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第221話 家族になれた日(2)



 クリスマス・イブの本番たる夜に差し掛かった頃に、碧は友晴と帰宅した。


「ただいまーふたりとも!」


「友晴さん待ってください。玄関なので靴だけは脱いどきましょう」


 すっかり出来上がった彼に、碧は冷静にストップをかける。


 昼呑みだというのにあの後も酒が進み、隣でこちらの肩に腕を回しながらずいぶんと酔っ払っているのが、あのくるみの父だというのはあまりに驚きの事実だ。


 家を出てからすでに二時間以上。


 今のくるみなら大丈夫……という信頼はあるとはいえ、母とふたりきりでどんな話をしていたのかは少しだけ気になっていた。


「戻りました。遅くなってすみません——」


 友晴に肩を貸したままリビングに赴き、おや、となった。


 ここを出る前にはなかった、バターが焼ける甘い香りがみちていたからだ。


 いい匂いに思わずくんくん鼻を鳴らしていると、エプロンをしたくるみがふわふわの柔和な笑みを浮かべながら、とてとて近寄ってくる。


 それから酒の匂いに気づくと、呆れたように眉を下げた。


「おかえりなさい。ふたりとも……ずいぶんと打ち解けたみたい?」


「うん。お父さんとはいろいろ話してきた——ってお父さんスキンシップすごいですね」


 肩にばっしんばしんと衝撃が走ったことに碧は突っこむ。


 友晴が上機嫌に叩いてきたらしく、それを最後に、絡んでいたのを名残惜し気に離れる。


「いやあ。いろいろつき合ってくれてありがとう碧くん。二十歳になったら今度は一緒にビールを注文しよう。お義父さんとはもう呼ばせないがね」


「はい。ぜひ。次こそは『呼んでいいよ』って言ってもらいます」


 それからくるみに向き直る。


「ところでこの匂いは?」


「えっとね……今ちょうどケーキが焼き上がったところなの」


 そう答えるくるみは、照れたように相好を崩しつつ、碧がここを離れる前とは比べ物にならないくらいにはすっきりした表情だった。


「クリスマスだから?」


「そう。クリスマスだから」


「もしかしてお母さんと一緒に?」


「うん。……いろいろ話しながら一緒に。今までのこととか、今後のこととかも」


 そう——お祝い事の日だから。ちょっとだけいい一日だから。


 親子の時間を共有する理由なんか、それだけで十分すぎるほどなのだ。


 いや、本当は理由さえ、要らないのかもしれない。でも今日ふたりを理解させあうきっかけとなった今日というクリスマスに、碧は感謝の気持ちでいっぱいで。


 彼女の口から一番聞きたかった報告に、今日ここでみたかった表情に、碧は溢れてくる思いを瀬戸際で押し留めた。


「そっか……よかった」


 何とかそれだけを絞り出すと、労りと慈しみの表現として、つややかな髪の頂にぽんと手をおく。


 親の気持ちは、親になってからじゃないと分からない。


 幼い頃の気持ちは、大人になったら忘れてしまう。


 だからきっと親子の〈対話〉は相互を結ぶ唯一のリボンとなるけれども、一度の対話で、積み重ねられたすれ違いの結晶が全てなくなる訳じゃない。かつてあった嫌な気持ちもぜんぶ本物で真実で、愛すべき大事な感情で、嘘ものにはできないのだ。


