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第217話 四等分の愛情(2)



 ——お嬢様は、我が子のように愛おしいとても立派な子でした。




 楪家のハウスキーパーとして契約し、雇われている上枝は、ここで働き始めてもうずいぶんになる。


 ここに勤めていた先代の家政婦が体を悪くして辞めたことでポストが空いた時、料理の腕と角を立てない人柄を買われて話が来たのがきっかけだった。その当時は、ここの長男の帆高が中学に進学した辺りだったので、かれこれ十数年に渡るだろうか。


 それだけに、くるみの頃は彼女が物心つく前からよく知っていた。


 自分にも家庭はあるし、同じくらいの年頃の子供も二人いるが、くるみには折につけよく驚かされた。礼儀正しく賢く何をやらせても優秀で、自分の息子と同年代とは到底思えないほどだったのだ。


 それでいて優しくて好奇心が旺盛なくるみに、上枝は契約外ではあるが絵本を読んでやったり、お話を聞かせてやったり、おままごとにつき合ってあげたりと、出来うる限り構い、たいそう可愛がった。


 それは彼女の両親が多忙だからというのもあるが、一番は上枝もまた、くるみという一人の少女を我が子のように愛していたからだった。


「上枝さんはどうして、そんなにお料理がじょうずなのですか?」


 それは、帆高が一人暮らしのために家を出ていってしばらくした時——その年のクリスマス・イブのことだった。


 朝から雪が降り積もり、夕暮れ時にも解け残っていた。


 少女が師事している近隣の音楽教室に徒歩で迎えに行き帰ってきたあと、少し早めの晩ごはんの支度をしていると、アイランドキッチンの向こうからぱっちりした目でじーっと見上げてそう言ったのだ。


 近隣の小学校からは、冬休みが始まったと言うのに雪遊びに集まった子供達のはしゃぎ声がここまで届いていたが、残念なことにそういうものにくるみはほとんど縁がない。今日も年頃の子にとっては一年で一番の祝祭の前日に関わらず、習い事と家庭教師の来訪の予定が詰まっていたのだ。


 なので先にこちらの仕事を済ましてしまおうと思ったのだが、少女の問いかけに、上枝は一度手を止めた。


「あら。お褒めに預かり光栄です。昔から毎日お料理しているからですかね?」


「毎日……うちでしてるからですか?」


「それもありますけれど、我が家にもお嬢様と同じくらいの歳の子が二人いるのですよ」


「おなじくらい……ですか」


「ええ。学校は違いますけれどね。世田谷の公立に通っているのです」


「ふたりとも?」


「はい。年子ですので二人とも同じ学校なんです。男兄弟なのでちょっとやんちゃですけれど……朝は仲よく一緒に登校しているのですよ」


「そっかあ。……いいなあ」


 小さく呟いたくるみに、今のは失言だったかと上枝は思わず口許を抑えた。


 しかしそれすら彼女は目敏く気づくと、寂しげな印象を塗り替えるように笑う。


「家庭教師さんが来るまで、冬休みの宿題をしてきますね」


 ぱたん、とダイニングが閉まる音を聞きつけ、上枝はひっそりと息を落とした。


 くるみは兄に殊の外よく懐いていたから、彼がいないのがさぞ寂しかったのだろう。


 今までの明るい人柄は近頃すっかり鳴りを潜めてしまい、それでも気丈に振る舞おうとする姿が、見ていてすごく心苦しかった。


 だからだろう。その日、上枝は小さな親切をしたくなった。


 余計なお世話になることはないはずだ——と思いながら、棚の一番下からアナログの計量器を取り出した。


 


 家庭教師が帰宅してしばらくし、時計の短針が七を指す頃。


 いつもの晩ごはんの時間ぴったりに、上階から降りてきたくるみを、上枝はエントランスで出迎えた。


「お疲れ様です。お嬢様は今日もお勉強をがんばりましたね」


「はい」


 扉を押し、どこか淡い期待にみちた表情でダイニングへとてとて近づくや否や、そのヘーゼルの眼差しがひとりぶんしかないテーブルセットにまっすぐ注がれたのを、上枝は見逃さなかった。


「……お父様とお母様は、今日も遅くまでおしごとなんですね」


 紡がれた言葉は寂しげなもので、上枝は口をきゅっと結ぶ。


 むろん、並べられた皿や銀器たちは言わずもがな、くるみのためだけのもの。


 この家にはもう何年も、クリスマスが存在していない。何もない平日と一緒だ。そのことを分かっていながら、やはり子供ながらに家族みんなで一緒にケーキを囲むことを期待していたのだろう。


「ええ……なるべく早く帰れるようにするとは事前に伺っていたのですが。あ、でもプレゼントは預かってまして。リビングのテレビボードにありますので、お食事が終わりましたらぜひ開けてみてはいかがでしょうか? お料理は今お持ちしますので、座ってお待ちくださいね」


