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第220話 家族になれた日(1)



 承諾を貰ったくるみは、急いで自分のクローゼットへエプロンを取りに行く。


 一番のお気にいり——レトロな花柄のそれを手に取ると、急いで階段を引き返した。


 近頃はなかなか立ち寄ることのなかったアイランドキッチンに立つも、母はまだ戻っていなかった。


 母はくるみが家事の真似事をするのに難色を示す。今まで碧にお弁当を持って行った時も、何か小言を言われるのが嫌で、まだ親が寝ている時間を見計らってだいぶ早めにアラームを掛けていたくらいだ。


 碧のマンションのほうがよっぽど台所事情を把握できている自信があるが、今日はくるみが主導権を握って指示を出さねばならない。


 昔、上枝から料理教室してもらった時の記憶を頼りに、システムキッチンの一番右下の引き出しを開く。そこには記憶どおり、大小様々なボウルが清潔に重ねられていた。


 針の目盛りのついたアナログの計量器も一緒に取り出す。


 いつの間にか掃除を終えて戻ってきていた上枝は、おそらくさっきの会話を少しだけ聞いたのだろう。遠巻きにこちらをうかがっていた。


「上枝さんは見守っててくださいますか?」


「ええ。何かございましたらお声がけくださいな」


 くるみの憧れる人で、頼れる家政婦の上枝には、今だけは頼るわけにはいかない。


 彼女はそれも察してか柔らかく上品に口角を上げると、台所から少し離れたところに静かに佇んだ。


 その時がちゃりとドアが開き、気の乗らなそうな足音がする。振り返ったくるみは母の姿を見るにつけ、笑っちゃいけないと分かってはいても、思わずくすりと相好を崩した。


「……そのエプロン、もしかしてお母様が新婚の頃の?」


「あら、なんですその目は。失礼ね。私も上枝さんに来てもらうようになる前は自分で、最低限の身の回りのことはこなしていたのよ」


 母が肩から下げていたのは、ウィリアム・モリスの苺泥棒の柄をした優美なエプロンだった。染みどころかしわ一つもなくて、箪笥の長い眠りから目覚めたからか、歳を重ねた今の持ち主には、まだ馴染んでいない。


 少なくともくるみはそんな格好の母を初めて見たので、感動とか嬉しさとかが綯い交ぜになり、理由もなく可笑しい気持ちになって、笑ってしまったのだった。


 複雑なため息を吐いた母は、袖を捲ってくるみの横に立つ。


「それで、どうすればいいの?」


「えっとね……まずは計量をしなきゃいけないんだけど」


 うかうかしている余裕はない。ケーキはそれなりに時間がかかる。出かけている二人が帰ってくるまでには焼き上げておきたい。


「じゃあお母様はパントリーから小麦粉を持ってきてもらえますか?」


 今日焼く予定のケーキはカトルカール。


 上枝が毎日のように管理している台所とはいえ、さすがに予定もないのに足が早い生物のクリームや苺は揃っていないだろうから、ややクリスマスらしさには欠けるが、自分の覚えている限りのなかで最もシンプルなものを選んだ。


 カトル——フランス語でいう四分の四が意味するのは分量。小麦粉と卵とバター、そして砂糖の四つ。それらを同量使用するので、レシピは見ずとも覚えている。パウンドケーキのたぐいは一晩寝かせたほうがしっとりするのだが、焼きたて熱々をいただくというのも家での手づくりの醍醐味だろう。


