第22話 契約の始まり(1)
そして、初日の夕方はあっという間にやってきた。
碧はというと、学校から帰ってすぐさま私服のパーカーに着替えてからというものの、ソファの上に座り込んで呼び鈴が鳴るのをただひたすら待っていた。
「…………落ち着かない」
くるみは家が厳しいゆえに、門限も高校生にしてはかなり早い。母親が早く帰宅する日は十八時半で、それ以外は父の温情によりやや緩和された二十時半がリミットだそうだ。なので彼女が家に来るのは後者の日のみかつ平日限定。おそらく訪問は、週の半分ほどが目安になるだろう。
くるみが訪問する時間は一律で決めているわけではない。手がかかるメニューの時は早めに来るし、そうじゃない時は遅めに来る、らしい。そして今後はわからないが、今のところメニューは彼女が決めることになっている。つまり、いつ来るかは彼女の気分次第ということだ。それを碧も合意している。
ただ鍵などの都合上どうしても碧は在宅しておく必要があるので、出かける時は事前に連絡しておくくらいか。
交換したメッセージで支払いなどつぶさな取り決めは事前にしてある。
ちなみに弁当に関しては、夜も昼も世話になるのはあまりにも申し訳ないので、彼女の作り置きを碧が朝に自分で弁当箱に詰めて持っていくということで一応形の上では話がついた。
碧はそわそわしながらソファの上で文庫本を広げる。いつ来るか分からないので、妙に落ち着かない。本当は課題を先に終わらせようと、すぐに玄関に出られるようにダイニングで数学のプリントを広げていたのだが、ものの見事に一切集中できなかった。
リビングを意味もなく彷徨いたり文庫本を開いたり閉じたりしてぼーっとしたりしていると、ようやくチャイムが鳴った。
すぐさまオートロックを開けて、玄関に向かう。やがて二度目の呼び鈴がなり玄関を開くと、夕焼けを映す空を背負って立っていたのは、最近になって見慣れつつある亜麻色の髪をなびかせた少女。
襟に花を散りばめて柔らかなフリルをあしらったブラウスの上に白基調のカーディガンを羽織り、プリーツの切り立ったロングスカートの裾を夕風にそよがせている。
「いらっしゃいませ……?」
「こんにちは、碧くん。おじゃまします。……それは何? とおせんぼのつもり?」
碧が玄関の扉を開いたままの格好でぼーっと腕を伸ばしていたので、くるみは手の焼けるいたずらっ子を見るような目で碧を嗜める。見惚れていた、なんて言えるはずなくすぐさま退けた。
以前来た時と同じく折目正しくぺこりと挨拶をして、くるみが横を何食わぬ様子ですり抜けて家に上がる。その右手にはすでに食材の詰まったマイバッグが下がっていた。覗いた葱や牛蒡が妙に所帯染みていて、どうにもちぐはぐだ。
「……あ、すみません。もう買い出し行ってたんですね。重かったですよね」
碧がバッグを受け取ると、思っていたより重量があり申し訳ない気持ちになった。
「ううん。これくらいなら大丈夫」
「けどどうせ次から買い出しは一緒になるんだろうし、その時は僕が持つから」
「……やっぱり紳士なのね、あなたってば」
「こればかりは海外育ちは関係ないですよ。重いもの持つくらい男の義務ですって」
おずおずと所在なさげについてくるくるみに、碧はおそるおそる切り出す。
「早速なんですけど、その。……お任せしてよろしいのでしょうか?」
「はい、任されました。あなたはソファにでも座ってくつろいでいて」
「ここが僕の家ならそれは僕の台詞のはずなんだけどなあ」
「その家主があまりに情けないから私が料理をするんだけどね」
「尖りすぎにもほどがある……」
相変わらずの刺々しさに吹き出しそうになるも、くるみは一切気にした様子はなく澄ました様子で台所に直行した。先日来たときに足りていない調味料をきっちりチェックしていたらしく、買ってきたばかりのそれらのラベルをはがしてはてきぱきと棚にしまっていく。あどけない面差しのわりにやってることはしっかり良妻賢母で、抜け目ない。
