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第215話 昔の思い出 



 その辺でタクシーを捕まえた父に連れられ、碧は後ろの座席で静かに鎮座していた。


 ちょうど小雨が降ってくる。雪になり切れなかったぼったりと重たいみぞれの雨粒が、ぽつぽつとフロントガラスを白く彩るのを、ワイパーがゆっくりと反復横跳びをして退ける。


 行き先に車で十分ほどの駅を指定し、タクシーが静かに発進すると、助手席からくるみの父は半分ほど振り返り、冗談のように言った。


「ガレージの車に乗せてもらえることを期待していたらすまないね」


「いえ。帰り道、法律は守らないといけませんから。けれどそうですね、格好いいお車なんで気になってはいました」


 ほう、と白髪っぽい眉が片っぽだけ上がる。


「君は見る目があるな。そうだ、やはり車にはロマンがあるだろう? ……妻はあまり理解を示してくれないんだよ」


 くるみの父は肩をすくめて残念そうに言った。


 そんな裏事情を聞けば、庭先の頑丈な箱のなかに佇んでいたあの白いアストンマーチンがやけに肩身狭そうに思えてきて、ちょっぴり親しみやすさを覚える。


 それから気になっていたことを念のために訊ねてみる。


「……あの、僕の一杯つきあえって言うのはお酒のことじゃないですよね?」


「まさか。君は烏龍茶でも頼みなさい。私はビールを頼むけどね」


「そうですか、よかった。……あの、下のお名前をお聞きしてもいいですか?」


「え? 友晴(ともはる)だが」


 くるみの父は、若干困惑しつつ答える。


「では友晴(ともはる)さんと下の名前でお呼びしてもいいですか。くるみさんのお父さん、と呼ぶのも長いし、かと言って略してお父さんってあんまり呼びすぎても怒られるかなと思いまして」


「あ、ああ。好きにしてくれて構わないが……」


「ありがとうございます。友晴さん」


 押されたように承諾をしてくれたので早速呼んでみると、決まりが悪そうにバックミラーに映った視線が逸らされた。


 くるみも碧からの頼まれごとは断らない節がある。あれは父親譲りなのだろう。


 伝聞ほどに悪い人ではなさそうだな、とひっそり思った。


                *


 連れてこられたのはなんと、庶民をターゲットにした大衆居酒屋だった。


 駅の裏にある細い路地。のれんの横には赤い提灯がぶらさがっていて、その下に出ているメニューの看板には、いろんな焼き鳥がお手頃な価格と共にずらりと記されている。


 今さら驚くほどのことでもないが、ちょっとだけ予想外だった。


「ここは私のお気にいりなんだよ」


「そうなんですか。なんていうか、僕はてっきり——」


「もっと高いところに通ってると思ったかな?」


「……はい。ご自宅があの立派な構えなんですもん。いったいどんなところに連れて行かれるんだろうと身構えちゃいましたよ」


 そんな素直な感想を可愛げがあると評価したのか、あるいは家を離れて人心地ついたのか、友晴は今日会って初めて笑ってみせた。


「ああいうところは会社のつき合いとか、記念日とか、遠くから来た親戚との食事で行くくらいだよ。普段からそんなに銭失いなことしていたら建てられる家も建たなくなるだろう」


「そういうものなんですか?」


「金は天下の回り物っていうのはいくぶんか真理を突いている諺とは思うが、同時に常に懐が寂しいひとのちょっとした言い訳でもあるからね」


 のれんを潜りながら引き戸をがらりと開ける。


「少なくとも私は、長く愛せるものには投資はするが、そうでないものには慎重でいたいんだよ」


 なるほど、これが本物のお金持ちの考え方なのか、と碧はちょっぴり感動した。


 物持ちのいいくるみの価値観とも似ているので、やっぱり親子なんだなと、こういうところで知らしめられる。


 けれど同時に、その〈長く愛せるもの〉にやすやすと他人をいれない〈慎重さ〉の切先が碧にも現実問題として突きつけられていることは、よく分かっていた。


 碧は、この人と仲よくなりたい。


 それは同棲するのに必要だからではなく、愛する彼女を大事に育ててきた家族とは親しくしていたいという、シンプルな想いからだった。


 店員に席へ案内されたので、それぞれビールと烏龍茶、そしておすすめのつまみ数点を注文。すぐに突き出しで枝豆が出てきて、まずはふたつのグラスをからんと合わせて、澄んだ音を鳴らす。


