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第219話 四等分の愛情(4)




 ——僕にとってくるみは何より大切な存在、そして誰より愛おしい恋人だ。





「友晴さん。いえ……お父さん」


 思いの丈を聞き届けた後、碧は静かに深呼吸をしてから、覚悟を決めて切り出した。


 百の言葉より、一の行動を、大事にしたかったから。


「実は今日、僕はただ挨拶に来たわけではなくて。友晴さんと宮胡さんに二つ、おねがいをしに来ました。一つ目を今言います」


 目をぱちくりさせる友晴を見てから、碧は真摯にこうべを垂れた。


「どうかくるみさんに、自分の目指す大学を受験するよう許してはくれませんか」


「あ……碧くん」


「いろいろ葛藤もあるとは思います。君とは関係のない家族の事情だ、と言われてもそれまでです。だからこれはただの、僕のわがままです」


 ぽかんとする友晴に、碧はポケットからスマホを取り出し、画面を見せる。


 自分の父親とのLINEのやり取りだ。


〈最近学校はどうだ? ちゃんとやれてるか?〉

〈碧なら大丈夫ってわかってるけど もし何かあったらすぐ頼りなさい

 なんでも自分でやろうとして出来ずに終わるのが一番もったいないからな〉

〈大学のこともこの日を見据えて 母さんときっちり貯金してきたんだから

 何があっても迷惑掛けるとか言うんじゃないぞ!〉

〈とにかくやれるだけやってみればいいってことだ〉


 そんな言葉が、並んでいる。


 これらの文字がいったい、どれほどの支えになったか分からない。


 当たり前のように援助をしてくれた親への感謝を思いながら、友晴に言葉を掛ける。


「——僕はすでに行きたい大学も、やりたいことも決まっています。それも、目指すのは困難を伴い、いろんな危険と隣りあわせの仕事です。正直、努力を尽くしたって必ずなれるかもわかりません。ですが親はいつだって僕の考えを受けいれ、がんばれって言ってくれていました。愛情の形にはいろいろ種類はあると思うけど、子供の決断を信じて後押しするのも、間違いなく親の愛のひとつだと思っています」


 慎ましく控えめなくるみが、唯一譲ろうとしないこと。


 それを父親に認めてもらうべく、碧は考えて考えて言葉を尽くす。


「……」


 友晴はしばし目をぱちくりさせてから、


「……はは。そうか。そうか……あはは」


 と、控えめに笑った。


 それから恥じるように首を振る。


「わがまま、か。いや情けない話だが、実は僕も昔は小説家になりたかったんだ。『人間はある目的を以て、生まれたものではなかった』って言葉があるように。ずっと忘れていたけど、帆高と話した時に思い出したんだよ」


「……ええと、夏目漱石でしたっけ?」


「そうだ。誰かに押しつけられたものでなく、したいことは自分でじっくり探す。人生とはそういうものだ、と。でも結局私は、現実を見据えた選択をした。親戚の目もあったし、自分を心配する人間の反対を押し切ってまで成功する自信がなかったからだ」


 ロックが掛かった碧のスマホを、丁寧にこちらに返してきた。


「だから、きちんと自分の人生をいきている碧くんの言葉は、正直響いたよ。本当は、君にお礼を言った時にはもう、僕が父親としてなんとかせねばとは思っていたんだが……その訴えに突き動かされたということで、もう一度僕からも宮胡に話してみよう」