「じゃあ取り決めのとおり、食材の管理は私がするわね。キッチンは好きに使わせてもらうけれど大丈夫?」
「もちろんです。配置は好きにしてください、どうせくるみさんしか使わないから」
「うん。じゃあ碧くんはリビングで大人しくいい子にしていてね。危ないからこっちに来ちゃ駄目よ」
「赤ちゃん扱いされてるの気のせいかな?」
しかし言われたとおりリビングに向かってしまう自分が情けない。
手持ち無沙汰なのでソファに腰掛け、〈高校生 女の子 喜ぶこと〉で検索。
早速なにか教えてやりたいと思ったのだが、あまりに漠然としすぎていていまいちぴんと来ず、似たような言葉で昨日も何度も調べまくった。
が、やはり出てくる検索結果のサイトはリンクが紫色になっている。その上、出てくるのはコスメや可愛いもののプレゼントについてばかりで、そういうことじゃないんだよなと明確な答えが出せずにいた。
けどもしあげるとしたら、料理が好きなら髪をよく結うだろうしやっぱりシュシュとかかな、と思考を寄り道させつつキッチンの方を何気なく振り返り——そして、視線が一点に奪われた。
どうやら今日はきちんと自前のを持ってきたらしく、くるみが綺麗にたたまれたエンプロンを鞄から取り出して、いつもの制服の上に身に着けているところだった。
人形めいた可憐な面差しもあり、正直こういう家事をしてそうな姿はあまり似合わないんじゃないか、と思っていたが、それは大きな間違いだった。
ミニワンピースに近いデザインのベージュの色をしたエプロンは、長年大切に使っているのだろう。何度も洗われたリネン素材特有の、くったりと柔らかな風合いが出ている。前にポケットがついていて実用的なのもくるみらしい。
しかしその一方で、だ。
腰のくびれのところを大きなリボンの紐できゅっと結んでいるため、普段は制服で慎ましく隠されている鳩尾の上の豊かな丘が強調され、目のやり場に困る。もちろんほんのり色香がある程度ですこぶる清楚な出立ちなのだが、折れそうなほど細い体と思っていただけあって——華奢ななかにしっかりとある確かなふくらみは、年頃の男子高生にはかなり目に毒だった。
「……krass」
「どうかしたの?」
「いーえなんでも!」
思わずドイツ語で独り言を言えば、くるみが髪留めを口にくわえながらきょとんとしたあどけなさをたずさえて尋ねるので、碧は首を横にぶんぶんと振る。
なんとなく、彼女のことをそういう目で見るのは憚られた。いつも神々しい空気を醸すくるみに女を見出せば、罰が当たってしまいそうな気がしたのだ。
あるいは碧が——くるみの純情な面を知ってしまったから、余計に後ろめたいのかも知れない。
くるみは何も気にしていなさそうに両手を後ろに回して優しく髪を束ねて、碧の目を一切気にしていない様子で真っ白なうなじを曝してから、さっそく三徳包丁を手に野菜を捌き始めた。
とんとん、ことこと、じゅうじゅう、と。ふたりの空間が、晩ごはんの支度をする温かな音に満たされ始める。碧は煩悩を振り払うべくしばらくソファの上で大人しくしていたのだが、やはり同い年の女の子に任せきりにするのが心苦しく、キッチンににじりよって恐る恐る声をかけた。
「あの、僕も何かお手伝いを……」
「何も頼めることはないから座ってて」
「はい」
ばっさりと切られ、悄然と席に戻る。ダイニングからカウンターキッチンの様子は覗けるので、せめて様子を見守ろうと決意。しかし、そんなちゃちな心配を跳ね除けてしまうほど、彼女の料理の手際は惚れ惚れの一言だった。
まな板の汚れない野菜から切っているし、火の通りに時間のかかる根菜から先に調理し始めているし、グリルや火を同時に使っていくつものおかずを並行して作っている。動きに一切無駄がなく、ちょっとでも手が空いた隙には、ささっと洗い物まで済ませている。
