第222話 聖なる夜に(1)
思ったより長居してしまったようで、外はもう硝子のようにしんしんと鋭利な夜気が、宵の霜となって降りていた。
みぞれも止んでおり、澄んだ夜空にはまだところどころ分厚い雲はあれど、隙間からは月光が降り注ぎ、トナカイのそりを探すには十分なくらい晴れている。
荷物をまとめて外に出た碧は、外灯の下でスニーカーのつまさきをポーチにとんとん打ちつけ、体ごと振り返った。
「今日は、ほんとうにお世話になりました」
「もう帰ってしまうのか……早いなあ」
しょんぼりした友晴に、碧は思わず笑って目を細める。
同棲の許しを出したあとの彼は、すごかった。
——年頃の女の子なのだから防犯を考えて、上階でオートロックのあるしっかりしたところにしたほうがいいだろう。いや、ぜったいそうすべきだ。
——だがこれは私たち親からの勝手な要求だ。そのぶん家賃も嵩んでしまうだろうから、足が出たぶんは言い出した者として責任を持ってきちんと仕送りさせてもらう。いいね?
と捲し立て、こちらに遠慮する隙も与えなかったのだ。
でも、碧には分かる。
あれもこれも親の都合のように見せかけて、実のところは娘の門出を祝っているからこそ手助けしたい親心なのだと。くるみの自立を尊重したいからこそ、ああいう言い回しになったのだろう。
ちなみに〈わざわざイブに来てもらったことのお詫び〉ということで、今日だけは親公認で外泊を許してもらった。くるみの母がこの後大学に戻らなければならないからだそうだ。
くるみは今、着替えを取りに急ぎで二階へ行っている。もちろん、条件として万が一にも危ないことや学生らしからぬことはしないように、と裏で碧は遠回しに釘を刺されているわけで、前回より健全なお泊まりになりそうだが。
「宮胡さんも、ケーキおいしかったです」
「いえ。ほとんどはくるみの手によるものですから。感想はあの子に言ってちょうだい」
「碧くん。君のお父さんは海外なのだろう? ということは娘もまだ会ってはいないんだね? お母さんのほうとは仲よくさせてもらっているとはいえ、娘がお世話になるのなら、そちらにも一度ご挨拶とでも思ったが……帰国予定はないのかな?」
「当分はないみたいです。ですがいずれくるみさんとは海外旅行をする話も出ていました。行き先は僕の父親がいるドイツにって話していたので、丁度都合がいいかもしれません」
「そうか。そうしたら君が娘を改めて、ご両親へと会わせてくれないか? むろん今すぐとは言わない。今時はオンラインもあるとはいえ、直接会ってのご挨拶もなしに一緒に住まわせると言うのは、私たちの世代の常識からしたらどうもね……」
「はい。分かりました」
「じゃあ娘をよろしく頼むよ」
宮胡が眉根を寄せた。
「はぁ。あなたそれ、なんだかまるで結婚の挨拶みたいね」
「いやいや! 私はなにもそこまで許した覚えはないぞ」
「何を仰いますか。娘をご両親へ会わせて挨拶をさせるだなんて、もうそこまで見据えているからに他ならないでしょうに」
「それは……」
「お父様。なんの話?」
「あっくるみ。いや何でもないんだよ。ははは」
着替えを詰めたボストンを持ったくるみがいつの間にか後ろにいて、友晴は目の下を引きつらせる。
くるみは不思議そうにこてんと首を傾げるも、靴を履いて碧の隣に来た。
重たいボストンを持ってやれば、友晴が改まって言う。
「僕の手助けなんか、ふたりには必要なかった。そんな君たちならどんなことだって実現できると思う。卒業まではまだ一年ある。後悔しないように、しっかり励むんだよ」
「はい。今後もよろしくおねがいします。次は略さず、もうひとつのほうで呼ばせてくださいね」
「いやそれはまた別の話だからな!」
冗談を挟みこむと、友晴は笑って手を振った。
「じゃあ碧くん、また連絡するからね」
「二人とも仲よしなのはいいことだけれど、羽目は外さないようにするのよ」
そうして最後に、夫婦はよく似た笑みを同時に配り。
この数時間で挑んだ、二人の今までで一番大きなクエストのわりにあっさりとしたお別れの挨拶で、玄関の扉が閉められたあと。
「……——」
じっとドアを見つめていたくるみは、碧の二の腕をぎゅっと掴む。
