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第216話 四等分の愛情(1)



 ——くるみはずいぶんと物静かで、大人しい娘に育ったと思っていた。




 幼い頃は、人並みに感情表現ゆたかだった。


「お父様……この子、ほんとうに貰ってもいいの?」


「うん。くるみのために買ってきたんだよ」


「わあ……! ありがとうお父様。大事にする!」


 誕生日にくまのぬいぐるみを与えればはしゃいで喜び、外出先で失くせばぽろぽろ泣いて哀しみ、それが交番に落とし物で届いていると知れば再び嬉しくて舞い上がっていたのを、よく覚えている。


 だがそれも、年々ひっそりと落ち着いていった。いったい誰に似たのかは分からないが、一番上の帆高とも自分とも妻とも違う。しっかり者で、何かを抱えこむこともなく、一人でも大抵のことは迷わず自己完結できると思える、そんな信頼のおける子になった。


 そんな娘に対し、そもそも自分は父親としてあまり気の利いた事はできなかった、と思う。仕事のためだとはいえ家を空けがちで、学生になった娘とはすれ違いが続いた。


 今になって振り返ればもう少し構ってやれれば、あるいは小学校からもう少し自由度の高いのびのびとした学校に入学させてやれればよかったんじゃないか、と思ったりもする。


 しかしながらこの家で教育の主導権を握るのは、妻だ。昔から子育てについては熱心な彼女に任せ、だからこそおかげで自分も仕事だけに集中できた。


 その期待に一番初めに答えたのは帆高だった。自分たちの優秀な息子であり、くるみのたったひとりの兄でもある彼は、親である我々の高い理想についても文句の一つも言わずに勉学に励み、ぶじに有名大学に進学した。それを自分と妻は、親として素直に祝福した。


 大学ではマーケティングを専攻して好成績を修めたのち、私の会社へ。今は若年ながら西日本支社で企画と広報を任されている。


 修得した知識を存分に活かせるからか、あるいは本人ももともと関心があった分野だからか、はたまた気さくな人柄あっての周りを味方につける求心力のおかげか。当てがった仕事は帆高にとってやりがいがあって仕方ないようで、まさにうってつけと言ってよかった。


 そう、思っていた。


 問題ないと思っていたのだ。


 親の指し示した道と息子のしたいことは、幸運にも一致していたのだ、と。


 それが間違いだったと気づいたのは、ちょうどくるみが高校受験を控えた時。


 きっかけはその年の冬で、仕事の都合で赴いた神戸にて帆高と、一年ぶりに会ったことだった。


「久しぶり。父さん」


 帆高が借りている小さな駅近のマンションを訪問すれば、通販のロゴがはいった空の段ボールまみれで散らかった玄関から、彼がのほほんと出迎えてくれた。


「久しぶりだな帆高。元気にやってたか。……というかこの汚しっぷり、結構なひどさだが。本当に大丈夫なのか?」


「ぼちぼちやってるよ。たいへんなことと言えばまわりがみんな関西弁でアウェーなのと、掃除する時間がなくてこの有様なことくらいかな」


「ははは……まあ昔から家事は上枝さんに任せていたからな。帆高もこっちまで新幹線で来てもらうしかないだろう。関西弁もそのうち慣れるさ」


 冗談を言いあい、立ち寄った大阪駅の地下で買ってきた惣菜とワインで晩酌をした。


 テレビをつければ関東とはまた違ったお笑い番組が放送されている。ほろ酔いも進んだところで改めて尋ねた。


「で……どうだ。実際のところは。東京とはずいぶん離れたし、大学の時の一人暮らしとは訳が違うだろう? ホームシックになったりはしてないか?」


「いやいや。むしろ羽伸ばせてるくらいだよ。……あ、でも」


「な。なんだ? 困ってることでもあるのか? お金のことなら父さんに——」


「いやそうじゃなくて。くるみは大丈夫なのかなって」


「なんだ、妹が心配なのか? でも何も問題ないだろう。私もお母さんも一緒にいるし。今までどおりのはずだ」


「うーん……なんて言うかな」


 帆高は困った様子ではないものの、妙にはぎれが悪かった。


 テレビの音量を下げて、大仰に腕を組み、しばらくうんうん眉根を寄せて唸ってから口を開いて出てきた言葉は、前後のつながりが全くもって行方不明なものだった。


「父さん。実は僕、ほんとは映画監督になりたかったんだよね」


「……え? 映画監督?」


 あまりにやぶから棒な発言に、ついあんぐりとする。


「そう。子供の頃に観た映画がすごく面白くて。お小遣いでカメラも買って、いろいろ調べて自分で撮影したりもしてた。実は高校の時に、一緒に一作つくってみようって友達に誘われたことあったんだけど、もう二年だったし。母さんに相談しても駄目って言うだろうから言わなかったんだ」