「……。ありがとうございます」


 自分のことのように嬉しかった。だからお礼だけを言った。


 たとえ今日で何とかならなくとも近い将来、この家族はきっと溝を埋められると思った。


                *


 かちかちと、古い柱時計が時を刻む音だけが、静寂をかろうじて遠ざけていた。


 上枝は掃除のために二階に行っているので、くるみは母とリビングで二人きりだ。


 ——こういうシチュエーションになったのはいつぶりだろう。


 ちらりと母を見れば、さきほど淹れた紅茶を静かにすすっている。


 細められた瞳は遠くを見るようで、どんな思案が宿るのか見い出すことは難しい。


「あの。お母様」


 おそるおそる呼びかけてみれば、こちらを見る。


 躊躇しつつ、くるみはずっと気になっていたことを問いかけた。


「お母様は碧くんのこと……どういうふうに思った?」


 それは、くるみが今日一番気がかりなことだった。


 父は少なくとも、碧と打ち解ける気持ちがあったから外へ連れ出した。では母はと言えば、やはり人を見る目に厳格なものがあるのが常だ。


 しばし考えこむ母。沈黙に気持ちが揺さぶられ、くるみがきゅっと口を結んだ頃、ようやく返事があった。


「そうね。直截に言えば、礼儀正しくて素直な子だと思ったわ」


「え。それじゃあ——」


 母からは珍しい肯定の言葉に、くるみは目を瞠る。


 しかしそれもたった一言。すぐさま厳しい言葉が継がれた。


「でもくるみを任せられるかどうかは、今日だけじゃ判断できないわね。素直も礼儀正しいも聞こえはいいけれど、裏を返して悪く捉えるひとだっているんですもの」


 くるみはそれを聞いて、しかし取り乱すことなく、ひとつ頷く。


「……うん。お母様の言いたいことは分かる。だけど全員に愛される人のほうが、それこそいないと思うの。だってそういうひとを嫌う人がいるから」


 これまでの十七年で知った一つの事実をあっさり告げると、今度は母が目を瞠る番だった。


 そんな母にくるみは語調を和らげて続ける。


「……でもね。碧くんは自分を嫌ってくる人とすら仲よくなれちゃうような、そういう不思議な人なんです。広い見聞もあって、世の中にいろんな人が居ることを理解(わか)っているから、どんな人にも寛容になれるんだと思うの。きっと今も、お父様とすっかり打ち解けているんじゃないかしら」


「お父さんはああ見えて結構な夢想家でしょうに。会社でも情熱に負けて若手に大事なプロジェクトを任せちゃうような、甘い人なのよ。そんなお父さんがもし認めたとして、お母さんも諸手を挙げて彼を認める道理にはならないわ」


 旦那への駄目出しを並べてから息を吐き、視線を落としつつソファにもたれた。


「別にあなたたちの交際を反対するわけではないけれど、かと言って賛成もまだできない。でも……彼の為人(ひととなり)については、今日話して分かった。決して悪い子ではなさそうね」


「うん……」


 頬にほのかな熱を感じながら、くるみは今の素直な気持ちを述べた。


「碧くんはすごく優しくて尊敬できるすごいひと。今後一緒にいるひとは、心からそう思える人がいいって思ってた。だから、ちょっと照れるけれど私は……碧くんがいい」


 でも、と母は確かめるように続ける。


「今くるみは一番大事な時期なのよ。ここから卒業までをどう過ごすかで人生ってまるっきり違ってくるの。それは分かっているわよね?」


 母は心配そうに眉を下げた。


「お母さんたちはあなたの一生の幸せを保証してあげられる訳じゃない。先にいなくなるのは親なんだし、くるみのほうが長生きすることになるんだから、今私たちができるのは、後々あなたが困ることのないように、親として確実に幸せになれるであろう道を探して、導いてあげることなの。もしくるみの好きにしていいと譲歩するとして、そうしたら私たちの代わりに、碧くんがあなたの幸せを保証してくれると約束してくれるのかしら?」


 その言葉を受け、くるみは僅かにうつむいた。


 ——そうだ。


 母の自分を想う気持ちに嘘偽りがないからこそ、くるみは現実問題いろいろ親の気持ちもこれまでの恩も含めて考えて、結局説得することに力及ばず屈したのだ。


 ——でも。それでも。


「私は、碧くんとなら幸せになれるって信じています。でも碧くんに幸せにしてもらうつもりはありません。どちらかが寄りかかる関係を健全なんて……私は言えない。碧くんと時に支えあいながらも私はきちんと自立していきたい。大学も同じだと思う。自分で進路を決めたいのは、自分の幸せに責任を負いたいからです」


「責任という言葉を扱うからには、失敗しても自分で解決しなきゃいけないってことなのよ? 私はまだ、くるみが自分でそう出来るかどうか心配だわ」


「なら、お母様の心配を晴らしてきちんと送り出してもらえるようにがんばる。もちろん今後も見守って応援してくれたら、それが一番嬉しいし、現実問題としてお金のことではしばらく頼ることになるかもしれない。でもそうじゃなくったって、自分の選んだ道の結末を見ないまま、今の延長線上を幸せっては……言い切れない」


「そこまで言うならもう一度訊くけれど、あなたの言う『幸せ』がなにかを、その定義をお母さんに今教えられる?」


 それは以前、答えられなかった質問。


 でも今はきっと言えるはず。


 碧がくるみに勇気をくれた今なら……。


 深呼吸をして、まっすぐ母を見た。


「うん。教えられる。でもそれを伝えるためには、言葉じゃだめなの」


「ならどうするというの?」


「ケーキを焼きませんか。今から一緒に」


 突飛な提案があまりに予想だにしなかったようで、母は目を丸くしたが、くるみは気にせず言葉を紡ぎ続ける。


「そうしたらきっと……きっと私の大事にしたいものが伝えられると思う。今の私を知ってほしい。だから、おねがいします」


 母は眉根を険しく寄せ、しばし瞑目する。


 そのリアクションがマイナスのものに思われてくるみは祈るような思いで発言を待ったが、ややあって母はまぶたを持ち上げて答えを出した。


「分かったわ。それで、あなたの言う『幸せ』をお母さんに納得させてくれるなら」


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