そもそもレシピも見ていないようで、お醤油やみりんを入れるのにも計量は行わず、目分量と自分の味覚で味を決めているらしい。それがあの繊細な味を実現する秘訣か、と碧は彼女の持つ神の舌への信頼を厚くする。
いつの間にか碧はカウンターまで舞い戻り、頬杖をついて彼女の手捌きをぼんやり眺めていた。するとくるみのながれるような手つきが、ある時ぴたりと止まる。それからまな板に視線を落としたまま、むっと棘のある声で言った。
「……お料理が出来上がるまでは、決して覗かないでください」
どうやら近くで見られていることに気づいたらしい。
「鶴の恩返し? 確かあれも雪の日の夜に女の子が来るって話だったような」
「私は鶴なんかじゃありません」
「くるみさんって美人系でも可愛い系でもあるけど、鳥にたとえるなら鶴とシマエナガを織り交ぜたかんじしますもんね」
「シマエナガ?」
碧はスマホで画像検索をしてくるみに見せる。
「豆大福みたいなかわいい野鳥です。あれも確か北海道で雪の妖精って呼ばれてるし、マフラーしてる時とかもふもふしててよく似てる。凛とお淑ややかなところは鶴」
「私は鳥でも妖精でもありません! ……集中できない。早くあっちに行って」
理知的かつおっとりした面差しを褒めたつもりだったのだが、くるみは居心地悪そうに言うので碧も従うしかなくすごすごとリビングのソファに座った。
くるみの調理風景が見れないのは残念だが、さっきちらっと見ただけでも女子高生の技術を逸脱していた。正直、毎日しているわけじゃない、という言葉がちょっと信じ難いほどである。
そんな不思議はいとも容易くこぼれ落ちた。
「くるみさんって……どこで料理覚えたんですか?」
ちょっと離れたソファから話しかけると、碧が明後日の方を向いているからか、くるみは、今度は手を止めずに答えてくれた。
「教えてもらったの。上枝さん……うちで契約している家政婦さんに」
確か、彼女に弁当を毎日届けている人だったか。
「うちの母と父が仕事でいなかったり遅くなる時がよくあって、その時にいつもこっそり料理教室をしてもらっていたの。もちろん私からお願いして。本当は契約外だし、料理は上枝さんの仕事だから、母に見つかったら怒られちゃうんだけれどね。……上枝さんは本当に優しくて素敵な人なの」
「へえ……努力してたんだ」
料理を覚えるきっかけって大抵は家族の手伝いだったり一人暮らしだったりしそうなものだが、彼女の場合は真逆に近い。料理自慢のお手伝いさんが用意するごはんがあるのに、どうして覚えようとしたのだろう。こちらから訊いてばかりだが、気になるのだから仕方がない。
「料理を覚えたのは、大学に入ってからの一人暮らしを見据えているからですか?」
「それもあるかもしれないわね。けど正しくはもっと先、かな」
もっと先とは、結婚を見据えてという話だろうか。となると、この契約はまるで花嫁修行のようで、なんとも気恥ずかしさを感じる。くるみの料理の腕はもう主婦どころかシェフの域なので、修行をすべきは碧の方なのだが。
自分は、そんなひたむきなくるみに何ができるだろうか。
碧が本当にすべきは彼女の知らない世界を教えることなのだが、いざとなると何をすればいいのか皆目見当もつかない。
人と話すのが好きな碧でも、今までくるみほどちぐはぐな人間に会ったことがなかった。
くるみのことを知りたい気持ちはある。けれどどこまで踏み込んでいいのか、どこまでなら気を許してくれるのか。長年の外国暮らしで培った、言葉の通じない相手とも渡り合うための見えない六分儀を持つ碧をして、そこの距離は測りかねてしまう。
——彼女が隠そうとしている本来の彼女に、どこまで近寄っていいのだろうか?