「小麦粉はパントリーの……どの辺りなの?」


「それでしたら私が管理しているのでご案内しますね」


「ありがとう上枝さん」


 母を連れていく彼女にお礼を言ってから、氷の城のように清潔な冷蔵庫を開き、バターを取り出す。雪印のレモンイエローの箱を開けて、まな板の上に中身をすべり出させた。


 四角い銀紙の包みを解くと、しんと冷たいバターが現れる。ナイフで何回か切り分け、量りの皿に乗せていく。かたんと小刻みに揺れる針が、雑念を吹き飛ばしていく。


 ぴったり百グラム取れるまで山吹に光る肌をうすく削いでいき、それから銀のボウルに移して泡立て器をそえた。


 母が戻ってくる。くるみはバターが常温に柔らかく戻るまで別の材料も順に量っていくが、最後のお砂糖に手を伸ばす前に、所在なさげにしている母に声をかけた。


「お母様はこっちを振るっておいてくれる?」


「え? ええ」


「こうやって傾けながら横を叩くの」


「……これであってる?」


「うん。大丈夫」


 戸惑い半分でふるいを受け取った母は、拙い動きでふるいを横から叩く。真っ白なパウダースノーがさらさらと落ちていき、湾曲した銀の地上に雪山を築いていった。


 しかし段々と波のように偏ったふるいの粒が、調理台の上にも散らばってしまい、母は慌てて布巾で拭い上げる。


 くるみはその間に泡立て器をぐーでしっかり握りボウルを抱え、バターへ空気を送るように動かした。


 氷の城から出したてなのもあり初めはまだ固くて力を必要としたが、額に汗を浮かべながら諦めずに続けていると、やがてころころした四角形たちは泡立て器にまとわりついた。さらに混ぜればバターはボウルに落ちて、引き締まった山吹がふわりとした白になっていく。


 手応えも、結び目が解けるようになくなっていく。


「……あなたはずいぶんと手慣れているのね」


 こちらを見ながらぽつりと零すので、今まで話せなかった後ろめたい気持ちがありながらも、くるみは懐抱していた気持ちを正直に紡いだ。


「……お母様にはずっと言えなかったけれど、わたしは料理をするのが好き。だからずっと昔からこうして二人で、キッチンに並んでみたいと思ってたの」


「そう……」


「うちは昔から家族がみんな忙しくて団らんなんてなかったでしょう。だから今年のクリスマス・イブはこういう風にできて、すごく嬉しいと思ってる」


「でもそれは料理する時間がないからで。別にお母さんもやりたくないわけじゃ——」


「うん。知ってる。お母様は自分のためと家族のために、がんばって今のポストを築いたのよね。それを責めようとかお門違いなこと、私は言いたくない。ただ……」


 さらさらと、ひとすじの砂糖を、バタークリームに注いでいく。


 かき混ぜると空気を含んで、さらに甘い綿雲のようにふんわりしていく。


「仕事と同じで家事だって自分や家族……大事な誰かのために何かをすることには、何もかわらないんだって思う。私にとってお母様はもちろんだけど、ここまで愛情がこもった温かいお料理で育ててくれた上枝さんも、同じくらい大事な人だから」


 といた卵も混ぜこみ、小麦粉を注いだボウルを母に渡す。


 攪拌を任せてからくるみはオーブンの前にしゃがみ、百八十度に余熱の設定をした。


「ちょうど十年前のこと……覚えてる? それまでは毎年お家に家族が揃っていたけれど、お母様も昇格してお兄様も大学にはいって……その年あたりからそういう団らんもなくなったのよね。私の大事にしていた、くまのぬいぐるみもいなくなっちゃって——」


 その辺りから、各々の多忙に拍車がかかったのだ。


 ろうそくに明かりを灯したような温かな記憶は遠ざかり、大事な友人として遊び相手になっていたくまもいない。代わりに待っていたのは、寒々しいダイニングでする一人きりの食事だった。


 時々母と一緒になることはあっても、前のような会話はなくなった。家族の在り様が否応なしに別物になっていくのをくるみが敏感に察知し、戸惑ったせいかもしれないし、母も仕事のかたわら、兄と同じ成功へ導くための娘の将来設計を考えるのに手一杯だったからかもしれない。


 なんにせよ、親子のすれ違いはそこから始まった。


 少女時代から現実主義者だったのも手伝い、サンタクロースが実在しないことは、その時にはもう理解していた。なので、クリスマスには何か子供じみた夢想や期待をしていたわけではなく、家族四人が揃う日がまた来ることを、淡く祈っていただけ。


 それがあればどんなプレゼントよりも嬉しかったと思う。


 でも現実はそうはならなかった……今日までは。


 母の細い腕は、いつの間にか止まっていた。


「……くるみには寂しい想いをさせたわね」


「ううん。責めたいとか怒ってるとかじゃなくてね」


 さりげなくバトンタッチをし、ボウルを受け取る。


「私が言いたいのは上枝さんがくれたケーキのこと」


「上枝さんが?」


「うん。昔ひとりでイブを留守番することになった時、上枝さんがケーキを焼いてくれたの。小さくて可愛い、雪だるまの白いチョコの乗った苺のケーキ。それが嬉しくて……」


 本来であれば浮き足立つ年頃にも関わらず、聖夜を孤独に過ごすことになったくるみの言葉にできない寂しさに、きっと上枝だけは気づいていたのだ。


 だからわざわざケーキを焼いてくれた。


 くるみのためだけに。


 人を励まし支えるような、そんな不思議な力のあるケーキを……。


「私ね、その時思ったの。お料理で誰かの心をあたたかくすることができるのは、すごいことなんだって。だから将来大きくなったら上枝さんみたいになりたいと思った。——私は誰かの暮らしを支えるような、そういう人になりたいと思った」


