして笑うの?』


「いや……何を考えてるのかと思って」


『何をってなに?』


「さあ……なんだろう」


 曖昧に返すと、一瞬の間が空いてから、紅潮した返事が鋭く耳を突いた。


『なっ。何も考えてないから!』


「じゃあなんでそんなに動揺してるんでしょうか」


 もちろん碧自身も、この間くるみと同じベッドで一緒に寝たのを思い出したらのたうち回ってしまいたくなるくらいには、慣れてはいない。


 くるみのすやすや寝ている、神聖なまでに犯し難い様子を眺めることでなんとか平静を維持していたものの、あれ以上の誘惑をされたとなれば、宮胡との密約があったとはいえ、狼になって手を出さずに済んだとは断言できない状況だった。つまり、今のは彼女には格好いいところを見せたいうら若い高校生なりに余裕ぶったやり取りなのだった。


 もっとも、その未熟な余裕は、いじけた響きの次の一言で瓦解するのだが。


『それを言わせる碧くんがいじわるなのでお泊まりはやめることにします』


「えっ」


 足をすくわれるとはこのことだった。


「それはいやですごめんなさい。僕が悪かったです」


『素直でよろしいです』


 くすくすと、春風のように穏やかで上品な笑いがかすかに聞こえた。


 こっちの弱点を分かっていてカウンターを仕掛けてきたな、と分かり、くるみが目の前におらずに今のこの気持ちをすぐに発散できない状況がむしょうにはがゆく思えた。ソファの前にゆるゆるしゃがみこみつつ何ともいえずため息を吐く。


 くるみの親との約束が限定するのはその日のことだけで、後のことについてはなにも言及されていない。とはいえ今の自分に万一の責任を果たす力はないし、抱きすくめたくるみから伝わってきた感情を思い出せば、双方鑑みてまだ早いだろうと判断して、卒業までという期間延長を申し出たことは間違っていなかっただろう、と思う。


 思うのだが——


「こんな可愛いとちょっと自信ないなあ……」


 もちろん一度口に出したことを嘘にはぜったいに、それがくるみとの約束ならなおさら反故にはしないが、これじゃあ今後の自分の苦労がひどく心配だ。


 こんな数分ちょっとの電話でさえ、自分がくるみに惚れこんでいることをしみじみ思い知るのだから。


 しかし電話口のくるみは、こちらの複雑きわまる想いを理解していない様子で。


「なんだか今日の碧くんはちょっとへん。今度こそ何の話?」


「いや、こっちの話だよ。家まで迎えに行くから荷物まとまったら教えて。そしたら食材の買い出しをしてからうちに帰ろっか。くるみはばたばただろうし、お昼は僕がなんかするけどいいよね?」


『うん。ありがとう。私の勝手な言い分だけど、碧くんが日本にいてくれてよかった』


「僕も日本にいてよかった」


『ふふ』


 懐かしいことに去年はドイツに帰っていた。


 だが今年の年末は、くるみとの時間を優先したいということで、飛行機の予約は取っていなかった。それがなんと巡り巡って、次の春休みにくるみと一緒に挨拶のための訪問が確定したため、結果としてはよかった訳だ。


「じゃあ後で迎えに行くからね。着替えてくるから連絡ちょうだい」


 電話を切ってから、改めてスマホのカレンダーを見る。


 バイトのほうも問題なし。湊斗のカフェバーは年末年始はきっちり店を閉める方針で、おかげで碧も数日間は、愛しの恋人との穏やかな時間が舞い降りてくるというわけだ。


 この後は宣言どおり玄関までくるみに会いに行った。遠出の予定もないし、買い物は外に出なくていいように、彼女の采配のもと一週間ぶんをまとめて購入。


 お正月のまったり暮らしは約束されたと言っていい。


 そして今に至る——のだが。


「こら碧くん。床は四角いんだから、掃除機をかけるときは丸くかけるんじゃなくて、隅から隅までするの。はたきで落とした埃もしっかり吸うこと」


「は。はいっ善処します。……これが終わったらどうすればいい?」


「さっき分別したお古のタオルで床を拭いてもらえる? 私は玄関とベランダを箒で掃いてきます。……さぼっちゃだめだからね?」


「手伝ってもらってるのにそんなことする訳! ……ていうか手伝わせてごめんなさい。僕の普段の掃除が甘かったばっかりに」


「そんな申し訳なさそうにしなくても。甘いとかじゃなくて、ただ気持ちの問題で、したほうがすっきり来年を迎えられるだけだからあまり気にしないの。私もお掃除は好きだし、そんなに苦労はしてないんだから。ほら、さっさと終わらせてゆっくりしましょう?」