 明るく振る舞うと、上枝はそそくさとキッチンへ引き返す。


 せめて、これがくるみの寂しさをまぎらわす一助となるのなら。


 出来立ての料理を載せたキッチンワゴンを押し、テーブルに料理を並べると、椅子で泣きそうにしていたくるみの表情はたちまち驚きに彩られた。


「上枝さん! これ……」


「もしかしたら余計なお世話かも、と思ったのですが……」


「! そ……そんなことないです!」


 くるみは慌ててぶんぶん首を振り、切り揃えた髪を揺らす。


 そして再び、感動に打ちひしがれた様子でテーブルを眩しそうに見つめた。


 ひとくちサイズに切った野菜のサンドイッチとかぼちゃのポタージュ、こんがり焼かれたローストチキン——それは見まごうことなく、年に一度のクリスマスのごちそうとして少女の目には映っているはずだろう。


 こうまで喜んでもらえたなら腕を振るったかいがあったものだ、と上枝は穏やかな笑みを浮かべた。


「クリスマスですもの。もちろんデザートもございますよ」


 そう言って最後に出したのは、子供の両掌に収まるような、小さな苺のショートケーキ。


 真っ白なクリームの上では、サンタクロースの砂糖菓子とホワイトチョコの雪だるまが押しくらまんじゅうのようにぎゅうぎゅうに、賑やかに並んでいる。時間を掛けずに焼けるシンプルなレシピを覚えていてよかったと、今日ほど思ったことはない。


 くるみはまた泣きそうに表情を歪めたが、やがてぐしぐしと目許を袖で拭った。


「……ありがとう。上枝さん」


「とんでもないです。お嬢様に喜んでいただけたなら何よりですよ」


 りんごジュースをグラスに注ぎ、キッチンをきれいに整えようと踵を返すと、ぽつりとした呟きが耳に届いた。


「わたしも……」


 振り返ると、くるみはナイフとフォークを取り上げてなお、並んだ料理を眺めている。


 冷めてしまいますよ——と朗らかに促す前に、くるみは続きを言った。


「わたしも上枝さんみたいに、お料理上手になりたいです」


「あら? それは嬉しゅうございますね」


「そしていつか、私にも大事な家族ができたら、手づくりのケーキとかごちそうを、こういうふうに振る舞ってあげたいです。そのために今からお料理の練習をいっぱいするの。そういうの……どう思いますか?」


 不安そうにこちらを見ては意見を訊ねるので、上枝はその言葉の裏に隠された寂しさや自己の抑圧を思い、洟をすすりながらも大仰に頷いた。


「素敵じゃあございませんか。そしたら今度、お料理教室をしましょうか?」


「……ほんとう? 上枝さんが、教えてくれるの?」


「ええ。私で教えられることでしたらケーキでも何でも伝授いたしますよ」


「煮物とか、だし巻き玉子も?」


 真っ先に好物な和のおかずを挙げるくるみに、上枝は思わずくすりと笑った。


「あら、クリスマスケーキはよろしいので? それにだし巻き玉子はああ見えてなかなか難しいのですよ?」


「ならレシピ見て予習をしておきます」


「ふふ。お嬢様らしいというか、お勉強熱心でようございますね。ほら、お料理が温かいうちに召し上がってくださいな」


 くるみがスプーンを動かすのを見て、上枝は思い出したように大事なことを言う。


「そしたら、お父様のほうには私からそれとなく許可をいただきます。お母様は……そうですね、お父様のほうから時期を見てお話をしてもらいましょうか。それまで、お嬢様からはこの事は内緒にすると約束していただけますでしょうか?」


