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第211話 「彼氏だから」(2)



「私はたぶん、碧くんの気持ちが離れるのが……怖いんだと思う」


 ——その気持ちは、一緒に住む提案をされた瞬間に芽生えたものだった。


 もちろんこの上なく嬉しかった。それは嘘偽りない本音だ。


 自分との将来を真剣に考えてくれている……それはくるみにとっては一ヶ月も早くにフライングで枕許に訪れた、夢に焦がれたクリスマスの贈り物のようなもの。


 けれど、自分もまた将来を考えたい大好きな人からの誘いに、今の自分じゃ将来を考えるのが難しい理由が、そこにはあった。


「……碧くんが私のこと、ひとりの女の子として見てくれているのはよく知ってる。けれどそのひとりの女の子である私さえ、きっといいところばっかり見てもらっていて、私の悪いところなんか目についてないんだと思う。けれど、一緒に暮らしたら三百六十五日一緒で、そうも居られないの……分かるでしょう?」


 もしかしたらこんなの、夜寝る前になんの脈絡もなく思ってしまうような、あるいは帰り道のコンビニで誰もが手に取ったことのある定番品のような、ありふれた恋煩いかもしれない。


 でも少なからず、真剣に真っ当に正当に思い詰めて、それでも自己解決しなかった。


 だってそれは恋人の言葉を貰わない限り、解けるものでもないのだから。


「……前に碧くん、私のこと、綺麗で真っ直ぐって言ってくれた。その言葉は今でもずっと私の支えになっている。うれしくて宝物みたいなわたしのお守り……」


 だけど、と続ける。


「……本当は私は、あなたが思ってるほど純情でもなんでもなくて、綺麗なだけの生き方も本当のところはできていなくて、あなたと出逢うまで知らなかった感情の裏にはちゃんと嫌な感情とかも人並みに持っているの——知らないでしょう?」


 言い切ってから、こんな拙い説明じゃ分からないだろうなと、くるみはほろ苦く笑って首を傾げた。


「日本語って難しいね。私の言いたい事……伝わってる?」


「うん。伝わってる」


 笑ったり冗談めかすことをせず頷いてくれる碧に、じんと涙が滲みそうになるのは、間違いなく寒さのせいだけじゃないだろう。


 碧はありのままの等身大のくるみを見て、好きと言ってくれた。


 でもそれは、一糸纏わず何もかもぜんぶを晒す事とは、イコールでは結ばれない。


 本当は隠しているもの——隠すべきものだってある。


 他の人より学校の成績がいいことを、努力量を盾に尊大に思ったことがある。


 苦手な人に、優しくできなかったことがある。


 誰かが困っているのを知りながらも、手を貸すべきか迷って、何もできず結局あとから後悔したことがある。


 勿論それだけじゃない。碧の友人の颯太に告白された時、相手の気持ちではなく、これを許可した碧の感情を真っ先に探ってしまった。碧に親しげに話しかける女の子を見て、嫌なことを考えてしまった。好きな人にはよく見られたいっていう計算だってする。親との大事な対話からも一年間逃げ続けた。挙げれば枚挙にいとまがない。


 こんなの、とても誉められたものじゃない。


 一緒にいればこんなの、ずっと仕舞っておけるとも思わない。


 いずれ嫌になられるくらいならいっそ——と逡巡しかけて強引に、そう思われないようになろう、と解釈をひっくり返した。


 なのに鏡を覗けば、現実として存在するのは、親の言いなりになり煩わしさを一つとして跳ね除けられない、小心者で嫌になるほど繊細な自分。


 積み重ねた忸怩たる思いを、くるみはただひたすら碧にぶつけた。


「自分のことを肯定できるのは自分だけだって、いつもなら思うけど……でも、自分の嫌なところを一番分かってるのも……また自分で」


 烈しい言葉の雨はやまない。やまずに降り注いで、くるみ自身を傷つけていく。


「本当は優しくもなんでもなくて、そして自分の進む道を選ぶのに母ひとりを説得するほどの立派な理由も持てない。一度の失敗でこんなにしょげちゃう脆い人間で——そういう、毎日一緒にいないと分からないところがきっとまだあるの」


 ぽす、と重力に沿って、力のこもらない柔らかな拳が碧の体に振り下ろされる。


「ずっと一緒にいたいって思ってたのはほんとにほんと。でも、それでもやっぱり……嫌なところを見せて嫌われるのが、怖いって思ってる。今だって情けないやつだって失望されるのが、すごく怖い……怖いの」


