第214話 はじめましてのご挨拶(2)
半年ぶりに訪問した楪家は、季節らしい何かが飾られてるわけでもなく、何もかもがそののままだった。シックなインテリアで統一された、これぞ豪邸という広々とした空間のリビングに案内されると、碧はソファに座るように勧められた。
お言葉に甘えて腰を下ろすと、右隣には拳二つぶん空けてくるみが、そして向かいにはご夫妻がそれぞれ落ち着く。
——かと思いきや、くるみの父はローテーブルに乗っかっていた雑誌を黙ったまま手に取り読み出す。
頼みの母もすぐに立ち上がると台所のほうへ去っていったので、碧とくるみは思わず目を配る。
「お父様……なんで今それを?」
「なんだ。いいだろう別に」
くるみの父は、よそよそしいままに雑誌を見つつぞんざいな返事をする。
まるで、ただ同席しているだけの他人ですけど何か? と言いたげ。我関せずな様子だ。
あるいは〈娘が彼氏を連れてきた〉という、女の子の父親としてはちょっぴり承服しがたい現実から目を逸らしていると言ってもいいだろう。
兎にも角にも、くるみが困惑するのもむりないことだった。
「碧くん……ごめんなさい。いつもはこんなんじゃないんだけど……」
「大丈夫。さっき言ったとおりだよ。今日は任せておいて」
へこたれた小さい耳打ちに、勇気づけるようにささやき返す。
「お父さんそれ何の雑誌ですか?」
立ち上がってそろそろ近寄ると、くるみの父はぎょっとしていた。
「な、なんだね急に。というかお義父さん……?」
「くるみさんのお父さんの略です」
「……ならいいが……」
「よかった! あっそれ全国の温泉特集ですか。旅行お好きなんですか? 僕あんまり温泉とか行ったことなくて。関東から近いのってえっと……登別でしたっけ?」
「それは北海道だ。近いのは箱根とかだよ」
「へーお詳しいんですね! おすすめとか教えてくださいよ」
「あ。いや僕は……」
その時キッチンのほうからくるみの母親が戻ってきた。
くるみは女子の平均身長と左程かわらないが、母はそれよりも拳二つぶんほど高いようで、見下ろされると貫禄も相俟って、近寄りがたい印象に拍車がかかる。
「秋矢くん……いえ、碧くんと呼んでもいいかしら?」
「はい。お好きなようにどうぞ」
「お昼にあわせて日本茶を淹れようと思うのだけれど、碧くんは玉露と煎茶どちらがお好みで?」
「どちらも好きですので、皆さんと同じものでおねがいできますか。僕だけ違うものでも手間でしょうし。あ、それか僕もお手伝いしますよ」
「いえ。ハウスキーパーの方にしてもらうのでお気遣いなく」
物言いはあくまで柔らかだが、娘の彼氏として認める気はない、言わば碧を客人と切り捨てるけんもほろろな響きもそこにはある。
だが取りつく島もないというわけではなさそうだ。もしそうなら、そもそも碧を家に招いたりはしないだろう。
くるみの母がキッチンに注文を伝言のように伝え、ソファに座り直す。
しばらくすると家政婦たる上枝が、大きなうるし塗りの寿司桶と、湯気の立つ煎茶をトレーで運んできた。
ふたりは面識がある。
取り皿を並べる際に一瞬だけ目があったが、ここは雇われの身として他人のふりをすべきと判断したのか。碧にだけ分かるほのかな笑みだけを残されて、上枝は一礼してキッチンのほうへと下がっていく。
なんとなく、それが上枝からのエールに思えた。
「今日しか都合がつかなかったとはいえクリスマスの昼間にお呼び立てするのにお茶だけっていうのも申し訳ないから、お寿司の出前を取ったの。たくさん召し上がってちょうだい」
「うわ、すごい。ありがとうございます」
四人前のお寿司がお行儀よく並んでいる。車海老やら雲丹やら帆立やら、高校生のお財布事情じゃなかなか手が届かないようなねたまで惜しみなく。
いまだに他人事を決めているくるみの父親をもちろん碧は見逃さずに、ぐいぐい話を振っていく。
「あっほら。お父さんも一緒にいただきましょうよ。海老とかお好きですか?」
「え。いや私は……」
雑誌をローテーブルに戻して、どこかへ行こうとしてしまうところで。
「お父さん。せっかく娘の連れてきたお客様なのだからご迷惑をおかけしないの」
静かにぴしゃりとお叱りを放ったのは、くるみの母——宮胡だった。
「あ……ああ」
子供の前で怒られた父は曖昧に頷き、しょんぼりしながら席に戻る。
やっぱりお母さんのほうが権力が上なんだ……覚えておこう……と目に見えないメモに残したところで、隣のくるみを見る。
もともと物静かな彼女はいつにもまして口数が少なく、金縛りにあったように動かぬまま、頬だけが赤らんでいた。
箸も持たずひざの上にきっちりお上品に揃えられた手に、さりげなく自分のそれをぽんと重ねれば、こわばりは僅かに解けて、細い指に隙間が生まれる。
表情もリラックスしたような笑みに染まるのを見届け、どちらからともなくするりと絡みあわせると、親指を優しく押さえつつ、碧は両親に対し言った。
「今日ここにきたのは、お嬢さんとおつき合いをさせて頂いていることを、ご両親にお伝えしたくて。お二人にとっての大事な娘さんを、僕も大切にしたいと思っています」
聢とした目で伝えると、二人の間にあった停滞した空気が、生まれたての風に吹きつけられたように、にわかに入れ替わった。
