第218話 四等分の愛情(3)
——くるみのことは、母親として私が幸せにする責任があると信じていた。
大学教授の仕事はなにも学問を究めることだけにはない。教員として、若者の相談に乗るのもまた、大事な仕事である。
故に、たくさん見てきたのだ。
指導者という立場から、多くの学生が失敗していくのを。
高校三年という重要な時期がありながら、大学生になってから「もっと勉強しておけばよかった」と嘆く若者。人生の夏休みだと遊びばかりに惑溺した挙句にエントリーシートに書けるものがないと焦る四年生。大した目標もないまま嫌な就活から逃げるように大学院に進学し、後になって「こんなはずじゃなかった」と後悔する人もいた。
まわりの助言も聞かずにそれなら、自己責任で片づくのだからまだいい。
問題は、大人の手助けもあって自分の選んだ道が正しいと信じ突き進んだ結果、努力が一歩及ばず哀しくも転落してしまう者だ。
あれほど己が未知数な将来に目を輝かせていた青年が挫折する様は、それが自分が相談に乗った学生であれば余計に、教員の責任というものを宮胡に改めて深く重く考えさせた。
同時に、帆高とくるみには、彼らと同じ轍は踏んでほしくはなかった。
残念ながらこの世界は、全ての人間が思いどおりになるふうにはできていない。競争だらけの社会は椅子取りゲームだ。限られた席を奪い合い、どれほどよい椅子に座れるかが今後の人生を左右する。
知見のある大人がきちんと導いてやらねば、間違った判断で早々に道が閉ざされてしまうなどざらだ。自分の子供たちがそうなるのは見るに耐え難い。
ましてや宮胡が嫁として戸籍にはいった楪家は、百年以上続く由緒正しい名家。
親戚には権力者階級の人間も多く、右を見れば官僚、左を見れば代表取締やらがごまんといる。そういう人たちと関わりを持つ——血縁として持たざるを得ないとはすなわち、おのずと自分と彼らを比べてしまうということ。宮胡は大事な息子と娘に、誰かと比べて自分が劣っているだなんていう惨めな気持ちを覚えさせたくはなかった。
「いいこと。努力して積み重ねたものは、何にも代え難い一生の財産よ。帆高もくるみも、たくさん勉強をしていい学校に行きなさい。これからの長い人生、お母さんたちが最後まで一緒にいてあげられる保証はないのだから」
二人とも幼稚園から受験をさせ、小中高の一貫校に入学させた。評判のいい家庭教師を就け、清く正しく堅実な人生へと導くべく手を尽くした。とくに世間知らずのくるみには、近年は時代の進みとともになくなりつつある閨閥結婚の伝統など関係なしにきちんと幸せにしてくれる伴侶を見つけるため、親戚にいい人を探してもらうように頼み、手筈を整えた。
そうすれば少なくとも、同じく縁談で結ばれて教授として手堅い幸福を手にした自分と、同等の幸せは約束できるはずだ。
とはいえ——くるみがこの状況を好しとしていないのにも、気づいていた。
小さい頃はあれだけ従順で親の言いつけひとつ破ったことがない子だったのに、中学三年になって別の高校を受験したいと言い出したのだから。
いつまでもお世話が必要な末娘のつもりが、いつの間にか自分で物事を考えられるようになったことに、宮胡はその時初めて気づいたのだ。
夫の後ろ盾と熱量に負けてその時は、大学は名門を選ぶことを条件に考えを譲ったが、本当は今も、その判断を後悔していた。
くるみの気持ちを優先したつもりで、実は娘のためにならないことをしたのでは……と。
未熟で夢見がちな子供の代わりに現実を見るのが、全ての親の務めだろう。実際、そのまま白陵院学校に残らせたほうが、受験には都合がよかった。
その事実があるからこそ、親としての重大な責任を放棄してかるはずみに背中を押してしまったんじゃないか、と何度も何度も後悔しては、軌道修正の手段を考えた。
でもそんな宮胡の憂患をよそに、自分で決めた高校に進学したくるみは、少しずつ自分の世界を広げていっているようだった。
「こんな時間から外出? もう冬だし日が暮れるのも早いのよ」
「人と会う約束をしているの。遅くならないうちには帰ります」
「……そう。約束の門限までには必ず帰るのよ。車にも気をつけなさい」
「はい。いってきます」
一年前の冬——。今振り返ればきっとちょうどその頃に、くるみの恋人を名乗るあの少年、碧と出逢ったのだろう。
母親が買い与えたものではなく自分で買った服を着るようになった。よく外出するようになった。何事も自分で判断して動くようになった。
早い話が、昔よりずっと生き生きするようになったのだ。
宮胡は思った。
——もしかして、娘を想ったはずの私の今までの行動は、ぜんぶ裏目に出ていた?
