第213話 はじめましてのご挨拶(1)
イブの日は、昨晩からの曇りが続く空模様でスタートした。
今日は大事な予定がある。八時間のつきあいの温かいブランケットとは涙を呑まず早々にお別れしたあと、眠気覚ましに熱いシャワーを浴びて出てくる。
もちろん〈人生最大のクエスト〉に挑戦しに行くため。
言いかえればそれは、くるみの実家に挨拶しに行くことだ。
まさかクリスマス前日になるとは思っていなかったが、今年中の挨拶が叶うのは僥倖だ。
ご両親は忙しい合間を縫ってくれているだろうし、直接会った時に改めてお礼を言うつもりである。
気象予報士のお姉さんに耳を傾ける限り、普段よりも冷えこむらしい。夕方からは氷点下で、雪が降るかもしれないという。
それらを淡々とチェックし終えてから、朝ごはんにはフルーツヨーグルトと余ったシュトーレンの最後の切れはしを黙々と腹に詰めたのちに、シャツにニットを重ねて下は黒のチノパンという格好に着替えた。
制服も考えたのだが、高校生じゃなくなったあとの話をしに行くのだから、少し背伸びでもフォーマル寄りの普段着のほうがいいと判断した。
駅での待ち合わせならまだしも、家におじゃましに行く時はあまり早すぎても迷惑になるので、約束の三十分前——午前十一時に、昨日お茶の専門店で買っておいた冬季限定の、葡萄のスパークリングワインの香りがついた紅茶缶を手土産に持って、家を出た。
住宅街といえど、町はふわふわ浮かれている。
どこかの民家からはフライドチキンのいい匂いが届き、庭にはぴかぴかと電飾が光る。
通りがかりにあったパティスリーは予約客らしき親子がケーキの箱を大事そうに抱えて出てきたほかに、外にも何人かによる列ができていた。
多くの人にとっても大事な一日だろうけれど、碧にとってはきっとそれ以上に、責任を伴う大事な日だ。
幸いにも、碧はここぞという大事なシーンには開き直って一切の雑念は吹き飛ばすという世にも不思議な特技——湊斗曰くただ図太いだけ——があるので、人前であがる事とはほとんど縁がないのだった。
〈そろそろ家の近くに着くよ〉
くるみにメッセージを送り、十字路を曲がる。
しばらく歩を進めると、家の前に見慣れた亜麻色の髪の少女が立っていた。
外は寒いのに、わざわざ迎えに出てくれたのだろう。厚手のカーディガンを羽織りながら白い息を吐いてきょろきょろし、こちらに気づくと、ぱたぱたとスニーカーを鳴らして近寄った。
ヘーゼルの瞳がこちらを映して甘く揺れ、柔らかく細まる。可愛いな、と眺めているとくるみが必要以上に明るく言った。
「おはよう碧くん。時間ぴったりだね」
「昨日は寝れた?」
「それなりには。目標は十時に寝ることだったんだけど、ぐっすり眠れるようにホットミルクとかアロマとかあれこれ余計なことしてたら却って目が覚めちゃって……覚えてないけれど多分ほんとに眠れたのは十二時くらいだった」
やけに饒舌なのは、緊張ゆえだろう。
「お父さんとお母さんはどんなかんじ?」
「そわそわしながら待ってる。……多分あっちもあっちで緊張してるんだと思う」
それを聞いたら、少し肩の荷が降りた気がした。
「碧くんはリラックスしてるみたいでよかった」
「だって今日は僕ががんばる日でしょ」
「私もがんばるから。碧くんは来てくれただけで、もうがんばってると思う」
「僕についての判定だけは甘いよなぁ」
もちろん勉強を教えてもらう時なんか、厳しくするところはとことん締めるが、それにしたって碧についての甘さは別腹な気がする。
「もう。ほら案内するから」
くるみがぎこちなく手を引いてくるので、碧もそれに任せて、彼女の開けてくれた門扉を潜り抜けた。
庭先にある二階建ての家は改めて見ると、人間が居住する建物というよりは、現代風なデザインの博物館のようだ。
玄関ポーチまで続く小径の横に植えられた花は、これも上枝が世話をしているものだろう。前回はマリーゴールドだったが、今日はクリスマスローズで、つき合い始めてからの約半年という時間を思わぬ角度から教えてくれる。
車回しを突っ切り、ドアの前に辿り着くと、くるみが静かに深呼吸をし始めた。
「大丈夫だよ。今日は僕がなんとかする」
「う。うん」
「……押していい?」
「待って!」
「うん」
遠慮なくチャイムを押す。
「あ! 早いってば!」
「一秒待った」
「碧くん一秒は待ったって言わないのよ……」
ぴんぽーんというくぐもった音が家の中からかすかに響くのを聞き届けてから、居住まいを正しご両親の訪れを待つ。
一秒、二秒、五秒……ほど数えたところで、しびれを切らしたくるみが自分から家に碧をあげようと扉に手を伸ばした瞬間。玄関が重たそうに開き、夫婦が姿を現した。
何か推し量るより、もちろん真っ先に挨拶。
四十五度のお辞儀をする。
「はじめまして。くるみさんとおつき合いをさせていただいている、秋矢碧と申します」
目線を上げれば、今日初めて会うくるみのご両親は玄関先で、一秒間かけてこちらを品定めするように眺めると、それぞれが自己紹介をする。
「今日はよく来てくれたね。はじめまして。くるみの父です」
「母の宮胡です」
くるみの父は私服。シンプルなワイシャツの格好だった。
一見するとそこらの庶民と同じようにも見えるが、格式高さは身につけたものの清潔さによく現れている。服はしわひとつなくアイロン掛けされ、細い銀縁の眼鏡は曇りひとつなくクリア。白髪混じりのグレイヘアーはむしろ上品さすら醸している。父親が、碧もよく知るホテルの系列を所有するとくるみから聞いた時はさすがに驚いたが、それもさもありなんと思わせる引き締まった、そして穏やかな印象をこちらに与えていた。
——けれど、どこかその表情はどんよりと沈んでいるように見えた。
そのいっぽうでくるみの母は、落ち着いた光沢のあるグレーのテーラードを羽織り、下はひざ丈のタイトスカートとフォーマル寄りだ。今日は日曜だが、もしかしたら午前中は仕事があり、帰宅したばかりなのかもしれない……と思わせる格好だった。
碧の両親よりは一回りほど歳が上のようだが、彼女に血を分けたひとりというだけあって、かなりの美人。おまけに大学教授というだけあって貫禄がある。
まるで学生の心血注いだ卒業論文に対し辛口の意見を出すかのごとく、どこかぴりりと険しい眼差しをこちらに注いでいた。
楪家についてはまだまだ分からないことが多いが、よく来たねの言葉とは裏腹に、自分があまり歓迎されていないということはとりあえず察した。
しかし残念な気づきをおくびにも出さず、碧は努めて冷静に、それでいてなるべくいい印象を残そうと柔和に一礼する。
「今日はお忙しいなか時間をいただき、ありがとうございます」
「ああいや……ここでの挨拶もなんだし、上がりなさい」
「おじゃまします。あっこれよかったら皆さんでどうぞ」
「あら、わざわざありがとう。頂きますね」
手土産を渡せば、なお戸惑いと警戒の解けないふたりが早々に家に引っこむので、碧も一歩先に進み、ラフな格好でいいという事前情報どおりに履いてきたスニーカーの靴紐をするりと解く。
後ろからくるみがはらはらしている気配が伝わってくるが、振り返らない。
ただ、両親には見えない角度から、細波を宥めるようにグッドサインを送った。