 他にも常連らしき客がいて、にぎやかに酒を酌み交わしている。天井吊のテレビはバラエティの特番を放送していた。


 すだれで区切られているとはいえこの喧騒はむしろありがたい。


 ことり、とジョッキをおいてから友晴は言った。


「ときに碧くんが育った国の街はどんなところなのかな?」


「ビールで有名ですよ。白がのみやすいです。お仕事とかで来たことありますか?」


「商談でヨーロッパには何度か行ったことがあるが、ドイツはなかったなぁ。……というか聞いたのは僕だが、お酒の味を語るなど、高校生がしちゃだめだろう」


「あっちじゃ十四歳から合法なんですよ」


「ええ。そうなの……それは初めて知ったよ。世界は広いんだなあ」


 枝豆をぷちぷちしながらジョッキをぐびぐび傾ける。


 あっという間に空になり、二杯目には焼酎とお冷を注文していた。


 店員さんが、鶏の唐揚げともつ煮、そして焼き鳥の串が盛られた大皿をいっぺんに運んできた。


 テーブルのはしっこから箸と七味を取る。


「友晴さんは揚げ物にレモンかけますか?」


「ああ、いいよかけちゃって。しかし今日は驚いたよ。まさかくるみが会わせたい人がいるって言うんで身構えてみてみれば……君のような子が来るもんだから」


「あはは。お気に召しませんでした?」


「それを嫌味なくにこやかに聞いてくるんだもんなあ……」


 友晴は決まりが悪そうに言う。


「碧くんはその……嫌な気分にはならなかったかい? 今日初めて会って僕ら、きっと印象が悪かったと思うんだ」


「そうですか? 別に気にならなかったですよ。あっほら。つくねありますよ友晴さん。くるみさんがお父さんこれ好きだって言ってました」


「君は実にマイペースだなぁ……」


 恋人の父親と〈差し〉と思えないくらい呑気な振る舞いをする碧に、友晴はもう呆れ気味というより押され気味だったが、ややあって困った笑みを浮かべる。


「それで」


 ひととおりの皿を味わったところで、碧が改まって切り出した。


「二人きりになったってことは、くるみさんの前では話せないことがあるんですか?」


 友晴の箸が、ぴたりと止まった。


「ああ。そのとおりだよ」


 返ってきた予想どおりの肯定に、碧は動揺ひとつなく唐揚げをひとつ箸で掴んだ。


「……でもその前にひとつ聞いておきたいんだが、碧くん」


 そう言いながら、声を真面目なトーンに戻す。


「君はくるみのどういうところを好きになったんだ?」


 ちょうど唐揚げをかじっていたところなので目だけを向けると、友晴は少し間をおいてから言い直す。


「碧くんの目から見た娘が、どういう子なのかが知りたいんだ」


 口を動かしながらしばし考えて——口を空にしてからは、迷いなく答えた。


「くるみさんはそうですね。すごく甘えんぼな子だと思います」


 友晴は呆気にとられる。


「え。甘えん坊……? いやまさか……。本当に娘のことなのかな?」


「はい。正真正銘」


 実の父にも聞き返されるほどの、真逆の印象。


 もしかしたら、本人が聞いていたら羞恥でぷんすこと憤怒していた事かもしれない。


 でもそれはまぎれもなく、碧から見たくるみの素直な実像だ。


 可愛くて可愛くてたまらない、愛しい彼女の真実だ。


「くるみさんには今まで、市井に暮らす僕には分からない困難もあったかと思います。彼女はそれをずっと学校の人には気取られないように振る舞っていて。それで学校の人も本当の意味ではくるみさんを理解できていなくて。それが僕には、まるで一人で言葉の通じない外国にいるみたいに映っていました。けれど……そんななかで出逢って、心を許す相手に僕を選んでくれた。こんな僕の隣にいることを決断して、甘えるようになってくれたんです」


 碧の心が離れることを怖れていたくるみは、それでも自分に打ち勝って、イルミネーションに見守られながらの夜、その時の想いを碧に話す決心をしてくれた。


 ——あの時、僕はたまらなく誇らしかったんだ。


 取り繕わずきちんと話そうと決断してもらえるような、そんな自分で在れたことが。


 愛する人が自分を信頼して、甘えて、寄りかかってくれたことが。


 それが何よりの、くるみから碧への愛の証だと、分かるから。


 頼っていいんだ、委ねていいんだってくるみが思ってくれたからこそ、碧は今こうしてここに来ることができた。昔のように一人で抱えこんだままなら、碧はこうして友晴と話すことすら叶わなかっただろう。


「友晴さんにはもしかしたら、甘えるって言うと悪いことのように聞こえるかもしれません。とは言っても、それは決して後退じゃなくて。むしろくるみさんにとっては前に踏み出した大きな一歩で……だから僕から見た彼女は、矛盾した言い方かもしれませんが〈しっかり者の甘えんぼ〉です」


 昔のけんもほろろな彼女を知っているからこそ、今の素直で明朗なくるみが、碧は可愛くて仕方がない。正確には今も時々ツンとすることもあるが、大抵は可愛がりすぎた結果の照れ隠しか、碧がからかって機嫌を損ねたかのどちらかだ。