 でもそれを受容した上で、その第一歩を踏み出せたからこそ——きっとくるみはこれからまた時間をかけて、母親のことを知って、知られていく。


 空白期間のあった家族の絆を、また編んでいける。


 今日、そのスタートラインに立てたのだから。


 がんばったな、と柔らかい絹束をそっと優しくなでていると、くるみは幸福を詰めこんだようにうっとりと目を細め……その華奢な肩ごしに、宮胡とばちっと目が合った。


「あ」


 迂闊だった。


 感情の読めない目がひたと、丁度じゃれあいをしていた手のあたりを捉えている。


「……くるみさんの家、自分の家みたいに居心地よかったので……つい」


 言い訳としては百点中二十点である。


「要するにいつもその調子ってことかしら?」


「ええと……はい……」


 大学教授を相手に弁が立つ訳がなかった。


 目立たぬようしれっと手を引っこめるとくるみは残念そうにし、同時に宮胡は呆れ気味に坐った目——ツンツンしている時のくるみとよく似ていた——でこちらを刺す。


 ちなみにその横では、友晴がごほごほんっと咳払いしている。


 咎める、というような空気ではないものの、若干のばつの悪さにひやひやさせられたが、ややあって案外すぐにそれも解かれた。


「何というか、あなたたちを見ていると、私はただ一人で空回りしてたんだって気づかされるわね。相手を探してくるなんてそれこそ余計なお世話だったんですもの」


「え。お……お母様」


「いい人に巡り会えたのね。くるみは」


 ぼそっと。


 およそ宮胡が言うとは思えなかった台詞に、碧とくるみは一瞬きょとんとしてから、それぞれ若干違う理由で羞恥を迫りあがらせる。


 そして、宮胡の思わぬ弁に乗っかったのは友晴だ。


「そうだよお母さん。彼は将来有望のいい男だ。今手放したら確実に損をする。私は長く愛せるものにこそ投資したいんだからね。……あんまりいちゃつくのはよろしくないが」


「……暴落することがないように努めさせていただきます……。そしたら友晴さん。おねがいの二つ目、今ここで言ってもいいですか?」


「ああ。聞くだけなら何でも聞こうじゃないか。立ち話もなんだし座ってからにしよう」


 思い出したように提案すると、それぞれソファに座ることに。


 碧にはまだひとつ、伝えられていないことがあった。


 それは今日を逃したら、もう言うタイミングは今後なかなかないだろう。


 そうして四人で再び座ると、碧は右から左へ。夫婦と順に目をあわせて言った。


「僕たちには来年、大きな人生の岐路が待っていますが、僕とくるみさんは同じ大学を志望しています。それを含めて将来のことを、ふたりで話しあってきました」


 ふいに、自分のものより体温の低い小さな手が探るように、碧のゆびさきにふれた。


 碧も求めるようにそのまま指を絡ませる。


 どちらからともなく掌がすべり、温度が互いを渡るようにとけあっていくのが分かったから、碧はナチュラルな気持ちで二人の約束を打ち明けることができた。




「——今の学校を卒業したらくるみさんと僕で一緒に住みたいと考えています」




 ずいぶん遠いところまできたな、と……ここに至るまでの日々を振り返る。


 我ながら、くるみと出会った時はこんな事を言う日がくるなんて、想像もしなかった。


 それは両親も同じで、友晴も宮胡も、きっと仰天するだろうと思われた。


 だというのに、目の前の二人はとくに驚くことも、血相をかえることもなかった。


 二、三度の瞬きをしてから、話の続きを待っている。


 これ幸いと、碧は言い募った。


「もちろん今日すぐにお返事がほしいという訳ではありません。まだ学生の身分な上に、大事なお嬢さんを送り出すことになるのですから。ですが僕たちで決めた以上、同棲にかかるお金も大人に頼らず自分でなんとかします。お嬢さんのこともきちんと守っていきます。もちろんすぐには了承できないのでしたら僕が信頼してもらえるまで待ちます——いえ、信頼してもらえるように行動します」


 友晴が静かに、腹のあたりで腕を組んだ。


「……そうか。一緒に住みたい、か」


「はい」


「そりゃあ……すぐには『いいよ』とは言えないが……。そもそもだが君のご両親はそれもご納得されているのか?」


「うちの両親はぜんぜんオッケーとのことでした。何か困ったことがあればすぐに頼りなさいとも言ってくれています。というかくるみさんと仲よくなったあと、最後の外堀を埋めたのも僕の母なので」


 まさか今日許可をもらえるとは思っていないが、それでもきちんと考えていたプランが机上の空論でないことを証明すべく、立て板に水の如く答えていく。


「そ、そうか。となると、そちらのご両親がそう言っているのにうちは助けを出さないというのも、我々の沽券に関わるな……。だがお金はどうなんだ? なんとかすると言っても、都内で暮らすとなればそれなりに必要だ。そこは考えてあるのかね?」


