第210話 「彼氏だから」(1)
東京駅近くの丸の内には、この冬の時季にイルミネーションのライトアップがされる。
まだ若い夜に沈んだ美しい駅舎から皇居へ続く行幸通りは、オレンジの街路灯と数えきれない光を実らせた木々が、延々と立ち並ぶ。それを見るがために訪れた人たちが、時折足を止めながらゆっくりと幻想の世界を歩いていく。
——かしゃり。
斜め上にスマホ持った腕を伸ばしながら輝く世界を切り取ったくるみは、その美しい光を、揺れる瞳で見つめていた。
「へー。夜でもきれいに撮れるもんだね」
横から上体を屈めてのんびりと覗きこんでくるのは碧。
物はついでと、インカメに切り替えてツーショットを一枚。
ちゃっかりさりげなく抱き寄せてきた碧と、妙に頬の赤い自分も、小さな箱に記録として刻まれる。他にもカメラロールの年輪には、新たに今日の写真が何枚も追加されていた。
〈東京駅までこれる? 到着する時間わかったらホームに迎えにいくから教えて〉
とLINEで言われたのが、つい一時間前。
碧はマイペースなくせにこちらの予定や都合を徒に乱すようなことはしないタイプで、予定はいつもくるみを第一優先としてくれる。
だから急なお誘いは珍しく、少しばかり驚いた。
けれどなにはともかく久々に会えることへの嬉しさが全てを上回ったから、慌ててクローゼットを開き、時短のお洒落をして家を飛び出したのだ。
お洋服の上下の組み合わせを考える時間が惜しかったから、コーディネートは一番お気にいりなワインレッドのコーデュロイワンピースを着て、コートの下にはリバーシブルのカーディガンを挟み、誕生日プレゼントに親友から貰ったリップで最低限の彩りはそえている。
でもやぶから棒に、東京都の玄関口を指定だなんて。
まさか私の身におきたことを察して駆け落ちのためにこのまま新幹線に乗ってどこか遠くへ旅に……? いやそんなわけないよね……? と少なからず混乱していたが、くるみの手を引いた碧はすんなりと改札外へ出たので、とりあえず今日中には家に帰れそうなのが分かり、ほっと愁眉を開いたのも、ついさきほどの出来事だ。
「……ところで碧くん」
「ん?」
「今日はいきなりお誘いだなんて、どんな風の吹き回し?」
「彼氏風を吹かしてる」
「なにそれ。へんなの」
「くるみはこういうきれいなの好きかなって。……ていうか、本当に好きなの知ってるよ。僕くるみのことならなんでも知ってる自信あるし」
照れながら、得意げになって言ったのがものの見事に的中してるのだから、彼は凄い。シャンパングラスに飛びこんだような輝かしい眩さが、後光のように差しているのだから余計、尊く思えてしまう。
「ふふ。大正解です。……あのね。実はわたし碧くんを好きになった時から、こういうロマンチックなデートをするのに憧れがあったの」
「え、そうだったの?」
「なんでも知ってるって言ったくせに知らなかったの?」
「いや、きれいなものとか可愛いもの見るのは好きなのは知ってたけど、ロマンチストだとは思わなかったよ。もっとこう、こど……じゃなくて現実主義者かと」
「あっ。今子供っぽいって言おうとしたでしょう」
「……くるみ辞典に追記したので許してくださいお嬢さん」
確かに自分は同年代より少しだけ大人びている節があるが、かといって年頃の少女らしいものに関心がないかどうかで言えば、全くそんなことはないのだった。
ドラマの恋愛のように彼氏の碧としてみたい事、行ってみたいところも山ほどあるし、実は大学生がしているペアリングにも密かに遠い憧れを抱いてる。
——幸福だから今のままでも十分だけど。
淡い期待は、そっと心の箱に仕舞っておく。
「全く。しょうがないので、今宵に免じて許して差し上げましょう」
相手に倣うように芝居がかった口調でくるみは言うと、つないだ手ごと碧のコートの大きなポケットに、ずぼっと突っこむ。自分より高い体温が悴みを穏やかにほぐしていく。
少し照れた風な碧は、誰にも見えないところで手をにぎにぎしながら視線を上向けた。
「けど、言ってくれたらいつでも連れてきたのにな。去年でも」
「おつき合いする前におねだりしたら好きって伝わっちゃうでしょう。ばか」
「そんな可愛いおねだりがあれば、くるみの彼氏になれたのあと数ヶ月は早かったかもな」
「もう。私も君も恋愛は初めてだから、そんな大胆なこと出来なかったはずだもん」
お互い分からないなりに、手探りでようやくここまで辿りついたのだ。くるみからしたら初めての恋を結実させたそんな不慣れな道程さえ、愛おしいと思える。
「何処かの誰かさんは、僕のことドッキリさせる試みばっかりしてたけど?」
「それを言ったらどこかの誰々くんだって、自覚なくこっちにドキドキの爆弾放ってきたんだからね?」
「それは……覚えてないです」
「自覚ないんだからそれはそうよね」
半分笑って半分呆れる、という器用な表情をするくるみ。
ぐうの音も出ない風情で困ったように眉を下げる碧に、思わずくすくすと喉が鳴った。
「でも……こうしてロマンチックな気分に浸れてるからいい」
「あはは。天体観測もだけどさ、くるみも案外夢見がちだ」
「——……うん。そうかも」
夢見がち。
そう思えるのは碧が、いつでもくるみを引っぱってくれているからだ。
でも一人に頼りきりなのはくるみの善しとするところではない。望むらくはどちらかだけが重しになるのではなく、互いを尊重し寄りかかりつつも全力で支えあえるような、そんな関係。
しかし現状、自分で動いたクエストも、母の承諾は得られず結局は失敗に終わってしまっている。
碧にそれを伝えれば、少なからず残念に思わせてしまうだろう。碧は優しいから言葉にはしないだろうけれど多少は期待外れに思ってしまうはずだ。
その反応を想像するだけでくるみは、怖くて目が合わせられなくなると言ったって、全く間違いなわけじゃない。
間違いじゃないけれど……でもそれだけで、今の気持ちの表現として事足りるわけでもなかった。
そして大好きな人に喜怒哀楽を見せ、頼り甘える事を覚えたくるみには、それを自分のなかに秘めたままにする気もない。歩みを止めると一歩前に出て、碧の肩におでこを預ける。
幸いにも辺りは恋人だらけ。こうしていても悪目立ちすることはない。
「……進路のこと」
碧にだけ届くような、微かな呟きを落とす。
「もしかしたら……碧くんと同じ学校……いけないかもしれない。離ればなれにならなくちゃいけないかもしれない」
「……————」
碧は何も言わない。
なにも言わずにただくるみの体をさりげなく抱き寄せ、静かにコートの上から背を宥めるようにさする。話を催促することも、勝手な想像でなぐさめることもない。
本当の優しさとは、温かさと思い遣りとは……こういうことを言うのだと思った。
だからこそくるみは、自分の素直な思いの丈が、気づけば口を衝いて出ていた。