 初めはよかった。


 一緒に冬休みの課題をして、キッチンに並んで料理をして。後片づけしたら映画を再生して。ゆったりのんびり恋人との年の瀬は、充実としか言いようのない幸福な時間だ。


 けれど事件は三十日の夜に訪れた。


 くるみの「そういえば碧くんって今年はきちんと大掃除したの?」という何気ない問いに答えられず黙りこくった結果、大晦日の午前早くからにして、こうして大掃除が決行されたのだ。


 そうだ日本では大掃除という文化があるんだった……とすっかり忘却していた碧は、午前中からばたばた働く羽目になったわけだ。


 お掃除好きが高じてか、世話好きが高じてか。シンプルなジーンズにシャツという格好に着替えた〈家事手伝い妖精〉ことくるみは、可愛らしいお小言や励ましとともに、家主の碧以上にきびきび働いている。羽目になったと言うならばむしろ、彼女のほうだろう。


「碧くん。この段ボールはなに? 空っぽだけど捨てる予定はないの?」


 玄関へつながる扉から、くるみがひょこっと顔をだす。


「あー……引っ越しのときに再利用できるかなって」


「一年以上さきなのに?」


「本当は捨てるのがめんどうだっただけでした」


 壁に貼ってあるごみ収集カレンダーを、腰に手を当てたくるみがじっと睨む。


 すぐに小さな可愛らしい嘆息が聞こえたので、次の言葉は予想がついた。


「もう今年の回収は終わっちゃってるみたい。年始に出せるように、今のうちにきちんと畳んで紐で結んでおくこと。次は一月四日だからその時までに。よろしい?」


「よろしいです……」


 采配まで振らせるのが本当に申し訳なくて、これが終わったら至れり尽くせりにしてやろう、と心に決めながら、捨てる前のタオルをぎゅっと絞った。


                *


「ふう——これであらかたきれいになったかな」


 大晦日ということもあり、あまり本気を出したりして徹底しすぎず、あくまで午前中の二時間までという制限のなかで出来ることをやった。


「くるみとしては何点?」


「お疲れさま。うーん……時間の兼ねあいで完璧には出来ていないから……及第点?」


「はい。……来年はもっと早く着手するようにします」


「その時にはもう受験の直前でしょ? お掃除は私に任せて、あなたはお勉強を優先しましょうね」


「それは同い年のくるみもじゃないの?」


「私はその頃には早めに合格をもらっている予定だからいいの」


 なんて応酬をしながら、ふたりの達成物を眺める。


 窓の透明度が上がったおかげで差しこむ光は明るいし、床もしばらく拭いていなかったから、見違えるほどとは言わないが結構きれいになった。まあ……掃除の秘訣を心得ているくるみのおかげが大半なのだが。


 ついでに来年の干支の鏡もちもテレビボードに載せて、新年を気持ちよく迎える手回しは万全と言っていいだろう。


「じゃあ私はおせち料理の支度をしてくるから」


 と思いきや、くるみは当たり前のように働き続けようとするので、碧はちょっと心配になった。


「そっかおせちがあるんだった。……でも買うんじゃなくて家でつくれるものなの?」


「勿論。むしろこの間のフライドチキンで学習したとおりよ。こういうのは事前に予約しないとなかなか買えないんだからね? 碧くんはがんばったんだし、ゆっくり休んでて」


 そういえば購入品のなかに、碧が普段は見たことないようなものが複数あった。あれらがおせちになるのだろうか。


 なんて思い出しているうちにくるみがキッチンへ行こうとするので、咄嗟に申し出た。


「いやそれなら僕も手伝うよ。教えてくれればできる限り。というか一緒にやりたい。何すればいい?」


 気遣いはありがたいが、ここで言われたとおりごろごろは言語道断、人としてやっちゃいけないと思ったので、腕まくりしてキッチンへ飛びつく。


 正直おせち料理を拵えるのにどんな手間がかかるかは全く知らない。日本で暮らしてた昔の記憶によると、大晦日に母と一緒に車に乗って、重箱の受け取りに行っていた気がするからだ。でもおせちがどういう手順を踏んで出来るものなのかは興味がある。