くるみの父は少し驚きが混じった表情で、慎重に言葉を選びながら言う。
「……いったいどんな子が来るんだろうと思っていたが、まだ学生なのにこんなにしっかりしているとは。近頃の若い子はどうも思慮に欠けると聞いていたが……君はあらゆる意味で違うようだね」
「いえ。僕もまだまだ未熟者ですよ。くるみさんのほうがよほどしっかりされてますし、一緒にいていろいろと勉強になってます」
「そうか……」
ひとときの空白が生まれたところで、すかさず宮胡が訊ねた。
「ところで今日私たちに会いに来たということは、もしかしたら貴方のご両親にも、うちの娘がすでに挨拶を済ませているのかしら?」
「いえ。えっと、きちんとした挨拶はまだなんですけど、僕たちがこういう関係になる前にぐうぜんばったり出会ってそれで打ち解けたと言いますか……。それがきっかけで僕の親もくるみさんとは仲よくさせてもらってます。くるみさんが紅茶と甘いもの好きだからって、今度一緒にカフェ巡りに行きたいなんて息巻いてました」
何気ないエピソードのつもりが、それは二人にとって、予期せぬものだったようだ。
「……くるみがまさか、そんなこと話してるだなんてね」
宮胡が小さく呟く。
それが誰に聞かせるでもないようなものだったから、碧は自分の話を続けた。
「ですから僕も……僕の親も、本当にいつもくるみさんにはお世話になっているんです。僕は事情があって一人暮らしなのですが、その存在にはすごく支えられていて。彼女にとっても僕とつき合うのは一つの大きな決断だったはずだと思います」
ふと隣を見れば、ヘーゼルの視線がぱちっとぶつかる。
碧が話している間に、いくぶんかの落ち着きは取り戻せたようだ。
穏やかにほほ笑みかけてみると、くるみも静かに笑い返した。
学校のように調律され切った、完璧な表情ではない。
ただの照れた女の子の——可愛らしい笑み。
両親はそれを信じがたいものを見る目で見詰めていたが、そのおかげか四人の空気は少しずつ柔らかいものになっていっている。
宮胡は、気になったワードを拾い上げたようだ。
「いま一人暮らしって仰ったけれど、それはご両親の仕事の都合とかかしら?」
「はい。父は海外に住んでいるんです。母は日本ですが会社の近くに居を構えてまして」
それにはくるみの父が返す。
「ああ……昨日くるみから少しだけ話は聞いたよ。碧くんはドイツ育ちなんだってね。まさか娘がそんな子を連れてくるとは。いや、駄目と言ってるわけじゃないんだが」
「やー分かりますよ。僕も妹が急に違う国の文化を持つ人を連れてきたら、本当に大丈夫なのかってはじめは心配すると思いますし」
急に相手陣に共感するようなことをあっけらかんと言い出した碧に、二人も呆気にとられたようだが、気にせずに言葉を紡ぎ続ける。
「でもだからこそ、今日はご両親には心配事を少しでもなくしてほしいと思っていて。僕に関することならなんでも、隠さず話すつもりで来ています」
なにも、秘策があるわけじゃない。
ただ人の信頼を得るには、自分の底までを明るみにして手渡す。
それが最低限、必要なことだと思ったから。
二人は目をぱちくりさせた。お茶で喉を潤してから、くるみの父が言う。
「……なんというか君は不思議な子だね。まるでいい大人と喋ってるみたいで……いや、それもまた違うか。むしろ大人でここまで開けっぴろげで誠実な男こそ、探してもなかなかいないだろうな」
「そんなことはないですよ」
まだ手をつけていなかったお寿司に手を伸ばし、折角なので帆立を一貫いただく。もぐもぐ味わっていると、しばし何かを考えてからくるみの父が訊ねてきた。
「碧くんと言ったかな。……君、大学生? お酒は嗜めるかね?」
「え? いえ。僕まだ未成年なので。それと申し遅れたのですが、くるみさんとはクラスも高校も同じなんです」
どうやらその辺の情報は伝え忘れていたらしい。
隣を見ると「あ」と目を丸くしたくるみがいて思わず小さく笑ってしまった。
くるみは時にうっかりさんなのだ。
「そうか。この状況でずいぶんと落ち着いているもんだからつい……。まあ堅いことは言わず、今日は何かの縁だ。一杯つきあいなさい」
と言うや否や、くるみの父は立ち上がった。
横から宮胡がすぐさま糺問する。
「ちょっとあなた。どこに行かれるの?」
「彼はなんでも隠さず話してくれると言ったんだ。男同士すこし二人で話をしてくる」
「はい。行きましょう」
問いには答えずこちらを手招きするので、碧も一も二もなく席を立つ。
「碧くん……? 大丈夫?」
くるみは遠足のバスにおいてけぼりにされ途方に暮れた子供のように、ぽつねんと碧の名を呼ぶ。
なんせ急展開なので気持ちはわかる。碧のほうも、彼女を母と二人きりに残すのに気がかりがないと言えば嘘になるが、ここで遠慮するのも角がたつだろうし——何よりわざわざ連れ出すということは、ここじゃ話せないことがあるのかもしれない。
「ふたりで話してきちんと打ち解けてくるよ。くるみはここで待ってて」
「う、うん……」
首肯と裏腹に尚も心配そうな様子が解けない可憐な面差しに、碧は去り際にっと口角を上げてみせると、彼女の父を追ってリビングを出ていった。