 ぽすり。ぽす。


 何度目かの拳を力なく持ち上げたところで——次の八つ当たりは叶わない。


 その小さな両手が、碧の大きなそれらに優しく絡め取られたから。


 ぱちりと瞬きをしていると、優しいささやきが耳を衝く。


「知ってるよ。……知ってるんだ」


「あ、あおくん?」


「上手く言葉にできるか分からないけど、聞いてくれる?」


 あのね、と碧は真剣な目で言う。


「確かにくるみは引っ込み思案だし、気持ちを内に秘めすぎて他人とすれ違うところもあるし、優しさとか真剣さが裏目に出て不器用なところも、前までは自力でなんでも解決しようとがんばりすぎるところもあった」


 思いのほか貶された。


「やきもちも焼けば案外子供っぽいとこも多い。おまけにかなりの負けず嫌いだ」


「な……なんなの?」


 自覚している欠点を述べられて思わず、困惑と同時にむっとしてしまう。


 ——ほら、こういうところ。自分から吹っ掛けておいて機嫌が傾くところ。


 また一つ嫌なところに目がついてしまうが、碧は全く意に介さずに話を続ける。


「でもさ、それ以上にくるみがお喋りしてるのを聞くと温かい気持ちになるし、守ってあげたいなっても思う。家柄を理由に自己を限定しないところなんか、本当に何度でも惚れ直しちゃうくらい格好いいよ。近頃は、素直に甘えられるようにもなったよね。優しいのに理由があってもなくても同じだと僕は思う。説得する力だって、これから身につければいい。もちろん嫌な感情がただのひとつもない人間がいないことくらい、百も承知だ」


 それだけでも、負の感情を撤回する励ましとしては十分すぎるくらいだったのに、きわめつけは次の一言だ。



 

「完璧な人間はこの世にいない。駄目なところも誰にだってある。それでも自分の繊細な感覚を守り続けて、真っ直ぐきれいなくるみで在ろうとすることそのものが美しくて。そういう君の気高いところに、僕は惚れてるんだよ」




 突然の莫大すぎる愛の言葉に唖然とし——


 それからかっかと猛烈に火照りながら、くるみは尋ねる。


「え……でっでも……たとえば私が全国模試の順位で見知らぬ誰かに負けたからって、家に帰ってじだんだ踏んでたら、そんな子供っぽいの……嫌でしょう?」


「え? おもろいなって思うけど」


 きょとんとした碧は、いつもよりいくぶんか幼く見える。


 こちらの自己嫌悪をまるで理解していないと言わんばかりのその様子が、却ってくるみの烈しい詰問に火をつけた。


「じゃあっ。優しくする相手を選んでいたら? 誰にでも優しくしているひとが、実は裏でいろんなこと考えてて分別していたら、どう思う?」


「まあ人間だもんな。誰だってやるよそれくらい」


「やきもちだって、これから沢山妬いちゃうと思うの」


「愛情の裏表、好きの証だよ」


「も、もし他に嫌なところが出てきたら……?」


 矢継ぎ早にぶつけたはずの衝動はもう削ぎに削がれて、へにゃへにゃになっていた。


 既に底に足がつかず溺れそうなほどに、彼からの深い愛は際限なく伝わってきている。


 それでもまだ足りなくて、確かめたくて、試すようなことをくるみは訊いてしまう。


「くるみが自分を嫌って思ってるのが、そのまま僕に当てはまるとは限らない」


 確かな意志が宿った瞳は、逸らされることはない。


 圧倒されるほどの包容力でくるみを包み続ける。


「今後も長い生涯を歩んでいれば、自分の底に嫌なところを見つけてしまうだろうし、人間らしい感情の揺らぎも何度だって訪れると思う。けれど、ただの一瞬にどれほど嫌な感情や邪な思いが乗っていたって、その人を穢す理由にはなり得ないと僕は思うよ」