 くるみもそのへんは察してくれたのか、押し問答なく頷いた。


「じゃあ……おねがいしようかな。まずは手始めに野菜を切ってくれる?」


「りょーかい」


 かくして、今度はおせちづくりが始まった。


 以前から手伝いはしているし、近頃はバイトでちょっとした賄いづくりも任せてもらうようになったので、包丁遣いは前よりましになっているはず!!


 ……なんて思いながら紅白なますにする大根と戦いつつ、隣を見る。


 そこには「ほんとに女子高生?」と言いたくなるほど、熟年の主婦もびっくりの風格と手際で、台所を行ったり来たりするくるみが。


 さすがにかなわないなあと思う間にも、重箱を埋めるための品が、次から次へと仕上げられていく。


 昨今は予約して済ますことが多いおせちを一から生み出せる十代がいることには驚きだが、それをやってのけるのがくるみだと知ると、不思議と仰天はどこかへ行ってしまう。かわりに残るのは納得だけだ。


「くるみってほんと、卒ないよなあ」


「そう……? これくらいは皆してるんじゃ?」


「こら。世のお母様がたに怒られちゃうぞ。自分のすごさを自覚しなさい」 


 今は黒豆と栗きんとんをそれぞれ小鍋でことこと煮ているようで、その隣の皿には、焼いたばかりの伊達巻が、鬼すだれに巻かれて休まされていた。


 品目からしてそれでは間に合わないということでオーブンも稼働しているらしく、後ろではのし鶏、つまり松風焼きがじっくりとローストされていて、じんわり香ばしい匂いと熱風を届けてくる。


 空腹をそそる匂いを嗅いでいると、ふと昼ごはんがまだなことに気づいた。


「そういえばもう二時だ。くるみもお腹空いてるよね。お昼は僕が、てきとーに何か買ってくるでもいいかな」


「あ……そっか。今お鍋から目離せないから、おねがいしてもいい?」


「うん。余ったら夜に回せるように、ちょっと多めに買ってくるよ」


 くるみは食が細いほうなのでそこまで量はなくてもいいが、今日は大晦日だ。年明けまで夜ふかしするなら、晩ごはんの後でもどこかで小腹が空くタイミングはあるだろう。


 ダウンジャケットを羽織り財布とマイバッグを持って、玄関でスニーカーの靴紐を結んでいると、くるみがなぜか後ろをとことこ着いてきた。


 優美な眉を物言いたげに、八の字に下げている。


「どうかした? 何か買ってきてほしいのあった?」


「んーん。……わたし手が回ってなくて、寒いなか申し訳ないなって」


 床にひざを着いて、ダウンジャケットの捲れた襟を直してくれた。


「? 何も気にしなくていいのに。ていうかくるみのほうが僕よりずっと働いてるしさ。ほら鍋が焦げないように見てないと」


「碧くんじゃないから焦がしません」


「あ。言ったな」


 ぷにぷにの柔らかな頬を、焼いたおもちを伸ばす要領でにゅーんと引っぱれば、くるみの口からは「ひゃあ」と、まんざらでなさそうな悲鳴が洩れる。抵抗なくされるがままなのも、こちらに弄られるのを彼女も何だかんだ好んでいるからだろう。


 もっと可愛いリアクションを引き出したいがために捏ねまわしたい気持ちがあるが、葛藤の末に一瞬のスキンシップに留めることに。叶うことならあと五時間はここでいちゃつきたいところだがそれをすると本当に鍋が炭になるので、名残惜しく離れて立ち上がる。


「じゃあ行ってくる」


「行ってらっしゃい碧くん。……早く帰ってきてね」


 玄関扉が閉まる寸前、すべりこみで聞こえたいじらしい恋人のおねがい事に、碧はにやけそうになりながら、エレベーターまでダッシュした。


章題は思いつかなかったのであとから変えておきます

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