 母にボウルを差し出す。


 くるみが型を抑えて促すと、母は何も言わずそこに中身を注ぎ込んだ。


 とんとんと空気を逃がしていると、予熱完了のアラームが鳴ったので、分厚いミトンを嵌めてオーブンの扉を開く。


 熱風が頬を干上がらせる前に天板に載せ、手早く閉めて三十分のタイマーをかける。


「私は大切な人には自分の手料理を召し上がってもらいたい。自分たちの家だって、自分の手で掃除したい。……家族にも同じ。できる限りのことはしてあげたいんです。誰かに何かをしてあげることの愛情の積み重ねを、私はなにより大事にしたい」


「……そう」


 母はささやくように頷いた。


「あなたは昔から上枝さんによく懐いてたから、なにかと思っていたんだけれど……そういうことだったの」


「うん。碧くんもね……初めは正反対みたいな人だなって思っていたんだけれど、一緒にいると知らなかったことが知れるの。世界がどんどん広がっていって、今まで出来なかった、したいことをしていいんだって教えてもらっているようで」


 一瞬、碧と積み重ねた数多くの思い出が、泡沫のように浮かんだ。


「私にとってはね、いい大学に行って立派な人間になるだけが、全てじゃない。自分で決めることに意義があるって思ってる。……でも私がそういうわがままを言えるのは、お母様がこうして私のことをいつでも一番に考えてくれてるからだっていうのも、知ってる。分かってるの。だからありがとう。お母様」


「…………」


 母はオレンジの光に包まれたオーブンのなかをひたすら見詰めながら、返事をしない。


 静寂に支配された数分。母は沈思するのみで何も答えなかった。


 ただその目は揺れているように見える。もう言いたいことは全て言い終えたのだが、くるみは言葉を探すかどうか迷った。


「宮胡様」


 そのとき、横から控えめに呼びかけたのは上枝だ。


「すみません。私も会話を聞いてしまいまして。差し出がましいことを申し上げますが、私は頂いた仕事柄、お嬢様を昔からとても近いところから見守ってまいりました。失礼を承知の上で……お言葉ですが今だけは家政婦ではなくお嬢様をよく知る人間として少しだけよろしいでしょうか」


 くるみとその母は揃って、意表を突かれたように面を上げ、それから彼女を見た。


 母の沈黙を肯定と捉えたのか、両手を腹の前で組んで、しずやかに話し始める。


「お嬢様には私が、お料理をお教えしてきました。他でもないお嬢様が、覚えたいと仰ったからです。秋矢さんとの関係も、手料理の差しいれから始まったと。現在の学校でも、ご学友とよき交友関係を築けているそうですね。これまでの実績を鑑みて……きっともう、ご自分で自分の進みたい道を進んでいけると思います」


「上枝さん……」


 私情を挟むことがこれまで一度もなかった彼女の発言に、くるみは喉を震わす。


「それに」


 言葉を切ってから、上枝はほんのり悪戯っぽく、にこりと口角を上げる。


「くまのぬいぐるみについては、宮胡様にお心当たりがあるのではないでしょうか?」


 聞き手に徹していた母は、ぼんやりしていた目をまぶたで隠し、長い嘆息をした。


「…………そうね。私のほうも言葉足らずだったのかもしれないわね」


「??」


 二人が何のことを話しているのか分からないくるみが、様子をうかがっていると、母が言った。


「今はオーブンから目を離しても大丈夫なのよね。くるみ、こっちに来れる?」


「えっ? はい」


 訳も分からぬまま連れてこられたのは、一階の小さな納戸だった。


 折れ戸を開ければ、年代物と思しき古い箱が、ぎっしり並んでいる。


 自室にもウォークインはあるので、持ち物のほとんどはそっちに収納している。ここに何が仕舞われているのかは、くるみにも分からない。


 母は引き戸のなかに積み重ねられた箱からいくつかを引っぱり出し、順々にラベルを確認していく。やがてひとつに目星をつけると残りは納戸に戻した。


 うっすらした埃を手でぱっと払うと、段ボールを開けて中身を取り上げる。


「あ——」


「これを探していたのでしょう? くるみは」


 つぶらな黒い瞳に、柔らかなベージュの毛並み——誕生日にプレゼントで買ってもらったあの日のテディベアが、埃もほつれもなく清潔なまま、子供の頃のまま時が止まったようにそこに居た。