「それは……」


 言葉が出なかった。


 自分の知らぬうちに息子が、光溢れていたかもしれない一つの道を、始める前から諦めて捨てていた。その衝撃が重くのしかかったからだ。


「でも今考えても、ちゃんとプロになれるかで言ったらさすがになれっこないだろうし、いいんだ。この仕事も好きだしさ。……でもこの話、母さんとくるみにはしないでね」


「え? それはどうしてなんだい?」


「兄って一番近くにいる手本みたいなものでしょ。そんな僕が自分のやりたいことを折ったなんて知ったら、くるみが自分の進路を決める時にいろいろとよくないだろうから。母さんだって、今さらこんなこと言われても困るはず。……誰も幸せにならないんだ。言わなかったのは僕だし、どうにか出来ることでもないんだからさ、いいんだ」


「ああ……」


 ——とりあえずその場は頷いたものの、帆高の叶えたいはずだった自己実現の種に気づけずに、親として正しく後押しできなかったことの後悔は、その後もしばらく忘れることはできなかった。


 だからこそ、高校受験の際には、くるみの気持ちを何より最優先にしようと決めたのだ。


 宮胡の、くるみの成功を望む気持ちは確かだが、その〈成功〉の定義自体を信じてやれなかった自分は二人の間に立って交渉した。娘の想いもまた本物かつ真剣だったこともあり、妻も渋りつつ、最後の最後には譲ってくれた。


 だが——それも三年前の話。


 今回は同じようにはいかないだろう。


 帆高の大学を推す宮胡の言説は学歴が重視される日本において、どれも正しいものばかり。論理に一本筋がはいっているのだ。少し厳しい気もするが、その何事にも私情を挟まぬ人柄が評価され、宮胡を若くして大学教授の座に押し上げたことは周知の事実。友晴のほうは子育てに関して門外漢なのも手伝い、その鋭利なまでの正しさに、父親としてその理論をくつがえせる何かを見つけることはできなかった。


 たとえその〈正しさ〉が、必ずしも子育ての〈正解〉になりえないことを、分かっていても……。


 もちろん今日に至るまで、自分が今どうすべきなのかは散々考え直した。娘が再び母を説得しようとしているのを知りながら黙って見守るだけの自分を、果たして父親と呼べるのだろうか? 親というのは子供の成長に手を貸してやるべきじゃないのか?


 ——娘が碧を連れてきたのは、そんななかでの出来事だった。


 提案されたときは正直、父親としての動揺も相俟(あいま)って気持ちとしてはそれどころではなかったが、断るのも心象が悪い。


 日程は空けたものの、まだ会ったことのない娘の彼氏について何かを期待するどころか、打ち解けようという指向すらまともに抱けなかった。


「……あまりに申し訳なく、情けない話だ。君もくるみにはどうか、言わないでおいてくれるかな」


 ひととおり話し終えると、目の前の青年、碧は物分かりいい様子でこくりと頷いた。


「今日も彼氏の紹介っていうことで、本当は素直に迎えてやりたかった。……もちろん年頃の娘の父親ってことで諸々の複雑な想いがないわけでもなくて、君には見苦しいところを見せてしまった訳だが。それでも自分の意見をなかなかに曲げない宮胡よりは君たちの味方でありたい、と思う」


「……その言葉を聞けてほっとしましたよ。会う前から嫌われてるんじゃないかとひやひやしていたので」


「それは本当に申し訳ない! いやぜんぜんひやひやしてる風には見えなかったけども」


 でも、と友晴は穏やかな笑みを浮かべる。


「ほっとしたと言ったら、それはこっちの台詞だよ、碧くん。君が現れてくれて、僕は心底安堵したんだ。娘を宝物みたいに、あまりにも大切に愛おしそうに扱ってくれるもんで……娘のああした感情表現を見るのも久しぶりで」