 そんなくるみを、天が許せばもうお気に召すがままに溺愛してもっと甘やかしてやりたいところだが、あまりやりすぎても本人の自律心を駄目にするだけだろうから、本当に必要なぶんに留めている。


 甘やかし上手の彼女は彼女で、その辺りの手心を加えずに全力の愛情を注いだメロメロパンチをしてくるので、耐えるこっちが苦労するのだが。


「あ。でも前者……好きになったところと言われると挙げるのが難しいかもしれません」


「ええっ!?」


「僕はくるみさんという人間を表す箇条書きに惹かれたんじゃなくて、言葉にするのが難しいところ……敢えてむりに言葉にするなら、ぜんぶに惚れてるんですから」


 自らの発した言葉をもう一度手許でなぞるべく、瞳を閉じる。


 眠る前にこうしてくるみのことを思い浮かべるのが、一日を終える前の日課。


 高校生としては些か恥ずかしく女々しい話だが、近頃はそうしているとふいに猛烈に泣きたくなるのだ。長年封がされていた涙の堰が決壊してからは時々、嬉しくも悲しくもないのに訳も分からず切なくなって、勝手に涙が出そうになる。


 その正体が幸せゆえだということは、くるみと一緒にいるときの自分の心情と照らしあわせれば、明白だ。


 まるでこの深い思慕が彼女を、碧の心を占めては感情を揺さぶる概念へ押し上げ、昇華させたように。目許がじんと染みるような感覚が、今では心地いい。


「初めて逢った時は『守ってあげたいな』って思ってました。今はすこしだけ違います。一歩進んで、彼女の気持ちに対等に、大切にしたいし幸せにもしたい。僕にそう思わせるのはくるみさんのぜんぶが本当にきれいだからで——……こんな子は世界中どこを探しても見つからないって確信してます」


 とりあえず言いたいことは言えたので、ここで初めて友晴を見ると、箸を握ったまま逆上せたように真っ赤になっていた。


「……酔ったんですか? お水要ります?」


「いやいやいやいや違うからね! 君のせいだから!!」


「似たようなことは本人にもすでに伝えてますよ」


「そっそうなのか? いやけどここまで熱烈なのが返ってくるなんて聞いてるこっちが照れるところだよ……愛情表現がすごいな君は。さすが海外育ちというか」


 酒ではなく、氷の浮いたお冷のグラスをぐびっと呷ってから、


「じゃああの子は……こうしてちゃんと大切にされていて、君も本当に心の底から、娘を好きでいてくれているということだね?」


 見定めるように、酔いの覚めた今日一番まっすぐ厳格な目が、こちらを射貫く。


 碧はこくりと頷いた。


「はい。——……もし明日世界が終わるとしたら、今日という一日の全てで、迷わずくるみさんに会いに行きます。笑っているところを近くから見て、いつもどおりお喋りして。それが僕に取って一番価値のある事だから人生に後悔はないんです。それくらい本気だって言ったら伝わりますか?」


 友晴は、背もたれに寄りかかった。


「……やっぱり。君の答えは想像の斜め上を行くな」


 ふぅと吐かれた長い長いため息は、ぴんと引かれた糸のような空気を霧散させる。


「どんなに熱烈でも、一言ひとこと、慎重に選んでるんだってのが伝わるよ。それだけでもう、君が正直者で一途な人間なんだっていうのが、よく分かった」


「そうですか」


 つまりはお父さんのお眼鏡にかなう回答をできたのだろうか、と静かに瞠っていると、彼は通りかかった店員さんを呼び止めた。


 追加で締めの焼きおにぎりを二つ注文してから、席にもたれかかる。


「君がここまで正直に話してくれるから、僕ももうちょっと腹をわって話そうかと思うんだが……実を言うと娘が恋人を連れてくる日が来るなんて、想像もしていなかった」


 複雑そうな言いぶりの裏には、碧が捉えたとおり、きっといろんな感情が絡みあっているのだろう。


「僕と妻はそれぞれ親戚から持ちこまれた縁談をきっかけに結婚に踏み切ったんだ。自分が通って来た道だから、くるみにも親の責務としていい相手を見つけてきたいって妻は考えていたみたいでね。今日やたらとぴりぴりしていたのはそのせいだよ」


 まだほろ酔い程度は続いているらしく、外した眼鏡をクラッチバッグから取り出したクロスで拭いながらぼやく。


「でも僕はそうは思わない。妻と結婚したことを後悔したことは一度もないが、かと言って娘にも同じ道を押しつけようとは思わないんだ」


「……ふたりでここに来たのは、その話をするためなんですね」


「ああそうだ。このことはまだ誰にも話したことがないんだ。……もちろん娘にも」


 そうして友晴は、酒を片手に語り始めた。


今年最後の更新です!!

みなさま良い年末をお過ごしください!!

次の更新は1/1です!

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