第212話 「彼氏だから」(3)
碧とイルミネーションを眺めた翌朝。
初陽にさんさん注がれ目覚ましより早くベッドから降りたくるみは、昨日のまでの重たい気持ちが嘘のように、すとんと何かが落ちたような、清々しい気分だった。
ドレッサーで髪を梳かして、ネグリジェから学校の制服に着替えると、その他の身支度を手早く整えて、らせんを描く大理石の階段を一段ずつ確かめるように下る。
「おはようございます。お嬢様」
吹き抜けになった玄関のホールでは、一仕事を終えた上枝が迎えてくれた。
「上枝さん。おはようございます」
「本日はお早いですね。お父様とお母様がダイニングにお揃いですよ」
「……うん。ありがとう」
今度は掃除のためにクロークへ赴く彼女を見送ってから、くるみは廊下の突き当たりでひとつ深呼吸をし、ダイニングの重厚な扉を押し開ける。
きぃと蝶番がか細く鳴き、細く差しこむ眩い朝陽に目を細めた。
長いクロスの掛かったテーブルには、すでに食事が並んでいた。焼きたてのパンと半月のような黄金のオムレツ、温野菜をそえた鮭のソテーにスープ。完璧な朝のラインナップだ。
そして上枝の教えてくれたとおり、くるみよりやや出発の早い両親は並んで座り、配達されたての日経新聞を片手に、すでにあらかた皿の上を平らげていた。
やがて父のほうはこちらに気づくと挨拶をくれる。
「ああ、くるみ。おはよう」
「おはようお父様」
立ち話も何なので自分の席に座ると、忙しい時間とはいえ久々に話す娘の近況が気になるのであろう。父が食後のコーヒーカップをソーサーに戻し、先に尋ねてきた。
「くるみは学校のほうはどうだ?」
「……うん。友達もできたし、勉強もばっちり。問題はなくやれてる」
「そうか。よかったな」
父は安堵したように頷くと、再び市場推移の欄に目を落とす。
くるみはというとフォークもナイフも握らず、昨日貰った碧の言葉を思い返していた。
『僕たちならきっと大丈夫』
——怖くてずっと、先延ばしにしていた。
けど思い立ったが吉日。善は急げだ。
「あのっ!」
これから話す報告のある種の気恥ずかしさゆえか、思いの外あった士気ゆえか、ボリュームの調整に失敗した。
ふたりとも驚いたようにこっちを見ている。
赤くなりながらも、その反動で今度はやや小さく抑えて言う。
「……お父様とお母様にお話があります」
「話?」
「ふたりに会ってほしい人がいるんです」
まさかその相手が学校の友達とは言うまい。
ここまで言えばもう、娘に彼氏がいることは十二分に伝わっているだろう。
その証左に、父はおかわりのコーヒーを注ぐ手を止めて目を丸くして、母は静かにじっと腕を組んでいる。
それが一体どういう種別のリアクションなのかが分からないのが怖いが、ここまで来ては止まれない。
いろんな感情ゆえに加速する鼓動を宥めるように、ゆっくり呼吸をする。
「ふたりとも忙しいのは分かっているけれど、今年中に空いている日はないですか? 出来れば……早いうちだと嬉しいです。おねがいします」
年末という一番忙しい時期は承知の上でのそれは、今まで一度たりと言ったことがない、人生最大のわがまま。
孝行のために、仕事のじゃまをしてしまわないようにと、家族のお出かけすらねだったことがない。今になって振り返ればもっと甘えてもよかったんじゃないかと思うが、きっと両親は娘からの数少ない頼み事だからこそ、真剣に聞いてくれるはずだ。
くるみの予想どおり、二人は驚きを共有するように視線をぶつける。
母が確かめるように口を開いた。
「その人こそが、くるみが縁談のお相手をお断りした理由なのね?」
「はい」
もう、隠す必要もない。
真っ直ぐ受け答えすると、母はしばらく瞑目してから、一言。
「……分かりました。いいでしょう」
追加でもう二、三回のラリーはあるかと踏んでいたが、あっさり許可が降りた。
予想外の反面やっぱり碧の言ったとおりだ。
母も少なからず、くるみを分かろうとはしてくれている。
「じゃあ早速……いつにするか調整はできそう?」
あまりに順調に約束を取りつけられたことにもうすでに気分が舞い上がりそうなのを押し留めて、努めて冷静に次の相談に進むと、その横でカレンダーアプリを開いた父が、拡大させたそれをこちらに見せる。
「今年で、父さんと母さんの予定が空いているのはこの日だけだが、構わないかね?」
「え。……あっ。その日って」
くるみは危うく余計なことを口走らせるところだった。
——何故ならそれは、碧とデートの約束をしていたクリスマス・イブの日だったからだ。
また現実の季節に作中の季節が追い抜かれてしまいましたね。
今日はクリスマスですが、箱スノワールドはもうしばらくクリスマスが続きます。
次回も読んでいただけると嬉しいです。
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