「いざという時のために子供の頃からずっと貯金をしていました。並行してバイトをしっかり入れれば四年間でやりくりに困ることはないと思います」


「なるほど。だが……」


「ふたりで一緒に住んでも構いません」


 この場にいる誰もが、いっせいに宮胡のほうを見た。


「え? 宮胡……お前」


 友晴も慌てている。


 碧も正直、なにかの空耳かと思った。


 だけど間違いや冗談ではないことは、昼よりもずっと和らいだ、それでいて真剣さを欠いていない目が、物語っている。


「そんなすぐ許可出しちゃうのか。……ちょっといくらなんでも早いんじゃないか?」


「碧くんは信頼してもらえるまで行動し続けると仰いました。諦めるとは一度も言っていません。……こうなってはもう、認めるのが早いか遅いかだけでしょう。これが私の考えですが、お父さんはどうなんです?」


 友晴は開きっぱなしの口を閉じると、しばし眉間にしわを刻んで唸っていたが、やがて諦めたように口を開いた。


「そうだな……——実はもしこうなったらどうするべきかも、事前に考えていたんだ。認められない相手ならもちろん却下するが、もしくるみが一緒にいてよりいろんなことを教えてもらえるひとだとしたら、本人の成長のために承諾することも考えねば、と。そして君がどんな人間かは、僕の眼鏡でついさっき確かめたばかりだ。仕事柄、人を見る目だけは自信があるんだよ」


 目尻のしわが、笑みによって深まる。


「君たちはまだまだ若い。大抵の失敗は、失敗のうちにはいらない。だから宮胡がそう言うのなら、僕も君たちの決めたことに否やはないよ」


「お父様……」


 すかさず宮胡が言う。


「もちろん条件はあるわ。まずくるみは、もちろん有事の際は私たちに存分に頼ってほしいのですが、首尾一貫して自分で決めた道にはきちんと責任を持つこと。教院大学でも成績を落とさないよう、学業を怠らないこと。そして大学四年間の間に、自分の明確な将来設計を考えること」


 険のとれた視線をこちらにすべらせる。


「そして碧くん。あなたもきちんと第一志望として大学に合格すること。私達の代わりにこの子をきちんと守ると約束すること。……そうしたらもう言うことは何もないわ」


「はい。約束します。……ありがとうございます」


 それは碧の、心からの素直な誓いだった。


 隣に目を遣れば、見る見るうちに、くるみの目尻に透明な真珠の粒が浮かんだ。


 そのあふれだした雫の意味を、それがただの嬉し涙じゃないことを、碧はすぐに理解できた。恋人だから分かった。


 それは宮胡と友晴も同じだろう。家族だから……分かるのだ。


 頬を伝い、ぎゅっと握りしめられた小さな拳に当たって砕ける。


「わたしも」


 くるみが服の裾を握って立ち上がった。


 釣られるように碧と、そして両親も席を立つ。


「……わたしも支えられるばかりじゃなくて、きちんと碧くんのこと、守っていきます。お父様とお母様の判断が間違ってなかったって思ってもらえるように、幸せになれるようにがんばるから」


 最後の、決意表明。


 うん……と、夫婦は揃って穏やかに頷いた。


 それから宮胡は取り出したハンカチを手にくるみに近づき——娘に抱きつかれて、よろめいていた。


 押され後退った母は、やや恥ずかしそうに相好を崩して。


 父も、後ろから近づいて、宥めるように優しく肩をさすっている。貰い泣きしたのか、時折隠れるようにして眼鏡の下で目許を拭っている。


 そんな両親に挟まれて、くるみは涙のままに、花のような笑みを浮かべていた。


 今、親子の関係が、家族の絆が。ゆるやかな熱に解かされている——。碧はそんな幸せなワンシーンをしっかり焼きつけるべく、伝染した感情とか優しさとか、そういうものに灼かれそうになりながら、それでも目を逸らさずにいた。


 四等分されたパウンドケーキと、四本のフォークを、上枝がにこにこと運んできて。


 親子三人は優しく笑って。




 ——この日、くるみたちはきっと初めて、本当の家族になれた。


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