 虚を衝かれ、喉が勝手に音を洩らす。


「それ……くまさん……どうして」


「あなたももう大きくなって、ぬいぐるみでおままごとするような歳でもないと思って。でもこれは私たち親にとっても大事な思い出の品だから手放すつもりはなくて、だから取っておくことにしてたの。……ごめんなさいね。事前にきちんと相談することができなくて」


 くるみは二度驚いた。


 母からそんなことを言われる日が来ることなど、想像していなかったから。


 じわりと涙ぐみながらも、手渡されたぬいぐるみを静かに抱きかかえるくるみに、母が、自嘲に近いものだが今日初めて頬を弛めた。


「私たちの間には、きっと言葉が不足していたのよね。お互いに何を大事にして、どうやって生きたいか、どうやって生きてほしいかを交わしあう時間がなかった」


 まるで、昔に戻ったように優しい口調で。


 碧の思う〈楪くるみ〉と、くるみの思う〈自分〉が相違しているように、きっと自分の思う〈母〉にも現実と乖離があったのだ。


 きっと——子供のためにあえて厳しくしていたんだと、今になって分かる。


「私は堅実な生きかたしか知らないつまらない人間で。だから、そうじゃない幸せが最初から見えなかった。幸福の在り様をこうあれかしと限定してしまっていた。でも今日くるみと一緒にケーキを焼いて、分かったわ。日頃からくるみは、こうしてあの子に手料理を振る舞っていたんでしょう?」


「あ……」


 いたずらがばれた子供のように眉を下げるくるみに、母はかぶりを振る。


「おかげで、さっきのあなたの言葉が建前なんかじゃなく本物だってことも理解した。もちろん、娘が親の目の届かないところで、いつの間にかあの子から影響を受けていたんだってことには、ちょっと思うことはあるけれど」


 優しく目を細める。


「そこまで()()で言われたら、譲歩するしかないわね。今日のくるみは、柏ヶ丘の案内冊子を持ってきた時と同じか、それ以上だったもの」


「お母様……」


「前にも話したとおり、親は子供の一生の幸せを保証することはできないわ。できてもせいぜい私たちが生きている間だけ。ずっとその後のことが心配だった。——知らぬ間に大人になったのね、くるみは」


「それじゃあ……」


 ぴろん、とスマホの通知が鳴った。


 慌てて画面を見れば碧からで『もうすぐ帰る』という旨だった。


 それを横から覗きこんだ母が、まったくと悪し様に言う。


「お父さんもお客様を連れていなくなるなんて、勝手なものね。碧くんにご迷惑かけてないといいけれど……。でもくるみ、戻るならそれまでにケーキでしょう?」


「あっ。そう! もうすぐ焼き上がる時間だと思う」


「なら急ぎましょう。次に何をすればいいかはちゃんと教えてちょうだいね」


 言い残すと、足早にダイニングに戻っていく。


 くるみは咄嗟に追いかけることが出来ず、まだ泣きそうな気持ちのままテディベアを抱き締め、母の後ろ姿を瞳に映していた。


 そうしていると、十七年間歩んできたこれまでの人生が、本当はあったはずなのに忘れかけていた家族の思い出が、ぶわりと走馬灯のように巡るようだった。




 春に幼稚園に入学した時、門の前にある桜の木の下で撮った家族写真。


 夏が到来したときには、旅行には行けなかったけれど、庭にプールを出してくれた。くるみが田舎のおじいちゃんの家に行くのが好きなのを知っていたから、仕事をリモートに切り替えてまで新幹線で、一泊二日だけ里帰りしてくれた。


 秋が来て、運動会では兄がはりきってカメラを構えていた。でもたくさん撮られた写真をあとからフォルダと睨めっこしてまで名前をつけたりメモを残して整理したのは、決まっていつも母だったのをくるみは知っている。


 冬はお正月にお年玉を貰って、何を買おうかとわくわくした。学校の成績も関係なしに、子供というただの一点のみで貰えるお小遣いは、まぎれもなく愛情のサインだった。





 思い出せたということは、記憶の底では覚えていたということ。


 そのはずなのにどうして今日まで長い間、忘れてしまっていたんだろう?


 でも、そこに確かに存在した愛情に気づけた今は。


 自分のこれまでの人生を素直に肯定して、大きな花丸をつけてあげたい。



〈自分が選んで辿った道を、十年後とかになって後から振り返ったときにはじめて正解にすればいい〉



 ——これが私の正解。家族の正解にしたい。


「ありがとうお母様……ありがとう碧くん」


 呟いてから、くるみは目尻の涙を拭ってスリッパを鳴らした。


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