 碧の隣で、年頃の女の子らしくほんのり照れたり、笑ったり。


 正直言うとかなり驚いた。


 人見知りなのもあり、家族以外の誰かにありのままの感情を見せるような娘だと、思わなかったから。


 もっともその家族にすら、ここ何年もああいった瞬間を見せることはなかったのだが。


 そして同時に悟った。くるみがあんなに眩く輝く笑みを取り戻せたのは、他でもないこの青年のおかげなのだ……と。


「多分僕は、ずっと待っていたんだと思う。くるみをこうして大事にしてくれる、家族以外の誰かが現れてくれるのを……」


 いつか親もとから、子供は旅立ってしまう。


 そして子供が不幸にも親不孝な目に遭わない限り、親は子供をおいて先に居なくなってしまうものだ。


 宮胡も自分も、考えは違ったって根っこは同じ。いずれ大人として自立して、この家を巣立っていく子供の行く末が心配で心配で、だから縁談だの何だのと、あれこれ手を焼いては空回りしていたのだと今になって思う。ただ我が子が幸せでいられれば、それだけで十分なはずだったのに。


 自分たちが忘れ、見失っていたその目的を、碧は初めから分かっているようだった。


 彼はそんな小難しいことに囚われることなくシンプルに明快に、きっとただ娘の幸福と気持ちを一番に大事にしている。


 ひいてはそれが、僕たち家族の存在をまるごと肯定してくれたようで、どこか救われた気持ちになったのだ。


 ——きっと今日うちに挨拶に来るのにも、事前にふたりでしっかりと話しあってきたんだろうな。今後のことを十分に考えて……。


 親同士の勧めで結婚に至った自分たち夫婦よりも、よほど確固たる信頼関係を友晴はふたりの間にすでに見ている。碧はくるみの判断を心から信じられていて、だからこそ、くるみのことを尊重することが出来ているのだろう。


 ——私たちのすれ違いの原因は、いつまでも子供扱いして、娘の現在(いま)を見ずにきちんと信じてやれてなかったこと。


 彼は今日、そのことに気づかせてくれたのだ。


 ふぅ……と重力から解放されたため息を吐いて、曇りを拭った眼鏡をかけ直す。


 眉間のブリッジを優しく押すと、友晴はクリアなレンズのおくから、テーブルを挟む碧に柔らかな眼差しを送った。


「いろいろ想いはあるが、とりあえず今は一言だけ、言わせてほしい」


 クリスマス・イブが始まったときには言う予定のなかった言葉と一緒に。


「今日……僕たちに会いにきてくれて、ありがとう」


                *


「……宮胡さま、お嬢様。お茶のお代わりはいかがいたしますか?」


 家主と来客が居なくなってしんと静まり返ったリビングで、家政婦の上枝はテーブルを片づけながら、残された二人に控えめに声をかけた。


 宮胡はソファに深く身を預けて、眉間を押さえている。こちらの呼びかけに気づいていないようだ。娘の彼氏の訪問に、相当思うことがあったのだろう。


「あ……私もお手伝いします」


 立ち上がり、そう申し出てくれたのはくるみだった。


「いえいえ。お嬢様はお座りになっていてください。これは私の仕事ですので」


「でも、じっとしていると落ち着かなくて……」


 宮胡の目の前なこともあり、雇われの身として一度は断らねばならないが、揺れる瞳でおずおずと手を伸ばしてくるくるみに見兼ねて、上枝は口角を持ち上げ、小さくささやく。


「では申し訳ありませんが、お言葉に甘えましょう。私は茶葉を出しますので、お嬢様はお湯をおねがいしてもよいですか?」


「はい。……ありがとう」


 ケトルを手渡すと、目的を得て気がまぎれたか、くるみはてきぱき働き始める。


 上枝もその様子に安堵しつつ、アイランドキッチンにむこうで今なお物思いに耽る宮胡に眉を下げる。


 ——私もここで働き始めて、ずいぶん長いもの。宮胡様のお気持ちも、推して知るべしでしょうね。


 ——でも……私はもう何ヶ月も前に、お二かたに先駆けて彼にお会いしてしまいましたから。言葉には出来ずとも、心情としては今日はどうしても、勇気ある若いおふたりのほうの味方をしてしまいそうです。


 やってきた碧を出迎えた人間のうち、家事手伝いの自分は唯一の第三者だ。


 でも、他人として思うことがなにもない訳ではない。むしろ身の回りの世話をした自分こそが、雇い主に負けないくらい多くの時間をくるみの近くで送ってきたはずで。


 それだけに、くるみに対し上枝は、一言ではとても言い表すことのできない大きな感情を持ちあわせていた。


 ——あの時のクリスマス・イブから今日で、丁度何年かしら。


 そうして上枝は茶葉を量りながら、くるみに料理を教えるに至った、もう何年も昔の出来事を思い出した。


明けましておめでとうございます!

今年も更新頑張りますのでよろしくお願いいたします。

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