「はい。わかりました」


 おそらくこの提案、宮胡が首を縦に振ることはないだろう。


 かといって親に許可を得ない訳にはいかないので、友晴だけに相談する。お料理教室も、くるみと二人きりの時だけ。これが、上枝に許されたぎりぎりの決断だった。


 料理を教えてもらえることが嬉しいのか、くるみは先ほどよりやや元気を取り戻した様子でチキンに手を伸ばして——それからはっと何かに気づいたように、こちらを見た。


「あの……」


「はい。何でしょうか?」


「上枝さんはお子さんがいらっしゃるのでしょう? わたしと同じくらいの」


「ええ? はい」


「お家で一緒にクリスマスはなさらないのですか?」


「ああ。それは……」


「もしかして、私がいるからできないのですか?」


 一瞬、言葉が見つからなかった。


 息を喉に詰まらせながら、なんとか立て直った上枝は、ゆるりと首を振る。


「……いえ。そんなことは全くありません。私はお仕事でここに来て、対価としてきちんとお金は頂いているのです。お嬢様が気にされることはないのですよ」


「でも、他人のわたしが上枝さんを独り占めして……それで本当のお子さんたちがクリスマスできなかったら、可哀想です」


 きっと名も知らぬ同い年の子供を、自分の境遇と重ねているのだろう。


 その健気さに上枝は危うく涙してしまいそうになるも、くるみは励ますような笑みを浮かべ、幼いながらの説得を重ねてきた。


「わたしは大丈夫です。お皿もお片づけできます。なので、なるべく早く帰ってあげてください。きっと上枝さんの帰りを今かと待っていると思います」


「そんなことは……」


 言いかけて、口を噤む。


 続きを言えば、くるみの寂しさも一緒に巻きこんで否定してしまうことに、気がついたからだ。


 結局、長い逡巡の果てに、今日だけ早上がりさせてもらうことにした。


「……では、申し訳ないのですが、お言葉に甘えさせていただきますね」


「はい。どんなすてきなクリスマスだったかを、ぜひ今度教えてください」


「ありがとうございます。お嬢様もどうか、よいクリスマスを」


 エプロンを脱ぐと、畳んだそれを鞄に仕舞って一礼する。


 くるみもぺこりと礼儀正しい会釈をするのを見届け、上枝は後ろ髪を引かれる思いでしんと寒気に沈むエントランスに出た。


 もちろん気がかりだった。息子と同い年の心優しい少女を、イブの夜に独りきりにすることの心苦しさたるや。でもそんな彼女の親切をむげにする訳にはいかず、物音を立てぬよう静かにコートを羽織り、靴を玄関のタイルに並べようとして——その手が止まった。


「あ……」


 たった今出てきたダイニングから、幼いすすり泣きが聞こえてきたからだ。


 涙を零さぬよう、上枝が去るまで耐えていたのだろう。


 その心情を思えばそれだけでまたじんと目許が熱くなる感覚がしたが、かろうじて引き返さず、上枝は玄関の扉を押した。


 真冬の刃物のような夜風が、湿った頬に冷たかった。




 その閑寂なイブの夜から、何年かが経った。


 幼かったくるみもすっかり年頃の少女らしく大きくなり、教えた料理についてもどんどんと覚え、上達していった。


 そして高校生になってしばらくしたある秋の日のこと。


 上枝は、くだんの少年と出逢っていた。 


 ——似てる……じゃない。やっぱりそうだわ。


 近頃、くるみがスマホをうっとりと見つめていることが何度かあった。お嬢様もお年頃ですものとあらかた見当はつけつつ、やはり気になったので思い切って尋ねてみたところ「好きな人がいるんです」と、頬をほんのり染めながら言ったのだ。


 そうしてはにかみながらも見せてくれたのが、少年の写真。


 はっきり姿かたちまで覚えていたわけじゃないが、今時珍しいくらいの黒髪に碧空のように澄んだまっすぐな瞳の彼は、上枝の印象に深く銘していた。


 誰より優しくて気遣い上手で自分をすごく大事に扱ってくれるんだ、と彼を誉め倒していたくるみの、これまでついぞ見たこともないほどに輝く表情も、また一緒に。


「手伝いますよ」


 自転車を倒してしまった上枝に、そう言って迷わず手を貸してくれた彼の第一印象はもちろん良好だが、その後くるみが恋に落ちた相手と知った後、何より話していて確信した。


 ——ああ、この子は本当にお嬢様のことを愛してらっしゃるんだわ。


 時間にしてたった十五分程度の、短い会話。


 そのなかに、今ここにいないくるみへの深い愛情が散りばめられていて、上枝はただ表情に出さずに圧倒されるばかりだった。


 大事な彼女のために、誕生日を祝ってやりたい。それはごく当たり前でナチュラルな気持ちだが、祝祭日や記念日もひとりでいることが多かったくるみにとって、それは今一番に必要な気持ちでもあっただろう。


 そして再び到来した本日——クリスマス・イブに、上枝は初めて見た。


 くるみと碧、ふたりが揃ったところを。


 勿論、仕事中なので話しかけるわけにはいかないが、その様子を遠巻きに眺めては、かつて抱いた印象に答えあわせをしていた。


 ——お嬢様のほうは、相当惚れこんでいることがうかがえたけれど……これは私が前に思ったことが、どんぴしゃで当たっているようね。


 本当に愛おしいものにしか投げかけられないような眼差しを、優しく彼女に注ぐ碧。


 両親を前にまさかいちゃついているわけがないのだが、ただふたりが視線を交わすだけで、(とし)がいもなくこちらがむず痒くなるくらいの甘酸っぱさを味わっていた。


 互いを信頼し切っていることが交わしあう視線からだけで読み取れる、仲睦まじさが滲み出ている。そんなふたりが隣同士並んでいるのを初めて見て、こう思ったのだ。


 ——やっぱり私の目に狂いはなかったのだわ、と。


 きっと正しく、これ以上なく最善の縁が結ばれたのだろう。


 まるであつらえた本と栞の如く、二人は互いを補いあうようにぴったりと嵌まっていた。


 ——あなたたちは互いに惚れるべくして惚れたというのですね。


 ——そういう人を見つけることが出来て……ほんとうによかったですね、お嬢様。


 互いが互いを必要とし、当たり前のようにパートナーの隣に居ることを選んで今日ここまでやって来た彼らはきっと、今後どんな困難があっても打ち負けることはないんだろうと、そう思えた。


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