 つまり、と区切ってから、碧は屈託なく笑った。


「その度に『くるみ』っていうすごく人間味にあふれた可愛い女の子を知って、また好きになれるってことでしょ。そんなの最高じゃん」


 もう言葉は出なかった。


 碧はきょとんと首を傾げる。


「それがずっと卒業後のことを迷ってた理由?」


「……うん」


 初めは自分でも気づかなかった。


 ただ親とぶつかる事へのためらいだと思っていた。


 けれどふたを開けてみれば全く違くて、自分はただ碧と四六時中一緒にいることに、自分が嫌われてしまうことを怯れているのだと気づかされた。


 今振り返れば、その迷いを、親には見透かされていたんだと思う。


 論理を武器にした説得でも取りつく島もなかったのは、そういうことだ。


「そっか。僕……話を聞きながらずっと思ってたことがあるんだけどさ」


 雑踏はこちらを気にも留めず、木々の輝きに目を奪われている。


 碧はイルミネーションの光る梢には目もくれず、ただくるみだけをまっすぐ見つめる。


「どれだけ迷って躊躇していても、一度はお母さんに話せたってことは、自分の思い描く進路を叶えたいって意思はくるみのなかでは失くなってないんでしょ?」


 くるみの揺れる瞳から、碧は想いだけを丁寧に汲み取った。


「こうして僕に気持ちを伝えてくれたってことは……失くなってないんだよね」


「……うん」


 そっか、と碧は呟いた。


「やっぱり進路のことに口出しはできないと思う。けれどくるみがちゃんと納得して決めたことなら、僕と一緒にいる道でも、そうじゃない道でも……それがどんな道だって、僕は応援し続けるよ。それは親御さんも同じだと思う。本当に娘の気持ちを尊重する気がゼロなら、くるみの相談に耳を傾けたりはしなかっただろうし」


 穏やかな語調が、さらに丸みを帯びた。


「迷いを振り切って本気で伝えれば、きっと気持ちって伝わるものだから。だって今、僕にはくるみの気持ちが過去一番に伝わってきてるもん」


 それに、と彼は言う。


「くるみは同じ学校に行くつもりだって言ってくれているけれど——もしくるみが違う学校に進んだとしても、もしそれがちゃんと自分を尊重して選んだ結果なら、僕は君が嫌って言わない限り、離ればなれになる気はないからね」


 少し高いところにある黒曜石の瞳が、少し照れたように細まった。


「その時はまあ、一緒には住めないかもだけどさ。週末に時間をあわせて会う事もできるし、それがくるみの最善なら、僕は心から納得したうえで君の大学まで会いに行くよ。オーストラリアからはるばる飛んで来るよりはずっと近いだろ」


「どうしてそんな……私のために……そこまで」


 碧が何を言わんとしているかは、なんとなく分かっている。でも、碧の言葉で聞きたかったから、くるみは分かっていない振りをした。


 そしてきっと彼も、くるみの気持ちを分かったうえで言ってくれる。


 あっさり回答をくれるのだ。


「それは僕がくるみの彼氏だからだよ」


 断言した彼は、こちらの手をまるで壊れ物を扱うように、丁重に拾い上げる。


「ちょっと手貸して」


 くるみの指を優しく折り畳ませると、両手の拳を上からきゅっと包んできた。


「こうやって親指を握ると、幸運は逃げなくなるんだって。ドイツに伝わるおまじない」


 その語り口も愛おしむようなもので、手を握られただけなのにまるで全身全霊で抱き締められたように、温かい気持ちになった。


「……ほんとだ。なんだか幸せな気がしてきた」


「もう? 早いな」


「碧くんと出逢えた時点で私はもう、これ以上ないくらいに幸せ者で贅沢者だもの」


「あはは……自分でそう断言できるくらいならもう大丈夫だよ。()()()ならきっと大丈夫」


 君ならじゃなくて——僕たちなら。


 こうやって彼は、くるみの問題を自分事にすり替える。


 その優しさがどうしようもなく温かくて、あたたかい。


「……僕からくるみにおねがいしたいのはひとつだけ。前に挨拶したいって言ったでしょ。僕を会わせるように、取り計らってくれる? くるみは十分がんばった。次は僕が、できるかどうかは分からない……けど、僕なりの立場から話をしてみるよ」


「うっうん。明日の朝なら二人ともいると思うから……その時に」


「豪華客船に乗ったつもりで、とまでは言えないけれど、泥舟にはならないように舵取りに気をつけるから。僕に任せてみて」


「ふふ……うんっ。信じてる」


 小さな光。ゆらめく、ほのかな光。


 視界には天国が落下してきたような美しい様相がどこまでも続いている。


 でも何より、真冬のどんなイルミネーションよりも碧の言葉こそが輝いていて、自分を導いてくれることを、くるみは知っていた。


 碧くん、と愛おしい人の名前を口のなかで転がす。


 ——やっぱりあなたは私の……眩しい光の道しるべだ。


さすが主人公という回でした。

それとメリークリスマスイブです!

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