いや、と首を振る。
——けれども、人を世に送り出す立場にある私の判断こそが最も理にかなっているのは、それこそ自明の理だわ。
だから大学に関しては計画どおり自分の母校を受けさせることにした。くるみの説得も正統派の理屈で跳ね返したつもりだった。
そしたらなんと唐突に、自分で探し当てた恋人を会わせたい……ときたものだ。
きっと人の手を借りてでもまだ何か言いたいことがあるのだろうが、自由恋愛をせずそのまま結婚した宮胡にとって、恋人とは自分の知らない概念でもある。
正直、気乗りは全くしなかった。
「高校生の恋愛でしょう。どうせすぐに別れるに決まってるわ」
約束の前夜、自分に言い聞かせるように一人でそう高を括った宮胡は、それでも自分の弁に落ち度をつくらないため、この目で見て、確かめて、それから再度娘を説得する意志を固くした。
なのに現れたのは——
「今日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
どこにでもいそうに見えて、けれど話せば思いの外、礼儀正しい少年だった。
——想像よりもずっとしっかりしているわね。言葉遣いも挨拶も問題ない……。
第一印象がこの後の関係にもずっと響き続けることは、もちろん宮胡にもよく分かる。だからこの時点で、少なからず悪くないという印象を抱いたのは認めざるを得なかった。
だが、それに留まらず。
「お二人にとっての大事な娘さんを、僕も大切にしたいと思っています」
まだ若いながら、彼女の親の前で澱みなくそう言ってのけた豪胆。
大人に好かれる発言をしようと狙いを定めたわざとらしさも見えない。
そもそも、相手の親への挨拶という多くの若者にとっての苦難を物ともせずここに来た時点で、娘への思慕と誠意は折り紙つきのはずなのに、なぜ当日相見えるまで気づけなかったのだろう?
「ところで今日私たちに会いに来たということは、もしかしたら貴方のご両親にも、うちの娘がすでに挨拶を済ませているのかしら?」
そんなことを聞くつもりはなかったのに、つい口を衝いて出ていたのも、宮胡の混乱を示していた。
——私ったらいったい、なにを期待するようなことを……。
「いえ。えっと、きちんとした挨拶はまだなんですけど、僕たちがこういう関係になる前にぐうぜんばったり出会ってそれで打ち解けたと言いますか……。それがきっかけで僕の親もくるみさんとは仲よくさせてもらってます。くるみさんが紅茶と甘いもの好きだからって、今度一緒にカフェ巡りに行きたいなんて息巻いてました」
その返答もまた、宮胡の動揺を深めさせるものだった。
あの人見知りのくるみが、ましてや年上の誰かと打ち解けて趣味や嗜好を話すなど、考えられないこと。年頃の少女にしてみれば当たり前なのだが、親の知らないところで人間関係を広げていることへの嘆きもさることながら、少なくない衝撃もあった。
少しずつ自分の世界を構築し始めているのでは、という予想が確信になったのも、この瞬間だった。
「……くるみがまさか、そんなこと話してるだなんてね」
碧が頷く。
「ですから僕も……僕の親も、本当にいつもくるみさんにはお世話になっているんです。僕は事情があって一人暮らしなのですが、その存在にはすごく支えられていて。彼女にとっても僕とつき合うのは一つの大きな決断だったはずだと思います」
そうかと、宮胡は心のなかで呟く。
娘の主義や信条が少しずつ自分と解離してきていることを、宮胡は常々察知していた。
だからこそきっとこれまで分かりあえず、ボタンを掛け違い続けていたのだろう。
もしかしたらこの少年こそが、娘に未知の価値観を与えてしまったのだろうか。
——くるみに道を示してやるのは私の役目だったはずなのに……。
自分自身でもばかばかしいと分かっているはずのやきもちを持て余しながら、ぐるぐると底なしの谷へと旋回するように思考を廻らせているうちに、彼は父と一緒にどこかへ出ていってしまった。
最後まで、交際に関する反対も賛成も言うことはできなかった。