碧は、自分より少し低いところにある榛の瞳を見つめた。
くるみも雪山のオコジョのようにこちらを見上げて、同じように見つめてくる。ぐるぐるに巻かれたマフラーの下から、白く染まった息が夜にとけた。
「許可。もらえたね」
「……うん」
白磁の頬には涙の跡はまだ残っていて、月明かりに光っていた。
碧はそのことにはふれずに言う。
「会って分かったけど、案外くるみと似ているところはたくさんあったよ。ものの考え方とか価値観とか、あとは表情とかも。違うところはあっても、近しいところも確かにある。やっぱ親子なんだよな」
「……そっか」
今日のことを振り返っているのか、くるみは静かに目を伏せる。
「まだ現実味がない?」
「……うん」
「今日はいっぱい、いろんなことあったもんね」
くるみのマフラーを直してやりながら、碧は優しく語りかけた。
「でも降ってわいた幸運じゃなくて、くるみが真正面から説得した結果だよ。自分で行動を取れる格好いい君だから、こういう結果を掴めたんだ」
気持ちの整理がつかず言葉が見つからないのか、くるみは時々喉を詰まらせながらも、辿々しく言う。
「……でもこんな日が来ると……思わなくて」
「うん。結局みんな、言葉にしていなかっただけでくるみが大事だったんだよ。それで言うと上枝さんも、少なくとも前々からくるみのことはすごく大切に思ってるみたいだった。それは保証するよ」
「え? なんで碧くんが?」
「うーん……それは……秘密かなあ」
眉を下げて不思議がるくるみに微笑んで、楪家を出る。
初めはよそ者を寄せつけないように見えた門扉も、今は碧を迎えいれて、この家の住人の想いを乗せて、娘の門出を祝福しているように見えた。
碧は今回の訪問で、楪家の事情をぜんぶ把握したわけじゃない。
ただ、きっとみな不器用だったんだ、と思う。
想いあっていてもすれ違うことはある。重い事実だから言えないこと、照れくさいから言えないこと、仕事だから言えないこと、怖くて言えなかったこと——そういう些細なマイナスの積み重ねは、少なくとも今日で瓦解させられたんじゃないだろうか。
「にしても、まさか今日のお泊まりまでOK貰っちゃうんだもんなあ」
シリアスな空気もそこそこに、くるみのなめらかな頬が、かあっと火照る。
放熱すべく、彼女は冷えた手で両頬を抑えながら言い返した。
「そ。それは碧くんが父と仲よくなりすぎたからでっ」
「ほどほどにしといたほうがよかったか」
「わ……分かってて言わせようとするのはいじわるだと思うっ」
少し冷たい程度の手では、熱をどうにかすることは出来なかったらしい。
真っ赤なままむっと睨んでくるが迫力の欠片もなく、碧にとってはただひたすら可愛いだけなので笑って済まし、手を優しく引いて道を歩く。
それでもなお〈懐柔されません〉な抵抗がめらめらと燃える目をしているので、手をつないだまま親指でくるみの掌をくすぐる、という器用な真似をすると、ますます赤くなった代わりに金縛りにあったように動かなくなった。
実は碧も、くるみとこうして手をつないで歩くだけで結構ドキドキはしているのだが、それを知られると反撃の火種とされてしまうので、隠すことにしている。
「ほら拗ねない拗ねない」
「うう。碧くんのばか」
「予約はしてなかったけど、買えそうだったらフライドチキンでも買ってこうか?」
「フライドチキン……外では食べたことない」
「よし。じゃあ今日は買えるまで街中回ろう」
「べっ別にそこまでしてくれなくても!!」
慌てて止めにかかられ、すっかり間に受けていたくるみが可愛い碧は、またせらせらと笑う。実は冗談ではなく半分は本気、というよりくるみが希望するなら本当にどこにでも探しにいくつもりなのだが。
「そうだ。今日まだ言えてなかったんだけど」
聖夜のきらめく夜風に、白く輝いて見えるくるみを見て。
「今日はやったね。あとメリークリスマス」
「……うん。メリークリスマス!」
明日まで一緒にいるために、よき夜にするために。
寄り道して、それから同じ家に帰ろう。
自ら歩みたい道を切り拓いた二人のこれからを祝福するように、どこか遠くから鈴の音が鳴ったような気がした。




